軍艦島観光
驚異の画像ワールドへようこそ!
世界遺産「軍艦島」を行く
軍艦島(1999年)
日本有数の海底炭坑で知られる「軍艦島」は、長崎港の西南約19km沖合にあります。正式名称は「端島(はしま)」で、面積約6ヘクタール、480m×160mの非常に小さな島です。
江戸時代から石炭の存在は知られていましたが、度重なる台風によって開発は難航。
明治20年(1887年)、第1竪坑の開削が始まり、その3年後、三菱(岩崎弥之助)が10万円で購入し、炭鉱としての歴史が始まります。
明治30年(1897年)、端島には3つの竪坑があり、約1000人の坑夫が働いていました。
当時、端島では「納屋(なや)制度(または飯場制度)」と呼ばれる労務管理制度が敷かれていました。坑夫を飯場とよばれる宿舎に住まわせ、厳しく生活管理していたのです。
納屋制度は、しばしば「過酷な労働」の代名詞のように言われますが、実態はどうだったのか。
軍艦島(1910年頃)
この年の3月13日、第1竪坑で火事が起こり、放水による水没で廃坑になります。
会社は、坑夫をほかの竪坑に振り分けますが、規模が小さいため、やむなく一部を坑外の仕事に就かせます。しかし、当然、給料は安くなるため、不満が続出しました。
4月13日、今度は第2竪坑に海水が浸入し、作業のリスクが高まりました。坑夫たちは会社にハシゴを掛けるよう要求、会社は72間(130m)のハシゴを設置することに同意します。
しかし、坑夫たちはこれだけでは納得せず、坑内エレベーターの設置を求めるのです。
その勢いで、坑夫たちは賃金引き上げを要求、同時にストライキを始めました。
現場に、不穏な空気が流れ始めます。
長崎からは多くの警官が来て、坑夫たちの説得に当たりますが、効果はありません。
困った会社側は、ついに全員解雇を決定。
この決断に驚いたのは坑夫側でした。労務管理のトップである納屋頭らが、今度は「なんとか半分だけでも雇ってくれ」と泣きを入れます。しかし、会社が半数だけを雇用した場合、坑夫たちの間で争いが起きるのは必至でした(『都新聞』明治30年4月23日による)。
こうして、端島初のストライキは収束します。
このエピソードを見る限り、「強制労働」といったニュアンスは感じられません。
騒動後、端島では納屋制度が廃止され、近代的な労務管理が始まりました。
軍艦島の炭坑施設
明治34年(1901年)2月5日、官営製鉄所(八幡製鉄所)が開業すると、高品質の端島の石炭は高い評価を受けるようになります。
炭坑の深さはどんどん深くなり、人口も増え始めます。
大正5年(1916年)、島に日本最古の鉄筋コンクリートのアパートが完成します。当初は4階建てでしたが、その後7階まで増築されました。このアパートは「30号棟」と呼ばれています。
30号棟の屋上。中央に吹き抜け。周囲の突起はかまどの煙突
大正10年(1921年)、高層ビルがそそり立った端島が、遠望するとまるで「軍艦土佐」のように見えることから、長崎日日新聞が「軍艦島」と命名します。
炭坑は24時間フル操業し、深夜も煌々と灯りがついていて、「不夜城」とも呼ばれるようになりました。ちなみに電気は海底ケーブルで送られていました。
下の写真は昭和4年(1929年)頃の軍艦島全景です。この写真を解説しておきます。
島の最高地点は海水をくみ上げるタンクで、右側のやぐら下が竪坑。当時でも地下350mまでありました。
左方にあるのが30号棟で、その前が、朝鮮人労働者用の木造平屋住宅。島のお偉いさんは、丘の中腹に作られた木造2階建てに住んでいました。このころはまだアパートが6棟しかなく、人口も3300人程度でした。
ちなみに、一番左にあるのがテニスコートです。
昭和4年(1929年)頃の軍艦島(東側)全景
昭和8年(1933年)、流行作家の江見水蔭が軍艦島を訪れました。
初めて見た軍艦島を
《竜宮城の如く各建築の電灯が輝き渡り、海上デパートかと疑われた》
と書き、興奮しながら早朝の島に上陸します。
《左手に近江の三上山を7巻半巻いたという大百足(むかで)の怪物の如き大鉄管。それは坑内への通風管だという。この桟道は、
栄螺堂
の階段式に、幾曲がりもしている。上方から、突然、頭部を爛々(らんらん)と光らしている一目入道の怪物の群が、急ぎ足で降って来る。それは地下労働の鉱夫の更迭(=交代)で、携帯電灯を、額に附けているのと知れた》(『水蔭行脚全集』第5巻より)
1929年頃の軍艦島。右が高層住宅。左が小学校
(1階には青果店や雑貨屋があり、2階以上が住宅。通常、1世帯が6畳3畳の2部屋で、家賃は畳1枚で5銭、つまり、1世帯あたり月45銭程度。当時鉛筆1本が5銭、牛乳1本が6銭程度だったので、家賃は激安でした)
江見水蔭は、この島はどうやって水を調達しているのかと従業員に聞きます。
答えは「海水を蒸留して作る」というもので、その結果、この島では大量の塩が製造されていることがわかります。そして、
《坑夫なども昔の如き荒い気分はなく、主義者(=左翼)が来ても、救護救済機関が整備しているので、爪も立たぬ》
《神社、学校、寺院、劇場、料理店まである等、正に洋上の理想郷。現実の極楽島》
とまで評価し、浴場で風呂に入ってから、就寝するのでした。
(なお、1931年から給水船による補給が始まっており、1957年には海底水道が完成しています)
島の頂上にあった神社
端島には1920年代から、多くの朝鮮人が働いていました。仕事と高給を求めて自ら海を渡ってきた人たちです。
戦局が悪化し、日本人の労働者が不足した1944年9月、国民徴用令によって朝鮮人の徴用が始まります。これは、下関ー釜山間の連絡船の運航が困難になる1945年3月まで続きます。
このとき、韓国の主張する強制連行があったのか、なかったのか。
実は、軍艦島には大正時代から遊郭がありました。遊郭といっても、いわゆる遊女屋ですが、昭和に入ると島南部の商店街に3軒の遊郭があったことがわかっています。「本田」と「森本」、そして、朝鮮人専用の「吉田」です。
「吉田」は遊女も朝鮮人でした(『軍艦島入門』による)。
つまり、朝鮮人も日本人と同じように遊郭で遊べたわけで、これはちょっと強制労働という指摘は的外れに思えます。
1955年頃の軍艦島
1955年頃
戦後はどうだったのか。戦後は労働組合が結成され、労働環境はかなり改善しました。
1954年に島に渡って、閉山まで採炭一筋だった山口政次さんが「地獄の一丁目と言いたいほど、仕事はきつかったが、とにかく稼ぎにはなった」と朝日新聞で証言しています。
《端島炭礦は、炭層が45度と急傾斜のため、足場の悪い中での重労働はこたえた。すぐ目の前で畳2、3枚ほどの岩盤が落ちたこともある。
命がけだったが、採炭係の給料は歩合制で、働けば働くほど増えた。「初任給は1万7000円。それまで勤めていた製粉工場の6カ月分だった」》(『朝日新聞』1995年6月29日)
豊かだった軍艦島の生活
島には木造の学校がありましたが、昭和33年(1958年)、鉄筋コンクリートの巨大校舎が完成します。後に増築され、7階建てとなりました。4階までが小学校、上の3階が中学校。エレベーターがないので、職員室は上にも下にもすぐに行けるよう、3階に作られていました。
端島小・中学校(左)
生徒が運動場を使えるのは午後5時まで。その後は大人に開放することになっており、そのため運動場にはナイター設備が完備されていました。子供たちは、校庭以外では、島のプールや地下のピンポン場で遊ぶしかありませんでした。放課後、子供たちが集まる場所は、アパートとアパートの間にある狭い「ビー玉広場」でした。
軍艦島のビー玉広場
昭和43年(1968年)、『少年マガジン』がこの島の教師を取材しています。教育の現場でいちばん困るのは何かと聞かれ、「生徒の浪費癖」と答えています。
《アパートでは費用を会社がもつので、電気も水道もただ。家賃は、1か月3円という安さ。だから、生徒は、電気はつけっぱなし、水道は出しっぱなし、落とし物は取りに来ない……。学校では、「よごさない、すてない、こわさない。」という、「3ない運動」で生徒をしつけているそうだ》(『少年マガジン』1968年30号)
軍艦島の学校に残されたモザイク画
残された学校生活の跡
当時、島には三輪トラックが3台しかありませんでしたが、数年前に交通事故で子供が亡くなっており、以後、トラックの前を赤い旗を持った人が走ることになっていました。
最盛期だった1959年には、島には5259人が住んでおり、これは世界最大の人口密度でした。『少年マガジン』30号には3800人と書かれています。
学校に残された卒業証書
硫黄分の少ない端島の炭質は世界一といわれましたが、炭層が1000mを超え、徐々に採算がとりづらくなってきました。保安上の問題や石油へのエネルギー転換もあり、1974年1月15日、閉山となりました。
年産約25万トン、出炭のピークは1941年の41万トン。戦後は、1972年に35万トンを記録しました。
軍艦島は長らく廃墟のまま放置されてきましたが、その後、観光船が整備され、今では長崎県の誇る大観光地となっています。
地獄段と呼ばれた曲がりくねる大階段
制作:2015年5月27日
墓地は集合墓?