原爆ドーム100年の物語
あるいはバウムクーヘンの誕生

原爆ドーム
原爆ドーム


 広島生まれの女性には、「みゆき」という名前が多かったと言われます。なぜなら、広島には、日清戦争のときに「大本営」が置かれ、明治天皇の行幸にからんだ「御幸橋」や「御幸通り」があるからです。御幸橋は宇品港へ向かう幹線道路に位置しており、多くの兵士がこの橋を渡り、港から出征していきました。

宇品港
宇品港


 明治が終わり、大正天皇の即位式(御大典)は、1915年(大正4年)11月10日に行われました。
 この最大級のお祝い事にあやかって、日本中でさまざまな祝賀行事が開かれました。広島では、この日から10日間、「広島のお菓子品評会」が開催されています。

 品評会は昼夜開催でしたが、御大典イベントということで、多くの入場者が来場し、大変な盛況に。毎晩、夜は入場制限するほどでした。

 このとき第一会場となったのが、中心部に位置する広島県物産陳列館でした。
 建物が落成したのは、1915年4月5日です。開館式は8月15日ですが、すでに6月には「手拭い図案の懸賞応募」、10月には「英仏広告資料展覧会」が開かれており、「菓子品評会」は満を持しての開催でした。

原爆ドーム
広島県物産陳列館


 陳列館は、広島の物産を国内外に広め、販売を拡大させるために作られました。開館時におこなった展示商品の審査記録には、審査の目的がこう書かれています。

《本県産業奨励の趣旨を体し、地方経済に及ぼす関係に重きを置くはもちろん、国家的見地より輸出品、輸入防遏(ぼうあつ=防ぐ)品を奨励するを もって方針とし》(『広島県物産共進会審査報告』)

 陳列館では、1916年5月から商品販売コーナーも設置され、広島の産品の一大販売拠点になりつつありました。

 この陳列館を作ったのは、アイデアマンで知られた県知事の寺田祐之です。当時、県知事は全国を回る仕組みでしたが、寺田は前職の宮城県知事時代、松島を一大観光地にする大プロジェクトを打ち出し、そのシンボルとして東北地方初のリゾートホテル「松島パークホテル」を建設しています。

松島パークホテル
松島パークホテル


 この松島パークホテルを建造したのが、チェコ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)出身の建築家ヤン・レツルです。
 寺田はこのホテルの出来に満足し、物産陳列館の建設も任せました。

 陳列館は、煉瓦と鉄筋コンクリートによる3階建てで、中央の塔屋が5階建て。高さ25mの塔屋には楕円形のドームが載っており、大正期らしい大胆な曲面と、セセッション(ウィーン分離派)風の幾何学的な装飾が特徴です。
「白亜の高楼」「白亜の摩天楼」と言われるほど壁は白く、ドームは銅板葺き。その銅は時間が経つと酸化して緑青をふき、白壁と緑のドームがとても美しい建物でした。

 庭園も付属しており、建物の周囲は生け垣ではなく、代わりにお茶の木が植えられていました。その脇にはカラフルな松葉牡丹が咲き、花を摘んで遊ぶ子供たちもたくさんいました。
 
原爆ドーム
陳列館の庭園


 この、広島随一のランドマークに入ったことのある作家の原民喜は、こう記録しています。

《子供の時、この洋式の建物がはじめて街に現れた時、彼(=原のこと)は父に連れられて、その階段を上ったのだが、あの円い屋根は彼の家の二階からも眺めることが出来、子供心に何かふくらみを与えてくれたものだ》(『永遠のみどり』)

 それにしても、なぜ寺田は陳列館の建設を思いついたのか。

原爆ドーム地図
軍事施設が大量にあった広島


 広島は、日清戦争、日露戦争で一気に繁栄していった町です。前述のとおり、日清戦争で「大本営」が作られ、その後、数多くの軍事施設が作られていきます。大規模な施設が作られるということは、地元の産品が大量に買い上げられるわけで、広島の経済は一気に潤います。
 そこで、育った産品や産業を、県外はもちろん、世界に販路を広げようとしたのが陳列館の目的でした。

 寺田は、陳列館の落成と同時に40日間にわたって共進会(産業博覧会)を開催します。広島の産品が大量に飾られ、次々と販売されました。

原爆ドーム 原爆ドーム

原爆ドーム 原爆ドーム
陳列の様子


 初代館長の吉田壽信は東京高商(現在の一橋大)出身の商業の専門家で、「県産酒類の如き(は)品位優良であるから容器を改善すること」(中国新聞1916年7月2日付)など、次々と振興策を披露しました。
 こうして、開館から1年経たない1916年7月の段階で、入場者15万7000人、受託販売高9795円という大きな成功を収めたのです(『広島県物産陳列館報告』による)。

 陳列館はイベント会場としても利用されており、美術展や音楽会なども開催されました。この建物のすごいところは、正面玄関が元安(もとやす)川に面していたことです。当時は玄関といえば道路側が当たり前で、川には裏口が作られるのが普通でした。ところが、川側に正面玄関を設置したことで、夜のコンサート終了後、観客は川面に映るあかりを目にすることができました。これをハイカラと言わず、なんと言うべきか。

原爆ドーム
イルミネーション


 1917年2月、陸軍省は、元安川の河口そばの似島に、俘虜(ふりょ)収容所を設置します。大阪の収容所が閉鎖されたためで、検疫所のあった似島に移転してきたのです。移送されてきたのは、1914年11月、第1次世界大戦で日本軍が山東半島の青島を占領した際のドイツ人捕虜500数十人です。

 そして1919年3月4日から13日まで、陳列館で「似島独逸(ドイツ)俘虜技術工芸品展覧会」が開かれます。
 ドイツ人が制作した工芸品、革製品、模型、飲食物など323品目が出品されたんですが、このなかに日本人が初めて見る食べ物がありました。バウムクーヘンです。

 バウムクーヘンを出品したのは、ドイツ人のカール・ユーハイム。山東半島の青島にあったドイツ菓子店で働いていたユーハイムは、民間人にもかかわらず、軍籍があるとして日本軍に捕えられました。

俘虜収容所
俘虜収容所(国会図書館『大正三四年戦役俘虜写真帖』)


 バウムクーヘンはどうやって作るのか。当時は、青竹に生地を薄く塗り、火の上でゆっくり回転させ、焼き色を付けます。焼き色が付いたら、その上にまた生地を塗り重ねて焼き、次々に層を作るのです。材料は小麦粉、卵、バター、砂糖の4種類だけで、ほのかに竹の香りがする素朴な味でした。当時、日本人はバターを食べ慣れていないため、バターを少なめにするなど工夫を凝らしたと伝えられています。

 このバウムクーヘンは大好評となりました。自信をつけたカールは、約5年間の抑留から解放された後、日本にとどまる決意をします。横浜で菓子店ユーハイムを開業しますが、1923年9月、関東大震災で店は倒壊。カールは神戸で再起を図ります。この店は、谷崎潤一郎の『細雪』にも《妙子はその日、神戸の元町へ買い物に出た帰りにユーハイムでお茶を飲んでいると……》という文章で登場するほどの名店となりました。
 
 ちなみに、カールが日本で初めてバウムクーヘンを焼いた3月4日が、「バウムクーヘンの日」と認定されています。

戦前の広島
戦前の広島(手前は監獄)

 
 1921年1月、物産陳列館は「商品陳列所」に改称し、さらに1933年11月、「広島県産業奨励館」へ改称します。満州国への販路拡大を目指し、大連、新京、ハルピンなど海外にも出張所を設けました。

 しかし、戦火が拡大するなか、1941年にはレツルがデザインした門扉を金属供出。
 1943年には、すべての展示室が「決戦事務室」に転用され、12月の「聖戦美術傑作展」が最後の催しとなりました。1944年3月末をもって、館の業務は完全停止。
 そして、1945年8月6日午前8時15分、米軍が投下した原爆が館の南東160m、上空約600mで炸裂し、広島は壊滅するのです。

原爆ドーム
原爆イメージ(広島平和記念資料館)


 館内にいた約30人は全員即死したとされますが、爆風が真上から均等に来たため、建物の中心部分は奇跡的に倒壊を免れました。これが、後に「原爆ドーム」と呼ばれ始めます。

 先に引用した原民喜の『永遠のみどり』は、こう続いています。

《今、鉄筋の残骸を見上げ、その円屋根のあたりに目を注ぐと、春のやわらかい夕ぐれの陽ざしが虚しく流れている。雀(すずめ)がしきりに飛びまわっているのは、あのなかに巣を作っているのだろう。……時は流れた。今はもう、この街もいきなり見る人の眼に戦慄を呼ぶものはなくなった。そして、和やかな微風や、街をめぐる遠くの山脈が、静かに何かを祈りつづけているようだ》

 原爆ドームは、長らく解体か保存かで議論が続きましたが、保存のきっかけは、1歳で被爆し16歳で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記でした。
《あのいたいたしい産業奨励館だけがいつまでも、おそる(べき)げん爆を世にうったえてくれるだろうか》(1959年8月6日)

 この文章が保存運動を広げ、ついに1966年、広島市議会で永久保存が決議されます。被爆から21年後のことでした。

原爆ドーム
貴賓室


制作:2018年1月21日

<おまけ>

 神戸で再起したカール・ユーハイムの店は、1945年6月5日の神戸大空襲で焼失します。この1カ月前に息子がヨーロッパで戦死しており、ユーハイムは8月14日、失意のうちに亡くなります。戦後、店は再建され、妻の奮闘で全国規模の有名店となりました。

 陳列館の「技術工芸品展覧会」に参加したメンバーには、ほかにソーセージを出品したヘルマン・ヴォルシュケもいます。昭和の初め、銀座で日本初のホットドッグを販売した人物で、1934年には、アメリカから来たベーブルースにもホットドッグを販売したといわれます。

 また、似島ではありませんが、名古屋で収容されていたハインリッヒ・フロインドリーブは、解放後、敷島製パンの技師長を経て、神戸で洋菓子店「フロインドリーブ」を開きました。彼がNHK朝ドラ『風見鶏』のモデルですが、洋菓子やパン、ホットドッグが日本で広まったのは、間違いなくドイツ人捕虜のおかげでした。

<おまけ2>

 1945年6月5日の神戸空襲では、広島県物産陳列館を設計したヤン・レッツェルの作品「オリエンタルホテル」も破壊されました。このホテルは、当時日本最高のホテルの一つと賞賛されていました。ちなみに、このホテルが、神戸ビーフの名声を世界に広めたと言われています。

神戸オリエンタルホテル
オリエンタルホテル

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