「リン鉱山」が作った肥料帝国
北大東島/日本円が流通しない “植民地” の完成

リン鉱石貯蔵庫跡
リン鉱石貯蔵庫跡


 1896年(明治29年)、帝国ホテルの向かいに豪壮なレンガ造りの2階建ての家が建てられました。家の主は、長者番付の常連だった玉置半右衛門です。玉置は、絶海の孤島「鳥島」で、アホウドリの羽毛を売って大儲けしました。アホウドリは人間から逃げないため、簡単に殺すことができたのです。こうして、邸宅は「アホウドリ御殿」と呼ばれるようになりました。

 玉置の証言が残されています。

「アホウドリは、人夫がずいぶん近くまで迫っても、翼の下のひなに心を奪われて舞い立とうともしない。それを見計らって3尺くらいの棒で撲殺するのだから残酷な話だ。しかし、アホウドリは富源中の富源だ。毛は帽子になり、寝具になる。ことに純白のものは非常に賞美される。価格は最上等で100斤140円、中等にて50〜60円くらい。鳥の数は、多いときで年に40万、平均して30万を捕獲した」(雑誌『成功』1906年4月臨時増刊号より意訳)

 羽毛はヨーロッパ人に好まれ、高い値段で売れました。肉は缶詰にして食料となり、油も取れました。一方で、肉を蒸気で蒸すと、肉も骨も溶解するので、これを圧搾機にかけて球状にして内地に送ると、上等な肥料になりました。島には海鳥の糞が化石化した「グアノ」もあり、これも肥料として使われます(グアノが石灰岩と化合するとリン鉱石になる)。

 アホウドリの減少とともに、鳥島でのビジネスは下火になりますが、玉置の次の方針は明確でした。「肥料で天下を取る」――今回は、肥料の原料「リン(燐)」をめぐる物語です。


アホウドリ
アホウドリ(国立科学博物館・筑波研究資料センター)


 胃腸薬になる「タカジアスターゼ」を発見し、三共製薬の初代社長に就任した高峰譲吉は、20代の頃、政府派遣留学生としてイギリスへ渡り、3年間化学の勉強をしています。留学中、人造肥料の工場で実習をし、ここで「過リン酸石灰」の製造技術を学びます。

「過リン酸石灰」は、獣の骨などを硫酸で溶かし、骨の中に含まれるリン酸を水に溶けやすくしたものです。もともと骨は肥料として使われていましたが、硫酸処理をすることで、肥料としての効果が格段に上がったのです。これを発見したのは、化学肥料の父と言われるドイツの科学者リービッヒで、1840年のことです。リービッヒは、後に、植物の生育に必要な3要素「窒素」「リン酸」「カリウム」を発見しています。

 同じころ、イギリスのギルバートとローズも、土壌中のリンが植物の生育に欠かせないことを発見。ローズは、1843年にはリン鉱石に硫酸を加える肥料工場をロンドン近郊に建設しています。高峰が実習したのは、この工場です。


肥料の製造
原料の混合(大日本人造肥料)


 高峰は、持ち帰った過リン酸石灰を使って、日本で著しい生育効果をあげます。こうして、渋沢栄一らの出資により、1887年(明治20年)、「東京人造肥料」(のちの大日本人造肥料、現在の日産化学)が設立されました。しかし、当時、日本国内にリン鉱山はなく、原料はすべて輸入に頼ることになりました。

 なんとか国内にリン鉱山を見つけたい――ここで登場するのが、日本最初の農学博士の1人で、土壌学を創始したされる恒藤規隆(つねとうのりたか)です。恒藤は、駒場農学校(現在の東大農学部)を卒業後、内務省勧農局地質課に配属され、宮崎県油津港付近でリン鉱を発見。以後、全国各地を調査し、南鳥島や能登でリン鉱を見つけていきます。恒藤は、南鳥島でアホウドリを捕獲していた水谷新六の話を聞き、南洋諸島にリン鉱の可能性を見出します。

過リン酸石灰(大日本人造肥料)
過リン酸石灰(大日本人造肥料)


 一方の玉置半右衛門は、鳥島のアホウドリ捕獲が下火になるのを予見し、1897年、新たな開拓地を求めて、南洋を視察します。その資金は、政府の補助金です。

 当時の日本の南進ブームを支えたのが、江戸幕府側で新政府軍と戦い、五稜郭で最後まで抵抗した榎本武揚です。榎本は、後に明治政府の中心人物となり、外務大臣や農商務大臣を歴任します。榎本は「南進論」をとなえ、1897年、農商務大臣のときに遠洋漁業奨励法を制定。この法律に基づく奨励金を利用して、玉置らは南洋諸島の探検に出向いたのです。

 玉置は、1906年、ラサ島(沖大東島)の開墾許可を得て、同島に調査船を派遣。このとき、水夫として乗船していた水谷の甥が、良質なリン鉱石を持ち帰ります。こうして、ラサ島の利権をめぐり、玉置、水谷、恒藤の熾烈な闘いが始まります。結果、ラサ島の採掘権を一本化して取得したのは恒藤で、1911年、「ラサ島燐礦」を設立し、恒藤は初代の社長となりました。ラサ島では、最盛期には年20万トン弱の出荷をおこないましたが、1944年に閉山しています(現在は米軍の試射場となっており、立入禁止)。

北大東島のリン鉱石
北大東島のリン鉱石


 ラサ島でのリン鉱山発見に刺激され、玉置は、サトウキビを植えつけて放置していた南大東島・北大東島に注目します。南大東島にリン鉱山はありませんでしたが、北大東島では、1908年、鉱山を発見。しかし、通常のリン鉱石ではなく、鉄アルミナ含有量が多く、肥料としては使いづらい「燐酸礬土鉱」だったため、事実上放棄することになります。そして、1910年に死去すると、北大東島と南大東島のサトウキビ栽培が主力事業だった玉置商会は営業不振となりました。砂糖販売を引き受けていた商社・鈴木商店の仲介で、南・北大東島の権益は東洋製糖に売却されることになります。

リン鉱山の階段式露天掘り
リン鉱山の階段式露天掘り(大正後期、『北大東島燐鉱山遺跡調査報告書』2016年)


 東洋製糖は、1907年に設立され、台湾で製糖事業をおこなっていました。1918年、第一次世界大戦でリン鉱石の価格が暴騰。ラサ島燐礦の活況を目の当たりにした東洋製糖は、玉置商会が試掘していたリン鉱山の探鉱を開始し、翌年から採掘に乗り出します。やや時間はかかりましたが、リンとアルミニウムの分離にも成功し、ビジネスは軌道に乗ります。

 東洋製糖・北大東島出張所の収支予算書(1926年3月から8月)が残されており、これによると、会社の事業収入25万8820円のうち、鉱業関係が23万600円、糖業関係が2万8220円となっており、9割を鉱業が占めています。

 ただし、糖業の収入は、砂糖の売り上げから経費を除いた利益を小作人7割、会社3割で分配したものを計上しています。事業全体としての収入規模は16万5800円で、島全体の売り上げでみれば鉱業は6割程度となります。また、利益では、糖業が1万2470円、鉱業が1万4922円で、似たりよったり。このことから、鉱業がいかに人件費や設備投資が大きいかがわかります(『北大東村市』による)。

リン鉱石を運んだトロッコの線路(北大東島)
リン鉱石を運んだトロッコの線路(北大東島)


 リン鉱石の生産は単純です。300人ほどの鉱夫がツルハシやジョレンでただ掘るだけの階段式露天掘り。1人あたり1日2トンの採鉱が可能で、それを近くの堆積場に積み上げていくだけ。それをバイスケやモッコ、さらにトロッコで運搬(これは女性も担当)。リン鉱石は水分を多く含んでいるため、輸送効率をあげるために乾燥が必要でした。大きなかたまりは石炭や薪を用いて、細かいものはロータリードライヤーで乾燥させました。

 現在、北大東島には大規模なリン鉱山遺跡が残されています。

北大東島ボイラー室跡
ボイラー室跡


 リン鉱石貯蔵庫には4本のトロッコトンネルがあり、ここを通って大量の鉱石が移動しました。トンネルには等間隔で窓が開けられ、ここから鉱石をトロッコに落としました。4本のうち2本には上部に大きな穴が空いていますが、これは、戦後、この鉱山を接収したアメリカが「トロッコでは効率が悪い」とベルトコンベアを導入し、大規模に鉱石を落としこむために開けたものです。

 近くには乾燥用のボイラー室も残されています。台風で倒壊していますが、大きな円形の部分から管がつながっていました。海水で洗い、手頃な大きさに砕いた鉱石を熱で乾かし、保存するのです。そして、港から船に積めば終了です。

船揚げ場には巻き上げ機の残骸が
船揚げ場には巻き上げ機の残骸が(はるか遠くに南大東島)


 実は、北大東島には、社員用の風呂と、鉱山労働者用の風呂跡が2つ残されています。これだけ見ると、労働者にとって天国だったような気もしますが……。しかし、
この南・北大東島は、魚釣りも勝手にはできない「地獄の植民地」状態でした。労働者は台湾などからきちんと募集されたため、強制労働や奴隷状態ではありませんが、厳しいルールが敷かれていたのです。

 それを始めたのは玉置商会ですが、本格的に植民化を進めたのは、その後の東洋製糖で、さらに同社を吸収した大日本製糖も引き継ぎました。そもそもこの地には日本の行政は及ばず、学校も病院もすべて会社が運営し、そもそも日本円は通用しておらず、物品交換券でやり取りされていのです。

北大東島の物品交換券
歴代の物品交換券(南大東島ふるさと文化センター)


『北大東村誌』(2017年刊)は、物品交換券について、1915年(大正4年)7月11日の『琉球新報』を引用してこう説明しています。以下、一部改変のうえ、孫引きしておきます。

《大東島には個人経営の店はない。島民はすべて玉置商会の販売部から日用品その他を仰いでいる。それで大東島では貨幣の必要もない。島民は自分の砂糖の販売を商会に委託し、必要に応じて荷為替(にかわせ)を受ける。この荷為替がすなわち玉置商会発行の貨幣代用券である。

 代用券は単位は1銭、5銭、10銭、50銭、1円、5円、10円まで発行している。島民はこの代用券で取引をしているから、これがすなわち大東島の貨幣ということになる。会社は日用品の専売権と貨幣発行権をにぎっている。(中略)

 会社の物価は米、反物などすべて割高である。代用券の発行高は年間3万円から3万5000円くらいである。島には貯蓄機関はないから、会社の会計部に預金する以外方法はない。しかしこの代用券ははなはだ不安な代物である。万一、玉置商会が破産することがあれば、この代用券は何の価値もない。島民はみな不安と不満をいだいている。》

北大東島の入島許可証
入島許可証(南大東島ふるさと文化センター)


 そして、東洋製糖の時代になり、“植民地制度” が確立します。中学教師で、沖縄・奄美など日本各地の離島を歩いた佐々木辰夫は、「ウフアガリ島史」で、島内にのこされた古文書から、支配の実態を詳細に明かしています(『新日本文学』1966年9月号所収、佐々木辰夫「ルポルタージュ ウフアガリ島史 糖業資本の基地となった南の孤島」より)。


北大東島/鉱山労働者用の風呂跡
鉱山労働者用の風呂跡


 大東島には、以下のようなさまざまな規定がありました。

○小作規程、土地貸付規程
○小作頭、小作係規程
 農民はすべて小作人とされ、小作する場合、保証金を会社に前納し、さらに、連帯保証人の連署も求められた。小作料は、形式的には収穫高または製造高の3割で、製糖代金から天引きする方式だった。しかし、この小作料に手数料、農具・肥料の負担が上乗せされるので、実質的には5割で(5社5民)となった。さらに会社は、小作頭や小作係を任命し、会社の命令を伝達させたり、農民の不平を会社に届けさせる役目を与えた(会社の “スパイ” や “イヌ” の設置)

○農業共同作業規程
 モヤイ(共同作業)、コウロク(助け合い)といったグループ労働方式が、会社によって体系化され、女性や子供も無償奉仕の作業に狩り出された

○海岸規程
 海岸や港の使用権はすべて会社にあり、農民が海に出るときには届出が必要だった。海岸で建築用の石を削るときにも、もちろん許可が必要だった。「無断で釣りざおをかついでいると、会社のイヌがすぐとんできた」(島民)とのこと

○捕猟申合規程
 作物を食い荒らすネズミの捕獲。3町歩の小作人は20匹、1町歩増すごとに1匹、3町歩以下は10匹。甘庶(サトウキビ)栽培人は15匹。倉庫番は20匹。一方、社員は2匹で、過怠金は1匹につき5銭という安さだった

 このほか、農具や種牛の貸付規定、サトウキビの盗食取締規定など、数多くのルールで農民を縛りました。最終的には「サトウキビ伐採期の労働者は月の1日と15日だけ酒をのんでよい」「集会に10分おくれると過怠金2銭」などの規則まであったといいます。

 なお、規程には「返納」「連帯保証人の責任」「罰金」など必ず罰則がつけられ、最高罰は「退島処分」でした。一方、密告者にはボーナス2円が支給されるなど、高度な植民地支配ともいうべき「東洋製糖王国」が完成したのです。

東洋製糖北大東出張所
支配の中心となった東洋製糖北大東出張所(復元)


 整理すると、島では

・「玉置商会」(経営を司る社員)
・「島民・親方」(玉置半右衛門の出身地・八丈島の住民が現場の権限を握る)
・「仲間」(サトウキビ畑で働く、おもに沖縄県出身の労働者。親方に雇用される)

 の明確な三重構造で治外法権的な社会体制を確立し、プランテーションによる単一栽培を構築したのです。なお、雇用労働者は2年間の労働を誓約し、品行方正のうえ勤続を果たすと、結婚が許されました。家族の数に応じて畑が貸与され、自給用のサトウキビなどの栽培、あるいは養豚・養鶏が認められたので、彼らにとっては「永久の楽園」になるとも記録されています(『燐礦事情』1925年)。

 はたして、この島は天国だったのか地獄だったのか――。

北大東島/坑夫が使ったと思われる水瓶
坑夫が使ったと思われる水瓶


日本が統治したリンの島・新南諸島(南沙諸島)

制作:2024年7月12日


(おまけ)

 1925年、ラサ島燐礦が、人造肥料の「共同販売機関」の設立を訴えます。日本にはメーカーが12社あるものの、各社とも業績がよくなく、その理由について

●原料を遠隔地から買うため、運搬費用がかかる
●肥料は春と秋しか売れないため、通年の保存費用が膨大
●肥料の種類は多く、各社が熾烈な販売競争をする
●製造が単純なので、各社とも規模を追い、生産過多になりやすい
●リン鉱石は1年単位で契約するため、投機的な問題を抱えやすい

 など多くの問題点があると指摘しています。そのうえで、別子銅山の副産物から肥料部を創設した住友家(住友化学)に対し、優越的地位を乱用していると非難。「住友家の住友ではなく、日本の住友」だとして、大局を見て共同戦線を張るよう、訴えています。さらに、日本で初めて人造肥料の製造を始め、能登半島でリン鉱の採掘をおこなっていた多木家(多木化学)に対しては、「鬼神に通じる(ほど素晴らしい)経営」「慈父の温情による社運隆々」とべた褒めしたうえで、やはり参加を呼びかけています。

 肥料産業は、例外的に儲かる時代はあったにせよ、長く厳しい時代が続くのでした。

リン鉱石貯蔵庫跡(北大東島)
リン鉱石貯蔵庫跡(冒頭の写真の反対側)
 
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