ニッポンの凱旋門
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現存する「日本の凱旋門」すべて行った
「凱旋紀念門」の文字
日本は明治維新を経て、明治27年(1894)、初の対外戦争である日清戦争を経験します。そして明治37年には日露戦争勃発。日清戦争も日露戦争も、戦況は日本優位に進み、兵士は「勝った勝った」で凱旋します。それを迎える側は、各地に凱旋門を作って大歓迎しました。
日露戦争・新橋の凱旋門
日清戦争では、明治28年の日比谷の巨大凱旋門が有名で、樋口一葉も、
《凱旋門も今日は取くつさん(=取り崩さん)とすなと聞くにそは情なし 千載の一事といふ此大いわひ(=大祝い)にあひなから空しくその門さへ見過くさんや さらばこれよりけい古(=稽古)終らは直にゆかん》(『水の上』1895年6月1日)
と、壊される寸前の凱旋門を慌てて見物に行っています。
日清戦争・日比谷の凱旋門(「帝徳無窮」の反対側は「聖駕奉迎」)
より大規模となった日露戦争では、国全体が祝賀ムードに沸き、東京はじめ日本各地に多数の凱旋門が造られました。そうしたなか、実は現在でも当時の凱旋門が国内に2つ残存しています。鹿児島県にある石造のものと、静岡県にあるレンガ造りのものです。このほか、柱だけのものが、少なくとも6つ確認されています。本サイトでは、そのすべてを訪問してみました。
まずは鹿児島県。姶良(あいら)市山田地区に今でも残っているのが、凝灰岩でできた石造凱旋門です。
日本で唯一現存する「石造」の山田凱旋門(鹿児島県姶良町山田/改修前)
山田の凱旋門は、日露戦争に出兵し、凱旋した兵士のため、1906年3月に作られました。山田村からは113人が出征して、14人が戦死したと伝えられています。高さ4.71m、幅4.88m、奥行き1.2mの見事な石造建築。門柱の間は3メートルほどで、そこに石のアーチが架けられています。建設に関わった石工は「細山田ケサグマ」という人物だとされますが、アーチには鹿児島の優れた石橋技術が応用されています。
右側の柱には「日露戦役紀念」、左側には「山田村兵事会」と記載されています。兵事会は、当時、各自治体にあり、出征事務や家族の支援を担った組織のことです。
「山田村兵事会」と彫られた柱
この凱旋門は、南北に集落を貫く目抜き通りの突き当たりにあります。かつて山田村だった時代、ここは役場横の広場でした。相撲大会など、村の祭りが開かれた場所です。
現在は道路わきにぽつんと立っていますが、門をくぐると、その先には長い石段が。途中には巨大な砲弾が飾られ、さらに階段を上ると、奥には招魂社がありました。ここには、西南の役、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争で亡くなった英霊1200柱が祀ってあります。階段の上からは、晴れた日には桜島が望めるといいます。
途中に飾られた巨大な砲弾
この凱旋門は、2001年、国の登録文化財となりました。また、2005年には、日露戦争100年にあわせて大規模な修復工事がおこなわれました。地震が起きれば倒壊する危険もあったため、支柱とアーチに鉄棒を入れて補強しています。
実は鹿児島市にも、いづろ通りに高さ約14mのはるかに大きな石造凱旋門があったのですが、先の戦争で空襲を受け、破壊されてしまいました。
上から見た山田凱旋門(現在は樹木が茂り、この角度からは見えない)
さて、もう1つは静岡県に現存しています。浜松から車で1時間ちょっと。六所神社(浜松市北区引佐町渋川)の参道に立っています。こちらは煉瓦造りで、やはり1906年に建設されました。高さ3.6m、幅3.2m。当時の鎮玉村から日清・日露戦争に出征した人たちの生還を記念して建てられました。門の上には「凱旋紀念門」の文字が見えます。
日本で唯一現存する「レンガ造」の渋川凱旋門
門柱には、日露戦争で出征した68人、日清戦争で出征した16人の名前が柱に刻まれています。戦死者は2人、戦病死は3人だったと伝えられます。
れんがは側面の大きな面と小さな面を交互に出す「フランス積み」で、きれいなアーチが特徴です。柱の上には鋸の歯のような細工がされています。その上には、江戸切り仕上げの「笠石」が載っています。江戸切り仕上げというのは、石材の縁を欠き取って、中央に突起を出したものです。
この渋川地区は、かつて林業が盛んで、明治初期まで秋葉街道の宿場町としてにぎわっていました。門柱には建造費を寄付した住民の名前も刻まれています。
この渋川凱旋紀念門は、2002年、国登録有形文化財に指定されました。
裏側から見た渋川凱旋門
このほか、2本の石柱による凱旋門があります。熊本の3つある凱旋門は別記事にまとめてあるので、以下、それ以外を紹介しておきます。
潤田凱旋門(三重県)
三重県菰野町潤田の凱旋門は、竹谷川沿いの道路両脇に並ぶ高さ4メートルほどの2つの石柱で、左手に「祝凱旋」、右手に「陸海軍」と刻まれています。1905年10月、旧千種村の現在地に建てられました。
御影石(花崗岩)でできた2本の石柱の間には、日章旗を先端に結び付けた2本の木の棒が「X字」を描くように架かっていたとされます。
終戦後、千種村の住民は米軍の目を気にして、凱旋門を倒しました。しかし、1979年、石工・伊藤文助の家で元の原字が発見され、郷土資料館で展示されました。1980年、町内でおこなわれた全国植樹祭で昭和天皇が通ることになり、道路の改修とともに再び立てられました。
麻生凱旋門(大分県)
大分県宇佐市麻生地区の凱旋門は、高さ3.6m。伊呂波川沿いの旧村道にあり、左に「凱旋門」「海軍大将大勲位功一級東郷平八郎君所書」、右に「日露役」「明治四十年五月廿七日 有志者立」と彫り込まれています。文字どおり、東郷平八郎の揮毫です。この門柱の上部にはかつて砲弾と機雷が載せられていましたが、太平洋戦争のときに供出しています。
柱には「東郷平八郎」の文字が
最後は、福島県いわき市赤井(旧赤井村)に残された木製の凱旋門です。凱旋門は1905年、となりの平町と赤井村境の村側、夏井川にかかる愛谷橋のそばに立てられました。高さ約4.5メートル、直径約60センチの2本のヒノキの門柱が道路の両脇に立ち、門柱の上部に鉄製アーチが架かっていたといいます。日露戦争の出征兵士は40人で、帰還したのは36人と伝えられます。
この凱旋門、1984年、道路工事で撤去されたまま行方がわからなくなっていました(一説には1976年ごろとも)。この門柱が、2006年、出征記念碑近くの草むらで見つかったのです。
この門柱に防腐処理を施して、彩色し、コンクリート製の土台に乗せました。門柱は、腐っていた部分を切ったため、高さ約3.5メートル、直径約45センチとひと回り小さくなりましたが、道路脇にみごとに復元されました。2007年のことです。
赤井凱旋門(福島県)
実は、ここで紹介した凱旋門は、いずれも川のそばに立てられています。かつては村々の境が川だったことが大きな理由でしょう。日本の田舎は山がちで、村の風景にあまり変化がありません。しかし、川沿いの風景は地方ごとに比較的特徴があるため、凱旋した兵士も、「故郷に帰ってきた」との思いを強く感じたはずです。
江戸時代、日本には藩しかなく、国という意識はほとんどありませんでした。ところが、日清・日露戦争で外国と戦争したことで、日本人は初めて「国」という概念をを知りました。まさに「国民」が誕生した瞬間で、凱旋門はそのイメージを最高に演出してくれたのでした。
川沿いに立てられた麻生凱旋門
●熊本の現存「凱旋門」すべて行ってみた
●日本の凱旋門
制作:2025年6月24日
<おまけ>
東京のおもな日露戦争凱旋門をまとめておきます
(左)京橋凱旋門=高さ約16m。巨大な張天井に龍が描かれた和風様式
(右)新橋凱旋門=高さ約18m。月桂冠、大砲、錨などの装飾とイルミネーション
(左)日本橋凱旋門=高さ約14.5m。中央に月桂樹と桜
(中)新宿凱旋門=高さ約6m。木造、赤ペンキ塗り
(右)浅草凱旋門=高さ約14.5m。上部に錨と大砲の装飾
(左)万世橋凱旋門=高さ約19m。左右に青色の月桂冠
(右)三越呉服店の凱旋門(明治38年10月、東郷平八郎一行を迎えた)