「剣道」の歴史
あるいは撃剣の誕生
銃剣の訓練
かつて軍隊に入ると、銃剣と呼ばれる訓練がありました。銃剣は、銃の先に剣を取り付けることで、接近戦に使える武器のことです。
もともと、江戸時代の砲術の専門家・高島秋帆が「洋式調練」を始めたときに導入されたものですが、明治も後期になって重視されるようになりました。
銃剣術は、基本的には日本古来の剣術と似たようなものですが、実は、この剣術、明治9年の廃刀令で消滅寸前の危機にありました。今回は、この剣術の誕生と衰退、そして復活の道をまとめます。
廃刀令。納得のいかない旧武士は、刀に「売り物」と
書いて持ち歩いたり、細い木の棒を差したりして抵抗
剣術の歴史は古く、『日本書紀』に「紀元前50年、豊城命が山の中で撃刀(たちかき)した夢を見た」と書かれているのが日本最古の記述です(「崇神48年正月、自ら御諸山に登りて東に向きて、8回弄槍(ほこゆけ)し、8回撃刀す」)。
その後、武士が勢力を持つにつれ、剣術も発展し、多くの剣豪が登場します。
たとえば源義経が盗み学んだという兵書『六韜』の開祖は鬼一法眼(きいちほうげん)で、京八流の祖として伝えられています。
そして、室町時代後期に誕生した以下の3流派が、以後の主流となりました。
●天真正伝神道流(てんしんしょうでん しんとうりゅう)
開祖:飯篠長威斎家直(いいざさ ちょういさい いえなお)
●陰流(かげりゅう)
開祖:愛洲移香斎久忠(あいす いこうさい ひさただ)
●中条流(ちゅうじょうりゅう)
開祖:中条兵庫頭長秀(ちゅうじょう ひょうごのかみ ながひで)。念流の影響を受けている
江戸初期になると、徳川将軍家は、
●小野派一刀流(伊藤一刀斎景久が開祖で、中条流の流れをくむ)
●柳生新陰流(柳生宗厳が開祖で、陰流の流れをくむ)
の2派を公式流派としたため(「御流派」)、以後、各藩でこの流派が広がります。
ところが幕末になると、形式を重視した両派の勢いは落ち、新流派が続々と誕生します。水野忠邦が江戸に招いて剣法を観賞したのが、
●直心影流(男谷精一郎)、幕臣
●心形刀流(伊庭軍兵衛)、幕臣
●北辰一刀流(千葉周作)、道場は神田お玉が池「玄武館」
●神道無念流(斎藤弥九郎)、道場は九段坂上「練兵館」
●鏡新明智流(桃井春蔵)、道場は築地浅蜊河岸(あさりがし)「士学館」
などです。ちなみに上記3つが江戸の3大道場とされています。
陸軍士官学校の「銃剣術」演習(明治)
明治時代になると、武士の時代が終焉し、封建社会の身分制度が一挙に崩壊していきます。
明治4年(1871)、廃藩置県によって、多くの武士が解雇されました。同年、帯刀をやめるための「脱刀令」が出され、武士の受難が続きます。
ここで登場するのが、榊原鍵吉という幕臣の剣術家。榊原は直心影流という剣法を学び、講武所(こうぶしょ)の剣術教授をしていました。将軍の個人教授を務める大物でしたが、維新後は失職してしまいます。
困窮した榊原は、自分や門弟の生活を守るため、明治6年、武士の秘術とされた剣術を見世物にすることを思い立ちます。これが「撃剣」(げきけん)と呼ばれるものです。
撃剣興行は大人気を博しますが、興行の質が下がったことで、禁止されてしまいます。さらに明治9年には「廃刀令」が出され、武士の誇りは持つことさえできなくなりました。
この時点で剣術は風前の灯火となり、消滅の危機に瀕していました。
ところが明治10年(1877)、西南戦争で抜刀隊が活躍したことで、剣術が徐々に見直されます。
榊原は、明治14年に大和杖(倭杖=やまとづえ)という木刀を発明し、撃剣に似た大和杖興行を行いますが、興行としての魅力はもはやありませんでした。
しかし、軍隊では撃剣術や銃剣術が指導されはじめます。特に日清戦争後の明治28年(1895)、大日本武徳会が設立され、武術の復興と普及が図られるのです。この大日本武徳会によって剣術は画一化されていき、同時に「剣道」という言葉が普及していきます。
陸軍士官学校の「軍刀術」演習(明治)
さらに日露戦争後は、学校教育にも武術が正式採用されるようになりました。大正15年(1926)、体操要目の改正で撃剣が「剣道」と呼称され、この名称が一般化するのです。
実際問題、榊原がいなければ、日本伝統の剣道の命脈は尽きていた可能性もあるでしょうね。
そんなわけで、撃剣の始まりを知る2人のインタビューを掲載しておきます。
陸軍の銃剣術訓練(昭和)
制作:2012年10月15日