銅像の世界
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幻の銅像を見に行く
西郷隆盛の銅像(鹿児島空港)
太宰治は『人間失格』で「東京見物などをする気も起らず」として、明治神宮も、楠正成の銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終わりそうだと書いています。逆に言えば、太宰にとって、東京の名所はこの3つに集約されていると言えますね。
しかし、今、「楠正成の銅像」がどこにあるか知ってる人は少ないのではないでしょうか? だけど、この銅像は、東京にある3大銅像の1つなんですよ。
楠木正成(楠公)の銅像(戦前)
東京の3大銅像とは、
「大村益次郎(靖国神社)」「楠木正成(皇居外苑)」「西郷隆盛(上野公園)」ですな。
大村益次郎の銅像
(戦前の写真なので左下に軍人さんが)
大村益次郎像は東京最古の西洋式銅像で、明治26年(1893)に作られました。大村益次郎は日本陸軍と靖国神社を創建した大人物です。
楠木正成像は、明治29年完成、明治33年に設置。別子銅山の開坑200年を記念し、当時の住友家当主が献納したものです。制作主任だった高村光雲は、楠木正成の遺物がほとんどなくて、デザインにはずいぶん苦労したと語っています。
西郷どんの銅像(戦前)
現在、もっとも有名だと思われる西郷隆盛像の建立は、明治31年。こちらも高村光雲が作ったものです。制作の様子を光雲の子・高村光太郎が『回想録』にこう書いています。
《西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵え、木型を多勢で作った。私は小学校の往還(いきかえ)りに彼処を通るので、始終立寄って見ていた。あの像は、南洲(=西郷隆盛)を知っているという顕官が沢山いるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言ったが、海軍大臣をしていた樺山(資紀)さんは、鹿児島に帰って狩をしているところがいい、南洲の真骨頂はそういう所にあるという意見を頑張って曲げないので結局そこに落ちついた》
銅像の除幕式で、西郷の妻・糸子が「うちの人はこげな人じゃなか」と言ったと伝えられていますが、上の文章を読む限り、風貌は本物に似ているのではないかと思われます。
ちなみに、「除幕式」という言葉はこのとき初めて使われたとされています。大村益次郎像では「落成式」、慶応義塾で福沢諭吉の銅像が設置されたとき(明治26年)には「開披式」という言葉を使っていました。
なお、光雲が彫った原型の木像は、鹿児島・南洲神社(浄光明寺)の鳥居脇に立っていましたが、昭和20年7月31日の空襲で焼失しています。
消失した木像
こちらは関東大震災で避難民のビラでいっぱいになった西郷像と楠木像
ついでに書いておきますが、日本初の銅像は明治13年(1880)、金沢の兼六園に置かれた「明治紀念之標」の日本武尊像です。
これが日本最古の銅像
さて、言うまでもなく、銅像となるのは政治家か郷土の英雄あたりが多いわけです。あとは縁のある文化人とかね。
たとえばこんな感じです。
田中角栄(浦佐駅)と吉田茂(高知空港)
石川啄木(札幌)、水戸光圀(水戸)、継体天皇(福井、こちらは石像)
とまぁ、俺は銅像めぐりが趣味なんですが、現実問題として日本には銅像が多すぎるので、なかなか全部を見ることはできません。それで、今回は今はなき幻の銅像を紹介しておきます。
幻の銅像でもっとも有名なのは
万世橋駅
にあった広瀬武夫中佐と杉野兵曹長のもの。広瀬は日露戦争の旅順口閉塞作戦で殉死した日本初の軍神です。
ちなみに広瀬中佐の銅像は豊後竹田の山下公園にも立っていました。
左から万世橋駅前の廣瀬中佐、大分の廣瀬中佐、佐世保の服部中佐(←誰?)
左から加藤高明(総理大臣、舞鶴公園)、乃木希典(陸軍大将、高崎観音山)、川上操六(陸軍大将、九段坂上)
左から伊達政宗(仙台城)、鍋島直茂(佐賀)、豊臣秀吉(名古屋中村公園)
これらの銅像がなぜ消えたのかというと、昭和18年頃、戦争による物資不足で、金属供出させられたからです。上で掲載した以外にも楠木正成(六甲山)や板垣退助(岐阜公園)など各地の有名人がつぶされ、戦地へと消えていきました(この板垣退助は、戦後、復活しましたが、ほとんどの銅像はそのまま忘れ去られたのです。逆に、高知の坂本龍馬なんかはつぶされず、生き延びることができました)。
さて、豊臣秀吉さえも消えてしまうなか、江戸を作った徳川家康も供出される運命にありました。
政治家の松島みどりのサイトによれば、もともと
日本橋
にあった家康(高村光雲作)が、交通量の増加によって東京市庁舎に移動したとあります。
だけど、写真を見ると、どうも別物ですね。
左:日本橋の路上に立っていた徳川家康
右:東京市庁舎の家康(左)と太田道灌
(ちなみに立ってる人物は堀切善次郎東京市長)
昭和18年3月、東京府役所(東京府庁との合同庁舎)の玄関に陣取っていた家康と太田道灌が金属供出で運ばれていきました。下の写真がそのときのものです。なんか「ドナドナ」を思い出しますな。両方とも170貫(約640kg)あったそうなので、さぞお役に立てたことでしょう(涙)。
供出されていく家康と太田道灌
制作:2008年6月6日
幻の大仏は
こちら
<おまけ>
楠木正成の銅像は見たことのない太宰ですが、西郷さんの銅像は作品に何度も出てきます。その中の1つ『座興に非ず』(1939年)では、田舎の青年からかつあげしたことが書かれています。
《西郷さんの銅像の下には、誰もいなかった。私は立ちどまり、袂(たもと)から煙草を取り出した。マッチの火で、ちらと青年の顔をのぞくと、青年は、まるで子供のような、あどけない表情で、ぶうっと不満そうにふくれて立っているのである。(中略)
「お金あるかい?」
もそもそして、「あります。」
「二十円、置いて行け。」私は、可笑(おか)しくてならない。
出したのである。
「帰っても、いいですか?」
ばか、冗談だよ、からかってみたのさ、東京は、こんなにこわいところだから、早く国へ帰って親爺に安心させなさい、と私は大笑いして言うべきところだったかも知れぬが、もともと座興ではじめた仕事ではなかった。私は、アパアトの部屋代を支払わなければならぬ。
「ありがとう。君を忘れやしないよ。」
私の自殺は、ひとつきのびた》
西郷どんは、100年以上もいろんな悲喜こもごもを見てきたわけですな。
ちなみに下の写真は、敗戦直後、銅像の前で客引きするパンパンガールの写真です。
「パン助」ってもう完全に死語ですね