沈船サルベージ
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沈没船を引き揚げろ!
関門海峡で転覆した「龍鳳丸」(1925年)
1958年1月26日、旅客船「南海丸」が、淡路島の南で消息を絶ちました。
その日は低気圧の影響でとても風が強く、紀伊半島沿岸では最大風速が15〜20mに達していました。南海丸から無線で「危険、危険」との報告が入ったのを最後に連絡がつかなくなり、沈没の可能性が高まります。
しかし、2日たっても沈没場所が特定できません。当時、海上保安庁は水中ソナー(水中レーダー)を持っていませんでした。そこで、底びき漁船や音響測深器で調査しつつ、ついに機雷掃海艇まで導入し、ようやく沈没場所を特定します。
「南海丸」は1956年3月に新造されたばかりの船で、当日は徳島県小松島市から和歌山市に向かっていました。結局、乗員・乗客167名全員が死亡・行方不明になりました。
1月31日の段階で、乗船者数は167名とわかっていましたが、その後、166名に減りました。身元調査の結果、乗船していた「山田正」と「酒井岩男」という人物が同一だと判明したからです。
ところが3月20日に身元不明の遺体が収容され、再び乗船者数は167名になりました。
船体の引き揚げは、3月9日に仮浮揚が行われ、翌日、岸から650m、水深6mの場所まで移動。3月17日に船体の引き起こしを始め、3月21日に完全浮上に成功しました(引き上げたのは「日本サルベージ」と「岡田サルベージ」という会社)。その後、清掃して船内の遺体を収容しましたが、事故から2カ月後の3月25日になっても、まだ10人の遺体が見つかりませんでした。
実際のところ、沈船からの遺体収容は、かなり困難なのです。
戦艦「陸奥」
1943年に山口県の西南沖で沈んだ戦艦「陸奥」は、乗員1471名のうち、生存者は350名。最初に165体の遺体を収容しており、956人の遺体が船内に残されていると見込まれました。
連合軍による占領中はなかなかサルベージが許されず、1949年に初めて許可が下ります。
水深はおよそ40m。現場の潮流は悪く、熟練のダイバーでも15分くらいしか活動できません。結局、最初の2年間で引き揚げられた遺体は213体。その後の2年間で470体。1958年の段階で、273体の遺体が不明のままでした。
これ以上の遺体収容は不可能とみて、その後、船体の引き揚げが検討されました。
実は、鉄の塊である軍艦の引き揚げは、ビジネスとして非常に美味しいのです。
「陸奥」が完全に引き上げられたとして、スクラップは5億7000万円の価値があると評価されました(1958年11月4日の国会議事録による)。
具体的には、
鋼材(伸鉄材) 3693トン
鋼材(溶解用特級)1万2062トン
特殊鋼 1万3925トン
銑鉄 456トン
銅系統金属 291トン
砲金系 299トン
鉛系統 109トン
で、合計3万835トンの金属が手に入ります。
一般に、沈没船はサルベージした会社に大蔵省から払い下げられるので、許可さえとれば、比較的簡単に大きなビジネスになるのです。
戦艦「陸奥」の41cm主砲(船の科学館)
しかし、陸奥の引き揚げは困難を極めました。
戦艦だけに非常に重く、鋼板もきわめて厚いため、結局、一部分しか引き上げられませんでした。
このとき、業者は手間のかかる遺体収集をせず、もっぱら儲けにつながる鉄ばかり集めたことが国会で問題になっています。
元陸軍大佐で、戦後、国会議員になった辻政信が以下のように発言しています。
《私は、この問題について非常に残念に思うのは、あれは終戦後のどさくさに、インチキ会社と役人が結託して、利権とからんだ、非常に醜悪な事件なんです。そのインチキ会社がもぐって、取りやすい砲塔であるとか、はずしやすいところだけはずして、鉄は売ったらもうかるから揚げた、遺骨を揚げてももうからないからほうっておいた、これが真相なんです》(1958年7月17日、国会議事録より)
1970年以降は「深田サルベージ建設」が中心となって引き揚げを行いましたが、現在でもまだ一部は海底に眠っています。
それにしても、実際のサルベージはどのように行うのか。
簡単に言えば、「陸奥」のようにその場で解体して、徐々に持ち上げる方法と、「南海丸」のように船体ごと浮かせて引っぱっていく方法の2通りあります。
解体なら爆破すればいいので作業は楽ですが、遺体が毀損される可能性があるため、あまりおこなわれません。
では、沈船はどうやって浮上させるのか。
「龍鳳丸」に船尾から圧搾空気を注入中
1925年、関門海峡(山口県六連島沖)で駆逐艦と衝突し、沈没した大連汽船の「龍鳳丸」は、翌年、「帝国サルヴェージ」によって浮揚します。
沈没船が横倒しになっているときは、海底で真っ直ぐにしてから引き上げますが、「龍鳳丸」は横倒しのまま引き上げられています。衝突で穴が空いた個所を補修し、船尾から船首に圧搾空気を吹き込みます。
船内の水が排水されるにつれ、浮力で自然に浮上してきました。
そして、浮上した船体をジャッキで起こし、造船所まで曳航したのです。
「龍鳳丸」の船体をジャッキで正位置に戻す
船の場合、圧搾空気を入れるだけで浮上することも多いのですが、水の出口がない
潜水艦
の場合はどうか。
1953年、61mの海底からサルベージされたのが、「伊号第三三潜水艦」です。
伊号第三三潜水艦は1944年に愛媛県
由利島
付近に沈みました。引き揚げ許可を取ったのは北星船舶工業。艦内には魚雷が積まれており、解体方式では爆発の危険があるため、浮上方式がとられました。
引き揚げ後、解体作業に入る「伊号第33潜水艦」(全長108m)
5月、100トンの巨大タンク18個が海面に集められ、1つずつ水を注入し、海中に沈められました。水面下20mまで沈んだタンクと潜水艦をワイヤーで繋ぎ、今度はタンクの水を高圧ポンプで排水。これで潜水艦は10m浮上しました。そのまま曳航していき、潜水艦を水深47m地点まで運ぶことに成功します。
第2回の作業でも10m浮上させ、今度は水深35mの地点まで曳航できました。
ちなみに、水面下10mのタンクに空気を満たすのは45分ですみますが、水面下20mだと1時間30分かかります。これが水圧の差です。
油と腐敗物でドロドロになった発令室
結局、5回の作業で潜水艦を10mの海底に運ぶことに成功。次は完全浮上です。
《エアコンプレッサーは、はじけるような音を立てて作動しつづけている。暗い海底に沈没してから9年目に艦は陽光を浴びようとしている。
赤茶けた色はさらに濃さを増し、鋭い流線型をした艦首の形が濃緑の海水の色の中にはっきりみえてきた。
突然、海面の1個所がかすかに割れた。艦首の先端が海面に突き出たのだ。
艦首が、徐々に海水を押しのけ浮上してきた。錆びた鉄だった。緑色や白色のものがついているのは、雑貝の類なのか。
「潜望鏡だ」という叫び声がした。
艦首から50メートルほど後方の海面に棒状のものが突き出ていた。その先端が閃(ひらめ)くように光った。楕円形のレンズの輝きだった》(吉村昭『総員起シ』より、省略引用)
乗員の大部分が窒息死した魚雷発射室
潜水艦が艦首から浮上したのは、そこに空気が残っていたからです。
潜水艦は防水壁が何重にも装備されているため、浸水に気づいた12人の乗組員が、水雷室の内部にこもって救援を待ったのです。
沈没から9年後、浮上した潜水艦の内部はどうなっていたのか。
艦内の酸素は兵士に吸い尽くされ、しかも水深60mの低い温度のおかげで、死体は腐ることなく、沈没時のままミイラ化していました。
艦内で発見された乗組員は61人
最後まで生きていた兵士は、深海の艦内でただ一人生きつづける孤独感に堪えきれなかったのか、鎖を首に巻いて自殺していました。
《ズボンがはずされて下半身が露出し、その太腿の付け根から突出しているものが見えた。隆々と勃起した陰茎だった》
深海から回収された遺体は、酸素と日の光に当てられ、
《肉がすべて崩落してしまう》
ように、あっというまに腐敗してしまったのでした。
伊号第三三潜水艦の乗員の遺書
「いよいよ息がつまりだめだ これで終りだ 21時15分」などと書かれていました
制作:2014年5月19日
<おまけ>
サンフランシスコ講和条約の第14条に
《日本国によつて損害を与えられた連合国が希望するときは、生産、沈船引揚げその他の作業における日本人の役務を当該連合国の利用に供することによつて、与えた損害を修復する費用をこれらの国に補償する》
とあって、日本は各国と沈船引き揚げに関する条約を結びました。
たとえばフィリピンとは1953年3月12日に条約が結ばれ、1955年8月から1957年3月にかけて、日本のサルベージ業者7社が57隻の船舶を引き揚げました。このときの総費用は約656万ドル。賠償には、こうした費用も含まれていたんですね。
なお、2014年、
韓国・珍島
沖で沈没したフェリーの引き揚げは、船とクレーンをワイヤで繋ぎ、上下を元に戻し、水平を維持しながら船内の排水を進める方法がとられます。この場合、巨大クレーン船が必要ですが、韓国が所有する船だけでは対応できない可能性が高いのです。
日本には前述の「深田サルベージ建設」や「日本サルヴェージ」などいくつかのサルベージ会社があり、その技術力は世界一だと言われます。しかし、深田サルベージが持ってる世界最大級の起重機船は「武蔵」という名前で、ほかに「大和」「金剛」「富士」など日本軍艦を想起させる名前が多いのです。韓国も、ちょっと貸してとは言いにくいでしょうね。