「撃剣」の世界
興行主と剣士を独占インタビュー

撃剣
大日本撃剣会の錦絵(歌川国輝)


 知られざる撃剣興行の当事者2人のインタビューを掲載しておきます。出典は『日本及日本人』臨時増刊「明治大正半百年記念号」(1917)で、取材したのは『東京絵入新聞』の記者だった樋口新六(樋口二葉)。
 基本的には原文通りですが、読みやすさを優先し、文言を修正した箇所もかなりあります。

 まずは明治15年、浅草で撃剣興行を始めた野見浜雄氏。野見氏が明治44年に引退したことで、撃剣興行の歴史が終わりました。野見氏は、当時、上根岸に住んでおり、見るからに筋骨隆々で古武士の面影があったと書かれています。

《撃剣会ですか、撃剣会を起こしたのは榊原鍵吉先生です。明治6年でしたね、初めは徳川14代の将軍家茂公の追善のため、榊原先生はじめ、かの西村賢八郎、父の野見鍉次郎などが発起し、広徳寺の原で大試合を執行したところ、有名な剣客が集まって実に盛大なものになりました。

 この機を外さず、撃剣会を開いたらということになって、先生や西村や父などが相談しておりますと、本願寺にいた田沢俊明という人が金主をしようと言ってきた。新吉原仲の町の引手茶屋・家形屋直次郎も助力することになって、浅草左衛門川岸にて、その年の4月、何日だったかは覚えてませんけど、10日間の興行をしました。

 これを「撃剣会」といい、木戸を打ち、木戸銭を取って興行物としたそもそもの初めです。このときは18間四面の小屋掛で、四方へ桟敷を設け、貝を吹き太鼓を入れ、いよいよ見物客を入れますと、木戸の外に待ち構えていた客がどっと海嘯(津波)のように押し寄せ、瞬くうちに小屋が一杯になってしまい、足掻(動き)も取れませんので、木戸を締めて入場者を断る始末でした。

 それでも客は無理に入ろうとし、大混雑をきわめましたから、翌日は小屋を五間四方に広げる騒ぎになりました。朝早くより火事場のような混雑をして、ようやく小屋も広がり、これなら昨日のような騒ぎはあるまいと思っていますと、定刻以前に見物客はどしどし押し寄せ、昨日の群衆に輪に輪をかけた人出。木戸方はほとんど目を回さんばかりの光景で、どうかすると小屋も壊されてしまいそうな勢い。2日目も来た見物客を残らず入場させることが出来ません。
 
 このような始末で、場内は立錐の余地もなく、見物客は身動きもならない大入り。小屋も割れんばかりの盛況で、一勝負ありますごとにワーッワーッという喝采は鬨の声をあげるよう。ですから、3日目にもまた場内を広げましたが、人気のときは恐ろしいもので、見物客はまた前日に倍して雲霞のように押し寄せて来るので、とても来た者を全員入場させることが出来ません。こういう撃剣会は未曾有の盛会で、前後にないことです。

 会の評判が高くなったので、その後、撃剣会はあっちでもこっちで行なわれ、千葉派の人も桃井派の人もこれに倣って、撃剣会はー時の流行物となりました。田舎まで押し歩いて巡業することが、ちょうど相撲が先から先へと興行していくのと同じような光景となりました。

 その頃、剣士の鼻息はなかなか荒いもので、道具などを担いで歩くと、外見になるほどの勢いがあって、物好きな壮者はろくに竹刀を持つこともおぼつかないのに、剣術道具を担ぎ歩いて威張ったものでした。

 しかし、撃剣会の勢いは自然に衰え、明治12年ごろには、道具を担ぎ歩く者を見ると後ろ指を差されるような状態になり、明治14年、榊原先生が大和杖興行を始められたときには、前の撃剣会のような盛況を見ることが出来ませんでした。

 それから自分は翌15年に浅草公園で撃剣会の興行を始めました。これは決して営利に走ったわけではありません。明治9年に廃刀令が出て、日本固有の武術がだんだん廃れていくのを嘆き、また、剣客のなかにはずいぶん悲惨な境遇にある人々もいましたから、興行でもして、少しでもこれらの人々を助けたいと思ったのです。
 また一方で、廃れんとする剣道を維持するため、政府に向かって保護を仰ぐ方便として始めました。最初は下足料のみで興行し、後には木戸銭を取るようになりました。同時に、埼玉の選出代議士・星野仙蔵さんなどと図って、剣道保護の請願を議会へ提出したのは明治37〜38年頃でした。

 その後、幸にも剣道が中学校の課目に加えられるようになり、自分はいくぶんでも目的を達しましたから、明治44年に興行に関係しないことにしたのです》

撃剣の番付
撃剣の番付


 当時の錦絵を見ると、撃剣会の会場は、相撲の土俵のように中央に盛土がしてあり、周囲に四本柱を立て、水引を張り、日よけの雨障子(天幕)を掛けてあったことがわかります。
 選手の呼び出しには吉原の幇間を使い、興行主として香具師の親分・新門辰五郎を引き込んだことで、香具師の妨害を防いでいました。

 興行は次第に人気取りが目立ち始め、深川御舟蔵跡で開かれた「撃剣銘競」などでは、人気の芸妓や講談師をたくさん呼び入れ、ついには白粉を塗って出た選手もいるそうです。

 このインタビューが行われた大正6年には、すでに撃剣会が流行した当時の剣客はほとんど死んでいるか、行方不明になっていました。唯一、下谷下車坂に下妻久徴翁が道場を開いていたため、翁のインタビューも行われました。当時78歳でしたが、矍鑠(かくしゃく)としており、柔和で上品で綺麗な老人でした。謙遜し、言葉は少なく、武人の気質が仄見えたそうです。


《撃剣会ですか、ずいぶん盛大なものでありました。その起こりは明治6年の4月、興行日数は10日間という定めで始めたのですが、大入りで毎曰毎日、木戸を閉める勢い。とても見物人を入れきることが出来ません。かの左衛門川岸も人で埋まるほどで、撃剣に出る者が道具を担いで通ると、往来の人が珍しそうに振り返って見るような塩梅で、道具を担いでいると、先方から来る人が道を譲ってくれ、大手を振って歩いても人が許し、たいそう幅の利いたものでした。

 そのような景気でしたから、毎日毎日、小屋は割れるような大入り。こうなると今日は吉原の総見物だ、明日はどこの総見物だというように、1日に2組や3組の総見物もあって、見得をもっぱらとする花柳界では、撃剣会を見ないと幅が利かないような状態だったので、どしどし押し掛けてきました。2日間の日延をし、12日間大入り続きで打ち通しました。この分なら1カ月くらいは大入りで通せるだろうと言う者もありましたが、そうそう日延もできなかったと見えて、日延は2日で切りあげました。

 会へ出た人ですか。榊原さんは御承知の通り、講武所の師範役でしたから、その縁故もあるので番付に載っています。東方の大関・小川清武、関脇・大沢整、西方の大関・能勢慎吉の3人は講武所の教授、東方の小結・松平康年、西方の関脇・織田正暉、同じく小結・鈴木重備は講武所で世話役をした人でした。

 松平康年などは赤銅へ葵の紋を散らしたものをつけ、華やかな扮装でした。当時はまだ葵の紋というと徳川家を追想し、慕(した)わしい気がする時節で、しかも苗字が松平なのでたいそう注意を引き、彼は御連枝(ごれんし)の人に違いないと評判になり、贔屓が多く、たいそう持てはやされました。それで得意になり、なかなか鼻息も荒く、後には松平といわず「御連枝」と綽号(しゃくごう)されるようになって、「御連枝」という掛け声が見物客からかかることもありましたが、実際は単なる一橋藩士でしたから大笑いです。
 
 東方の前頭にいる磯義陳、この男は剽軽(ひょうきん)な人で、滑稽な試合をしては見物客を笑わせました。これもなかなかの人気男で、この人が土俵へ上ると、見物がワッと騒ぎ、立って嬉しがったものです。(散髪令の後、)早い時期に頭髪を切り、頭の真ん中を額ぎわより剃っていましたから、客は磯が出ると「頭が池」「頭が池」と浴びせかけたものです。頭が池とはお玉が池の綟(もじ)りですね。お玉が池には磯という柔術の先生がいて、その名がお玉が池で通っていたので、同姓であるのと頭を剃って池のようになってたから、このような洒落を言い出されたのです。

 西方に佐竹貫龍齋というのがありましょう。これが大坊主で、たくましく見える老人でしたが、若い妾の並川茂と真剣、薙刀を使ったのも呼び物になっていましたし、呼び上げの吉原幇間・露八や正孝が立派な風で出てくるのも、何だかほかと釣り合いが取れず、妙でしたよ。

 左衛門川岸の撃剣会が終わると、すぐ横浜へ行きましたが、ここでも大入りで10日間の興行でした。小屋も左衛門川岸より大掛かりで、桟敷などは3階にして客を入れても追いつかず、遅く来た者は木戸で断る騒ぎでした。
 
 木戸銭ですか。横浜の方は、皆、泊り込みで、宿屋代も先方持ちですからね。木戸も高く取らなければ合わないでしょうが、いくらかは覚えてません。左衛門川岸は100……今の10銭であったように記憶しています。
 
 横浜を打ちあげて帰りました頃は、もうあっちでもこっちでも小さな撃剣会がありまして、種々の工夫をした撃剣会が催されて、盛んにポンポン叩き合う音がしました。
 こうなるともう珍しくもありません。見物客の方でも飽きが来て、だんだんと寂れてまいります。そうこうするうち、撃剣会でロ糊をしていた剣客……剣客といっても手腕があって何の某と名乗れる者ではなく、ただ撃剣会が流行るので出場して日当を貰った日傭取(ひようとり)連中は収入がなくなって参ります。

 日当ですか。一時、2両も3両も当たったと仰いますが、そうです、名の通った立派な人になると当たりましたとも。下回りの者でも相当に金回りがよく、パッパと遣ってきた癖がついているところへ、撃剣会はだんだん入りがなくなる、実入りは次第に悪くなるという始末。そのうち不心得者が現れ、「斬取(きりと)り強盗は武士の慣い」などと申し、なかには剽盗をやったり、強盗をやったりする者が、撃剣会の連中より出ましたので、年月日は覚えていませんが、撃剣会は以来禁止という御達しが出ました。

 真面目にやってきた榊原一派も巻き添えを食って、榊原さんなどもたいそうお困りになり、そこで明治14年に大和杖興行という名で再び撃剣会を始めました。これは官許でしたが、このときはもう人も飽きはてて、いっこうに振いません。その後は浅草公園で野見さんがブウブウドンドンと景気をつけて撃剣会を興行されていたものくらいでしょう》


撃剣
撃剣会(『埼玉県写真帖』、1912年、国会図書館蔵) 


制作:2012年10月15日

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