戦後「復興」計画
敗戦から10年でここまで復活した!

敗戦から10年目の広島
敗戦から10年目の広島


 1919年、ドイツ・ワイマールに国立デザイン学校「バウハウス」を設立したワァルター・グロピウスは、1954年に来日して次のように言いました。

「多くの人たちからタタミを廃止しろという意見も聞かされたが、タタミ を日本の住宅からすぐに追出すことは出来ないことだ。私は伝統とのつながりを忘れて、いきなり新しいものに飛びついてゆくことは危険だと思う」(朝日新聞1954年7月31日)

 戦後まもなく日本の家屋は洋風化し、わずか10年もしないうちに畳は「旧態依然」の象徴として消滅の危機にありました。それを強く批判したわけですが、グロピウスの声は当時の日本人にはまったく響きませんでした。


 日本は戦争に負けて廃墟になりましたが、そこから「宗主国」アメリカをモデルにして奇跡的な復興を遂げました。実はその過程には行政による大きなグランドデザインがあったんですが、仙台、名古屋、広島のようにかなり理想的に計画が実現した都市もあれば、東京のようにまったく機能しなかった都市もありました。
 いったい日本はどうやって復興したのか? 今回は知られざる復興計画についてまとめます。

1945年、被爆直後の長崎
1945年、被爆直後の長崎

1955年、復興中の長崎
1955年、復興中の長崎


 日本の空襲被害は250都市、そのうち特に被害が大きい115都市は1946年に「戦災都市」の指定を受けました。罹災面積は6万3000ha、罹災戸数232万戸(内地の2割)、罹災人口970万人(内地の1割強)に及びました。

 内務省は終戦直前から復興計画の立案を開始し、敗戦から2カ月後には「全国都市計画主任官会議」を開催するなど、早い段階から復興方針を各都道府県に内示します。
 11月5日、省と同格の「戦災復興院」が設立されました。戦後の復興は、この戦災復興院と、物資の流通などを担当した「経済安定本部」(経済企画庁の前身)が2大柱となって進めていきます。
 12月30日、「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定し、グランドデザインが決まりました。


広島

1955年の広島
1945年→1955年の広島(1=比治山/2=広島ガスのタンク)


 戦災復興院の初代トップには、宝塚を作った阪急グループの小林一三が就任するんですが、こちらは戦後復興は地方が独自に行うべきで、なるべく国家予算は使わない考えでした。一方、事務方は国家予算で復興すべきとの考えで、双方の対立は根強くあったといいます。
 また、GHQは日本の復興には何の関心もなく、むしろ内務省解体による悪影響しかなかったそうです(越澤明『復興計画』による)。

「戦災地復興計画基本方針」はかなりレベルの高いもので、道路、緑地、港湾、広場などに斬新な規定が定められました。
 たとえば幹線道路は中小都市で幅員36m以上、大都市で50m以上、さらに必要に応じ幅80〜100m道路も推奨され、特に東京では幅100m道路が8本も計画されました。
 また、緑地は市街地の10%以上という基準値が明記されています。たとえば100m道路であれば、そのうち40mがグリーンベルトという感じです。
 このほか、電線の地下埋設、水道・下水道の整備、さらに火葬場や野菜市場の設置まで明確にされました。


1945年の大阪
1945年の大阪(空襲で炎上する文楽座)

1955年の大阪
1955年の大阪
1十合(そごう)/2大丸/3新橋ビル/4電気科学館/5文楽座/6御堂筋/7四つ橋


 ところが、計画は資金難や人手不足などで難航し、さらにGHQの反対、1949年のドッジ・ラインによる緊縮財政で大幅に後退していきます。国家補助は、当初の9割支援が1949年に半額となり、1959年に打ち切られました。
 その結果どうなったか?

 1949年10月に閣議決定された「戦災復興都市計画の促進について」によれば、幅員100m道路は全国16路線から4路線に、44〜80m道路は128路線から65路線に減らされました。
 公園・緑地も《出来得る限り縮少することとし》、東京でいえば総面積にして約400万坪、40%も縮少してしまったのです。

 計画の縮小率は東京が最大で、都市整備は非常に不十分な形で終了しました。今、渋滞が多く、緑が少ないのはそのせいです。一方、名古屋や広島などは計画縮小に強く反対し、結果として、幹線道路と緑地の多い土地になりました。

1955年の東京・霞ヶ関
1955年の東京・霞ヶ関
(国会の目の前に教会が!)


 このように日本の戦後復興は根本的にうまくいかなかったんですが、あくまでこれは都市整備の話。経済的には朝鮮戦争特需などもあり、大きく復興したのはご存じの通りです。
 そんなわけで、戦後10年、1955年の復興ぶりを写真で見てみると、けっこう驚くわけですな。


東京駅周辺
1955年の東京
1中央郵便局/2旧丸ビル/3宮内庁/4新丸ビル/5国鉄本社/6大丸/7観光会館/8第2鉄鋼ビル


有楽町駅周辺
1955年の東京
1帝国劇場/2日活ビル/3日劇/4朝日新聞社/5数寄屋橋
 6旧マツダビル/7ピカデリー劇場/8有楽町駅/9毎日新聞社/10都庁



 なお、1956年、『経済白書』で「もはや戦後ではない」という言葉が使われました。そして1960年、池田内閣の下で「所得倍増計画」が策定されます。
 日本は豊かになりましたが、しかし経済優先の復興は日本各地で公害などの被害を生んでいくのでした。

1955年の川崎
川崎の煙突(1955年)

制作:2011年2月21日


<おまけ>
 1955年当時の社会情勢を書いておきます。
 1954年3月1日にビキニ環礁で第五福竜丸の乗組員が被曝し、7月1日に自衛隊が設立されます。こうした状況下、左翼は力を強め、1955年10月13日に社会党が統一。一方、11月15日に自由党と民主党が合併し自由民主党になり、いわゆる55年体制が誕生します。

第五福竜丸
第五福竜丸

 世の中が波乱含みのなか、中国の文学者・郭沫若が、1949年に建国した「中国」のPRのため来日して、旧友・谷崎潤一郎に次のように語りました。

「私は来てからまだ六日しかたたないが、やっぱりよくわかったことは、 日本はもう一度明治維新に入るだろうということです。それは人民の力が軽視できないということですよ。もう一度大化改新が来ますよ。心配しちゃいけません。しっかりしなさい。元気を出して……われわれがそうであったんですから」(朝日新聞1955年12月7日)

 この発言の通り、まもなく日本は安保闘争という革命の季節を迎えるのです。

55年体制
復興のターニングポイントだった55年体制の誕生日
 
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