外国人が見た「日本橋」

日本橋
明治29年(1896)の日本橋


 江戸時代、長崎の出島に来航した3人の学者を、「出島の3学者」と呼ぶことがあります。その3人とも江戸まで旅行しており、全員、日本の旅行記を書いているんですね。
 そして、面白いことに、3人とも「日本の里程は日本橋を基準としている」ということを書いています。

日本国道路元標
日本国道路元標(複製)

東京市道路元標
東京市道路元標(奥は三越)


 まず、安永年間、1776年に江戸にやってきたスウェーデン人の医師ツュンベリー(ツンベルク)は、道中を次のように書いています。

《道路をもっと快適にするために、道の両側に灌木がよく植えられている。このような生け垣に使われるのが茶の灌木であることは、以前から気付いていた。今日もそうであった。
 里程を示す杭が至る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がどのように続いているかを記している。この種の杭は道路の分岐点にも立っており、旅する者がそう道に迷うようなことはない。(中略)
 距離はすべて、この国の一点から起算されている。その起点はすなわち首府江戸にある日本橋という橋である》(『江戸参府随行記』)

 ヨーロッパ以上に整備された道を見て、ツュンベリーは、《野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すぐれた規則に従っている様子を見せてくれる》として驚嘆しています。

日本橋
『東海道名所図会』(寛政9年=1797年刊)の日本橋


 道の整備に驚いたのは、ドイツ人医師のシーボルトも同様でした。文政9年(1826)の江戸紀行で、広い街道には両側にモミ、イトスギ、コノデガシワなど蔭の多い樹木が植えてあり、一里塚はモミやエノキが植えてあると言及しています。また、ヨーロッパ以上にガイドブックが充実していることにも感心しています(『江戸参府紀行』による)。

日本橋
ウンベール『日本及び日本人』(明治7年=1874年刊)の日本橋。虚無僧とかいろいろ


 参勤交代のおかげで、日本には世界最高クラスの旅文化があったわけです。今回は、その旅の起点である日本橋の話です。


「出島の3学者」の最後の1人は、元禄4年(1691年)、江戸にやってきたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル。彼は日本橋に来たとき、その往来の激しさに驚いています。

《橋の1つは42間の長さがあって、日本国中で有名である。動かぬ中心点として主要な街道やあらゆる地方までの距離は、この橋から計るからである。それでこの橋は特に日本橋と呼ばれている。橋の下を流れている川は、外堀から来るのであって、その堀とは600歩ほど離れているように思われた。この主要な中央通りは、ちょうど50歩の幅があり、われわれは信じ難いほどの人の群や、大名や役人の従者、みごとに着飾った婦人たちに出会った。歩いている者もあれば、駕籠で行く人もいた。特にヨーロッパの軍隊式の隊形をした約100人の、消防隊の徒歩の行進にも行きあった。彼らの制服は褐色の皮の上着で、それゆえ火事に対して都合よく作ってあった》(『江戸参府旅行日記』)
 
 日本橋は、徳川家康が慶長8年(1603年)に架橋させました。これは『慶長見聞集』に、「日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町割の時節、新らしく出来る橋なり」とあることがどうも唯一の根拠みたいですね。そして翌年、全国里程の原点と決められ、東海道など5街道の起点となりました。

 言うまでもなく、日本橋は当時の江戸の中心で、橋の北側には巨大な魚河岸がありました。川沿いには塩、米、材木などの河岸も広がり、まさに経済の中心としてにぎわいました。

『江戸名所図会』の魚河岸
『江戸名所図会』(1834年刊行)の魚河岸

 魚河岸は、天正年間(1573〜92)に白魚市が開かれたのが最初で、やがて魚市場として大きく栄えました。明治26年に日本に来たボヘミア人のヨゼフ・コジェンスキー『ジャポンスコ』によれば、市場にはイカ、タコ、イワシ、サケ、コイ、ニシンからマグロ、カニ、伊勢エビ、エイまでありとあらゆる魚が並びました。ちなみに特に珍重された魚が「顎がオウムのくちばしに似ているもの」だそうです。クロダイのことでしょうか?
 この魚河岸は、関東大震災後に築地に移転するまで、事実上、江戸の台所を支え続けました。


 でだ。
 明治初期まで、日本橋は浮世絵に出てくるような丸い橋でした。ですが、この橋に「失望した」と書いてる外国人がいます。明治4年(1871)に日本橋を見たアメリカ人教師グリフィスです。

日本橋
明治5年の日本橋(『The Far East』1872年4月16日号)

《この東京の中心にある日本橋から、日本の大きな道路のすべてを測るといわれている。このことはすでにアメリカで聞いていた。またどんな田舎の日本人も知っていて、誰もが、ともかく立派な橋なら見たいと思う。だが誰もが失望する。というのはそれは猫背の木造建築で、古い薪の不ぞろいなかたまりである。橋の両側に気持が悪い乞食がいて、寝たり、賭をしたり、遊んだり、物乞いをしたりしている。ぼろをまとった托鉢憎が物悲しい声で祈りながら、羽子板の形の硬い太鼓を打つ。屑屋がむらがる。南から近づくと、左手に大きな高札が立っている》(『明治日本体験記』)

 日本橋の南には高札場や晒し場がありました。晒し場って、つまり罪人を見世物にしたわけで、そりゃ、雰囲気も悪くなりますな。
 まぁ、それだけ多くの人が通ったということでしょう。

高札場
明治2年の高札場(3代広重『東京名勝年中行事』)


 さて、架橋以来、火事で何度も焼け落ちた日本橋ですが、グリフィスが見た最後の丸木橋は、明治5年の銀座大火で焼失します。これが明治6年(1873)、西洋風の木造橋に変わります。欄干はX字型で、橋脚は青ペンキで塗られていたようです。

日本橋
欄干がX型なので、明治6年頃か


 その後、明治8年にガス灯がつき、同15年に鉄道馬車が開通します。

日本橋
ガス灯がついてるので明治8年頃か

日本初の鉄道馬車
日本初の鉄道馬車運行(下岡蓮杖撮影)


 この木造橋もボロボロになり、ついに明治44年(1911)、現在の石造橋に立て替えられました。『東京年中行事』によれば、第13代目だそうです(ウィキペディアでは第20代)。高欄(こうらん)装飾は、すべて美術学校が担当しました。

《新日本橋の長さは27間に幅15間、そのうち車道に10間とって、真中の電車通が17尺、両側の人道は幅各2間半ずつ、橋面の坪数は405坪、高さは橋の底から32尺5寸、満潮の時の水面からの高さは丁度15尺5寸、用いられた各種の花崗石の数は8万3000余切、使ったセメントが9300余樽、装飾用の青銅が7437貫であって、総費用が52万3890円、工事の日数は41年12月15日から始めて835日であった》(『東京年中行事』)

市電が走る日本橋
市電が走る日本橋(大正7年=1918)

震災後の日本橋
震災後の日本橋
左奥が帝国製麻本社。中央が三越(昭和5年=1931)


日本橋
高速道路に埋もれる現在の日本橋
(長さ49m、幅27m、ルネサンス様式)


日本橋の開通式


制作:2007年10月30日

<おまけ>
 日本橋といえば、人力車が有名でした。
 日本初の人力車は、明治3年、和泉要助が銀座で営業開始しましたが、当然、日本橋にも多くいて、大繁盛しました。ちなみに明治5年の『名古屋新聞』第5号によれば、当時、東京に5万6000両、大阪1642両、京都に162両あったそうです。東京の文明開化は、人力車とともに始まったのでした。
日本橋の人力車引き札
日本橋の人力車引き札(宣伝ビラ)
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