熊本・現存する3つの「凱旋門」へ

石柱には「凱旋門」の文字(月田の凱旋門)
石柱には「凱旋門」の文字(月田の凱旋門)


 1888年(明治21年)5月、熊本の日本軍「熊本鎮台」は「第6師団」に改編されました。

 第6師団は、隷下に歩兵第13連隊(熊本)、歩兵第23連隊(熊本)はじめ、大分・宮崎・鹿児島の連隊を抱えています。日清戦争でも日露戦争でも、旅順攻撃や奉天会戦など有名な戦闘に参加し、名を馳せています。熊本は、長らく「軍都」として知られてきたのです。


西南戦争時、熊本城内に作られた仮兵舎
西南戦争時、熊本城内に作られた仮兵舎


 日清戦争が終結したあと、日本に凱旋した第6師団の様子について、『熊本兵団戦史・第1』に記録が残されています。占領軍を除き、諸部隊は1895年5月下旬から6月下旬にかけて、逐次内地に凱旋しました。第6師団司令部は5月25日に熊本に帰還しましたが、市民の出迎えは熱狂的でした。

《師団長黒木為楨中将以下170人は同日午後4時20分、熊本駅着の列車で凱旋した。駅頭には松平正直知事以下官民多数が出迎え遠征の労苦をねぎらった。駅構内に設けられた凱旋式場にのぞんだ黒木師団長らはこのあと市中行進、沿道数万の市民の歓呼を浴びた。
 細工町南端と石塘口には壮大な凱旋門までつくられていた。黒木中将が肥馬にまたがりやややつれたおももちで手綱をひきしばりながら現われると「バンザイ」の声が渦を巻き、軍都はひとしく戦勝に酔った。》

 熊本では、1896年1月30日から3日間、日清戦争での死者を慰霊するため、第6師団と市の共催で臨時の「招魂祭」がおこなわれました。会場は山崎練兵場で、師団側からの余興として競馬、能狂言、軍人踊、市民側からは仁輪加踊、角力(相撲)、花火などの奉納があり、熊本市民はもちろん、九州各地から参拝者が集まり、市内は大混雑しました。3日間にわたる祭典の人出は、合計で数十万と『熊本市政五十年史』に記録されています。

ボロボロになった歩兵第47連隊と歩兵第13連隊の軍旗
ボロボロになった歩兵第47連隊(大分、左)と歩兵第13連隊の軍旗


 日清戦争のときは、第6師団に兵士を供給するため、非常召集で数千人を確保しましたが、実際に戦地に派遣することはありませんでした。しかし、1904年に始まった日露戦争のときは、大規模な徴兵となりました。
 
 日露戦争では、既存の師団をすべて動員したことで、本土に駐留する師団がなくなるという異例の事態になったため、新たに4個師団を創設しています。熊本では、そのうち「第16師団」への動員を担当したため、てんやわんやの事態が続くことになります。

 1905年、熊本市で充員召集、臨時召集、補充召集などで動員令を受けた回数は全部で48回に及びました。動員に合わせ、市内各地に次々と兵舎が建てられます。役場が担当したこうした事務は、前例のない規模なだけに、作業は煩雑を極めることになります。結局、熊本では52部隊に合計2万429人の召集をおこないました。また、日露戦争で、熊本市内で召集された兵員は1088人となりました。

 日露戦争は日本が勝利しました。当然、凱旋した兵士たちは大歓迎を受けます。

《この世界戦史上に燦然たる光輝を放ち颯爽として凱旋帰還の郷土の勇士を迎えるため、市では市街地域の玄関口ともいうべき細工町5丁目地内祇園橋際に宏大なる凱旋門を建設し、同所から引きつづき細工町、西唐人町、中唐人町、明十橋通船場町地内へ花隧道700余間を建設したが、同工事は11月15日に着手し同年12月20日に竣工した。》(『熊本市政五十年史』)

 700間(1.3km)の花トンネルとは珍しいですが、このように熊本では、凱旋を祝うため、多くの凱旋門が作られました。日清戦争では祇園橋と石塘口に、日露戦争では祇園橋に加え、熊本駅と県庁前にもあったようです。


1888年に完成した熊本県庁
1888年に完成した熊本県庁


 帰還した兵士は、師団本部を出たあと、県内の地元各地に戻っていきます。当然のことながら、各地域でも街道沿いに小規模な凱旋門が作られました。これらはすぐに廃棄されることが多く、ほとんど記録に残っていません。しかし、たとえば1924年、熊本県議会では佐敷向町の「広田凱旋門」近辺では水害が多いなどと議論されており、相当数が作られたことが推測されます。

 実は、熊本には石造の凱旋門が多く、結果として、いまもいくつか日露戦争の凱旋門が残存しています。本サイトでは、確認できた3つの凱旋門すべてを訪問してみました。

熊本・古閑迫の凱旋門
古閑迫の凱旋門


 1968年に熊本県観光連盟が刊行した『熊本に見る明治』には、御船町七滝に日露戦争の凱旋門が建っていると書かれています。県道221号沿いの古閑迫にあり、麻生交通のバス停の名前も「凱旋門」となっています。

 日の丸の旗が2本交差した絵が刻まれた、太い四角の石柱が2本。一方に「日露戦役紀念」、もう一方に「明治三十九年一月十日設立 上益城郡七瀧」と彫られています。背面には石工・池上卯之吉とありますが、詳細は不明です。


古閑迫の凱旋門の背面
背面に書かれた「石工・池上卯之吉」


 石柱の上部にへこみ(穴?)があり、凱旋当時はここに竿(あるいは紐)をつながて2本の石柱をつなげたと考えられます。

古閑迫の凱旋門のくぼみ
石柱のへこみ


 なお、古閑迫は雨乞い祈願の寅舞(トラ舞)で知られ、バス停の近くにはその様子を描いた看板も立っていました。

「凱旋門」バス停
「凱旋門」バス停


 熊本県北部には、日本最古の記録文書が書かれた大刀で有名な江田船山古墳がありますが、この近辺には、菊池川を挟んで2カ所残っています。

玉名市月田の凱旋門
玉名市月田の凱旋門(凱旋兵士は奥から手前に歩いてくる)


 玉名市月田には、県道6号の両側に六角柱が2本立っています。高さ約2.5m、灰色の凝灰岩で作られており、柱には「凱旋門」と明記されています。裏には「明治丗九年一月建」とあるので、1906年1月完成だとわかります。

 もう一本には「日露役」などと彫られていましたが、後に「露」の文字が削り取られたとされます。裏には「陸軍少将 従四位勲二等功四級」などと建造者の肩書が書かれていますが、それ以上は読めません。そばには従軍兵の名前が彫られた石碑もありますが、こちらも文字はほとんど読めません。

「日」だけ残った玉名市月田の凱旋門
「日」だけ残った


 この凱旋門の対岸は和水町で、江田船山古墳が位置しています。そばにある謎の遺跡「トンカラリン」の入口にも凱旋門がありました。こちらも1906年1月完成。「祝凱旋」などと書かれており、9人の出征軍人の名前が記録されています。

和水町瀬川の凱旋門
和水町瀬川の凱旋門(これも「日」だけ読める)



 この兵士たちも、村人たちに大歓迎されて帰還したのでしょう。その賑わいが、目に浮かぶようです。

和水町瀬川の凱旋門「祝凱旋」
「祝凱旋」の一部だけ読める


日本の凱旋門

制作:2023年12月25日


<おまけ>

 参考までにグーグルマップ上で位置を特定しておきます。

●御船町上野古閑迫の凱旋門


●玉名市月田の凱旋門(正面から見る)


●和水町瀬川の凱旋門

 
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