起重機とクレーン船
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クレーンと起重機船の世界
横浜港のハンマーヘッド・クレーン(50トン、1913年)
関東大震災で東京が壊滅して、4年後の1927年の夏のことです。
詩人の北原白秋は、隅田川の吾妻橋の架橋工事について、こう記しました。
《起重機、起重機、起重機、起重機。
生きたる鉄、鉄柱、鉄鋼、鉄網。
近代の神こそはまさしくその斜塔の頂辺に座す。
空は碧く、雲はおそろしく美しい。(中略)
丹朱のガードとガード、宙には突き出す鉄腕の玻瑠球、昼は無色だが夜は煌々たる紫か。》(『大川風景』)
東京では昼も夜もなく復興工事が進んでいたことがわかります。吾妻橋は、1931年に完成しました。
やや場所がずれますが、東京都復興記念館にある「小名木川筋大横川交差箇所模型」という模型には、当時活躍したクレーンが正確に作られています。
小名木川筋大横川交差箇所模型(1929年)
そんなわけで、今回は、日本の発展とともにあったクレーンの世界を歩きます。
重いものを持ち上げるクレーン(起重機)自体は、紀元前からありました。
浮力の原理を発見したアルキメデスは、紀元前214年、シュラクサイ包囲戦に参加し、次々と新兵器を繰り出します。ねじりバネを利用した「投石機」、丸太を当てて城壁を壊す「破城槌」などです。
そんな兵器のなかに「アルキメデスの鉤爪」と呼ばれるものがありました。クレーンの先に鉤爪がついていて、近づいてきた敵艦を引っ掛けて転覆させるものです。
ジュリオ・パリージが描いた「アルキメデスの鉤爪」(ウフィツィ美術館/ウィキペディアによる)
簡単にいうと、クレーンは、「動滑車を使うと力が半分になる」という滑車の原理と、「断面積が10倍なら10倍の力になる」というパスカルの原理などを利用して、重いものを持ち上げます。
日本で最初に使われたクレーンも、滑車を利用したものでした。
東大寺の大仏は、855年の地震で頭が落下、あまりに巨大すぎて誰も修復できませんでした。
ところが867年、斎部文山が「ろくろ」を使った「雲梯之機」というクレーンを使用し、頭を持ち上げることに成功するのです(『日本三代実録』貞観9年4月4日)。
明治になると、各地にできた造船所に、クレーンが常備されるようになります。
横須賀の浦賀には幕末に江戸幕府が浦賀造船所を設置します。その後、造船所は横須賀港内に移りますが、1897年、同じ場所に浦賀船渠が完成します。もちろん、そこには巨大なクレーンがありました。
レンガ積み1号ドックのガントリークレーン(浦賀ドック)
民間では、長崎造船所(三菱重工)、川崎造船所(川崎重工/東京・築地)、大阪鉄工所(日立造船)、石川島造船所(IHI)などがありました。
長崎造船所・飽の浦のクレーン(明治18年)
長崎造船所には、現在、世界遺産になっている「ジャイアント・カンチレバークレーン」が現役で残っています。電動モーターで駆動される日本初のクレーンで、イギリス・アップルビー社製。マザーウェル社から輸入され、1909年(明治42年)に設置されました。高さ62m、ジブ(クレーンの腕。ブームとも言う)の長さが73m。150トンを吊ることができるハンマーヘッド型起重機です。
長崎造船所のハンマーヘッド・クレーン
このクレーンは、同時期に5基輸入され、呉海軍工廠、佐世保海軍工廠、横須賀海軍工廠、横浜港に設置されました。現在は、長崎に加え、佐世保(佐世保重工業)と横浜の3基が現存しています。
佐世保造船所のハンマーヘッド・クレーン(250トン、1913年)
クレーンには定義があって、【動力を使って荷物を吊り上げ、水平に運搬する機械】のことを指します。人力で吊り上げるもの、0.5トン以下のものは含まれません。レールに乗っかるものを「ガントリークレーン」、天井付近に取りつけられたものを「天井クレーン」と呼びます。実はレッカー車もクレーンの一種で「移動式クレーン」となります。
高速道路の建設で使用されている移動式クレーン
橋梁の架設には、ロープを移動するケーブルクレーンなどが使われます。
ケーブルクレーン
さらに、造船用には船のブロックを運ぶためのゴライアスクレーンが設置されています。
ゴライアスクレーン
高層ビルの工事で、一番高いところにあるクレーンは、一般にタワークレーンと呼ばれています。
工事の進捗に合わせて、クレーン本体が昇るのをマストクライミング、設置された土台が昇るのをフロアクライミングといいます。ここで詳細は触れませんが、タワークレーンは【組立→クライミング→解体】を繰り返し、尺取虫のように動きます。
スカイツリー建設中のタワークレーン
また、クレーンではないものの、似たような機械として、デリックがあります。港湾の作業に使用されるもので、エンジンつきのウインチ(巻上機)からワイヤーロープで操作するものです。クレーンではないので、荷物を水平に移動するかどうかは問われません。
デリック(サハリン・コルサコフ港)
クレーンは巨大だけに、無線でやり取りする場合の、共通の用語があります。有名なのは「ゴーヘイ」と「スラー」です。意味は次のとおり。
・ゴーヘイ=ワイヤーを巻き上げろ
・スラー=ワイヤーを下げろ
・チョイ=少し
・起こせ/倒せ=ジブを起こせ/倒せ
・伸ばせ/縮めろ=ジブを伸ばせ/縮めろ
日本で3番めに大きい吉田組の起重機船「第50吉田号」(3700トン、高さ100m超)
クレーンを船に積んだものが、起重機船(クレーン船)です。
世界初の起重機船は、1898年に進水したアメリカ海軍の「キアサージ」で、1920年、吊り能力250トンのクレーンが据え付けられました。
実は日本海軍ですら持ってなかった起重機船(正確には重量物運搬船)を、陸軍が所有していました。名前は「蜻州丸(せいしゅうまる)」。これは、1923年、「ワシントン海軍軍縮条約」で戦艦の廃棄が決まり、艦に据え付けられていた大砲を引き受けるため、陸軍が建造したのです。
蜻州丸
戦後、起重機船は巨大化し、護岸工事、橋や水門の建造、そして沈没船の引き揚げなど、さまざまな用途に使われます。
沈没船の引き揚げで有名なのが、1970年から断続的におこなわれた戦艦「陸奥」のケースです。陸奥は、1943年、周防大島沖で爆発し、水深42メートルの海底に沈んでいました。
作業に当たったのは、深田サルベージ建設です。陸奥は国有財産のため、引き揚げを前に、当時の大蔵省から2450万円で払い下げを受けています。もとより赤字覚悟ですが、船体の鉄を売ることで、費用の足しにする算段でした。
ワイヤーが切れるなど、信じられないアクシデントが続くなか、船尾から主砲を切り離し、3分の2を引き揚げたところで、オイルショックにより深田の経営が悪化。作業は中断されました。引き揚げは、会社に4億円以上の損失を与えたとされます。
陸奥の主砲(船の科学館)
引き揚げられた陸奥の41cm主砲は、長らく船の科学館に展示されていました(現在は横須賀に移設)。そして、深田サルベージ建設は、1985年と2016年、戦艦大和の調査に乗り出します。
このように、工事の現場では、常にクレーンとクレーン船が主役として活躍しているのです。
濱谷建設の「鳳翔号」(3000トン)
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沈没船の引き上げ
制作:2021年6月12日
<おまけ>
クレーン船が巨大な荷物を持ち上げられるのは、船の重心を正しく保つため、反対側に莫大な量の水(バラスト水)を入れておくからです。
進化が続くクレーン船ですが、いっぷう変わったこんなタイプもあります。防波堤などを造る際に使われるケーソン(巨大なコンクリの箱)を作るフローティングドックです。旋回式のクレーンはケーソン制作時に使われます。
吉留建設産業「臥蛇Ⅱ」
米軍のクレーン船(横浜)