「大東亜航空圏」の誕生
国産機 MC-20と二式大艇

MC-20
MC-20


 中国東北部に「満州国」が建国されたのは、1932年(昭和7年)3月1日です。そして9月26日、関東軍の要望に応え、「満州航空」が設立されます。
 満州航空は、満州国内で路線を拡大していきますが、国際路線の拡大も急務でした。同社は子会社の「国際航空」を設立し、ドイツのルフトハンザと相互乗り入れし、日本〜満州〜中央アジア〜ベルリンルートの開設を目指します。

 一方、日本と大陸を結ぶ航空路線も、時間の短縮が急務となっていました。航空便は「日本航空輸送」が1929年から運航を開始しています。1937年には大連から奉天(現在の瀋陽)、新京(現在の長春)まで延長されます。

 1938年の段階で、日本には陸軍系の国際航空と逓信省系の日本航空輸送が存在しています。
 ここに海軍省が「海洋航空」の設立を画策しており、日本には国際線を目指す航空会社が3社も登場する可能性がありました。

 しかし、日中戦争の勃発で、中華民国内の飛行場が使用不可となり、国際航空は1938年に日本航空輸送と合併し、「大日本航空」となりました。
 陸軍、海軍、逓信省の派閥争いはここに解消し、日本の国際航空会社は大日本航空のみとなります。一方、日中戦争の拡大で、日本は「中華航空」を設立し、大陸全土の要地を結ぶ航空会社となりました。

 整理すると、満州は満州航空、大陸は中華航空、台湾・東南アジアは大日本航空の担当となりました。

永淵三郎の「ひょうたん型」東亜概念図
永淵三郎の「ひょうたん型」東亜概念図


 路線の整理はできましたが、実は大きな問題がありました。満州航空は、当初は同盟国・日本の飛行機ではなく、ドイツやイギリス、アメリカの飛行機を導入していました。
 日本航空輸送もドイツのフォッカーやアメリカのダグラス製の飛行機が使われていました。こうした飛行機を早期に日本製に変えたい、という願望は関係者の間に根強くありました。

 ダグラスDC-2は、中島飛行機がライセンス生産していましたが、これを国産化するのと同時に、日本独自の旅客機の設計も始まります。1936年に運行を開始したのが中島AT-2で、陸軍が九七式輸送機として制式採用しています。
 AT-2は、満州航空でも大日本航空でも採用され、日本と各地を結ぶ空を飛び続けます。

国産ダグラスDC-3
国産ダグラスDC-3


 1940年、三菱重工業がより大型のMC-20を開発。これはベストセラー機ダグラスDC-3より高性能で、もちろん満州航空にも大日本航空にも、そして多くの新聞社でも採用されました。
 陸軍では一〇〇式輸送機という制式名称が与えられ、1942年のパレンバン空挺作戦で落下傘部隊の輸送にも使われています。

パレンバン空挺作戦
パレンバン空挺作戦


 1941年の真珠湾攻撃以降、日本軍の戦場は大陸から太平洋に拡大します。
 当たり前ですが、飛行機は滑走路がなければ飛べません。しかし、太平洋への島々に滑走路を作っていくのは大変な作業で、結果として、水上飛行機(飛行艇)へ大きな注目が集まることになります。

二式水上戦闘機(中島飛行機)
二式水上戦闘機(中島飛行機)


 水上機は、三菱も中島も製造していますが、機体を海面に直接つける飛行艇は、日本毛織(ニッケ)の創業者・川西清兵衛が創業した川西航空機の独壇場です。海軍の支援のもと、1938年に九七式飛行艇、1942年に二式大艇(正式名は「二式大型飛行艇」)の運用が始まりました。

 こうして日本では、極めてざっくりな言い方をすれば、陸はMC-20、海は二式大艇による輸送網の構築が想定され始めます。

二式大艇
二式大艇


 1937年10月、近衛文麿内閣のもとで、国策を遂行するための内閣直属の機関「企画院」が誕生しました。物資や動員など重要項目の立案が仕事です。
 1941年春(真珠湾攻撃の前)、企画院の大久保武雄が、朝日新聞で壮大なアイデアを披露します。東京を中心に半径6000kmの円を描き、これを「大東亜航空共栄圏」と名付けたのです。

大東亜航空共栄圏
大東亜航空共栄圏


 この円内には、ハワイ、東南アジアはもちろん、ニューカレドニア、アリューシャン列島、オーストラリアの北端、パミール高原まで含まれます。ここを日本を中心とした航空文化圏にする計画です。
 6000kmというのは、当時の輸送機のスピードが時速300〜400kmなので、1日で行ける距離という意味でした。

 日本とタイの航空路ができるまで、東京からタイ・バンコクに行くには2週間以上かかりました。一方、ロンドンとバンコクは5日で連絡されていました。これは、言い換えればバンコクは欧州圏ということです。
 アメリカとチモールは1週間で結ばれていましたが、日本とチモールの航空路ができるまで、船を乗り継いで1カ月もかかりました。これは、チモールはアメリカ圏ということができます。

仏印サイゴン空港
仏印サイゴン空港


 こうした状態を解消することこそ、「大東亜航空圏」の目的です。
 大英帝国の支配は7つの海にまたがると言われましたが、これは帯状のもので、防衛面で大きな弱点を抱えています。しかし、日本の目指す「大東亜航空圏」は円形なので、この点も理想でした(『航空朝日』1943年6月号所収/大久保武雄「大東亜航空圏の確立へ」による)。

シンガポール陥落を祝う花電車
シンガポール陥落を祝う花電車


 満州航空でドイツとの航路開設に尽力した永淵三郎は、日本が1942年にシンガポール(昭南島)を占領すると、ここを中心とした南方航路の完備を目指します。
 主なルートは3つです(『工業グラフ』1942年6月号)。

・昭南島—ボルネオ—フィリピン—東京
・昭南島—仏印—香港—福岡—東京
・昭南島—マレー—広東—上海—北方(大連、満州、樺太)

MC-20
MC-20


 前述のとおり、日本では、陸はMC-20、海は二式大艇による輸送網の構築が想定され始めます。

 二式大艇などの水上機を開発する際、大きな問題になったのが「ポーポイズ現象」と呼ばれるものです。これは飛行機が縦方向に揺れる現象で、離着陸が極めて危険になります。飛行艇の離着陸は水面なので、天候が悪化しているとき、もしポーポイズ現象が起きれば、転覆するか水面に突入してしまいます。特に夜間は水平線が見えないため、非常に難易度が高いのです。

 離着陸しやすいようにフロートを大きくすれば、空中での空気抵抗が大きくなり飛行性能が落ちてしまいます。このバランスをどうするか。また、着陸時、波から受ける衝撃は速度と重量に比例するため、軽量化と耐久性のバランスも大きな課題となりました。

零式水上観測機
零式水上観測機(三菱重工業)


 当時の技術で、重量10トンの飛行機で1km飛ぶのに、およそ1リットルのガソリンが必要でした。10トン機で仮に4000km飛ぶとすると、およそ4割が燃料という状況になってしまいます。こうしたことを鑑み、「大東亜航空圏」を形成するために、高速便と低速便の2つを併用するアイデアが登場します。
 この低速便は貨物が主流になるので、これを飛行艇に担わせるのが最善の策です。

 こうして川西航空機では、超巨大飛行艇の開発が想定され始めます。
 飛行艇が大型化すると、飛行高度が低く、スピードが遅くなります。しかし、仮に時速100kmだとしても、5000km離れたジャワ島まで2日ちょっとで行けるわけで、船便よりはるかに早いのです。

超巨大飛行艇の概念図
超巨大飛行艇の概念図(「航空朝日」昭和18年6月号)


 とはいえ、プロペラでは巨大な飛行艇を支えることは不可能です。
 そこで注目されたのがジェット機です。1939年、ドイツでターボジェット推進機が実用化され、1941年にはイギリスでもジェット機が初飛行しています。もしジェット飛行艇ができれば、多くの物資を運ぶことができます。

 こうして、「大東亜航空圏」完成の鍵は、ジェットエンジンに託されることになったのです。


MC-20と二式大艇の製造工場

制作:2019年4月22日


<おまけ>

 川西航空機は、現在は新明和工業と社名を変え、その技術は海上自衛隊の飛行艇に引き継がれました。

 まず1960年代から運用されたのが、哨戒飛行艇PS-1です。この機の最大の特徴は、BLC(境界層制御)という動力式高揚力装置で、これにより時速100kmほどの低速度でも失速しない飛行や、荒海での離着水が可能となりました。

 その後、1976年に救難飛行艇US-1が誕生、現在はUS-2が運用されています。US-2ではフライ・バイ・ワイヤーというコンピューター制御の導入で短距離離着陸が可能となりました。理論上は不忍池でも着水可能です。US-2の航続距離は4500kmとライバル機を圧倒しており、世界中からその技術に注目が集まっています。

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