宮崎「平和の塔」へ
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「八紘一宇」の誕生
八紘一宇の塔
宮崎市の平和台公園には、高さ36.4mの「平和の塔」が立てられています。戦前、この塔は「八紘之基柱」(八紘一宇の塔)と呼ばれていました。
いったいどうしてこんな巨大な塔が建てられたのか。今回は、その歴史を、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』から解説していきます。
南十字(サウザンクロス)行きの「銀河鉄道」に乗ったジョバンニとカムパネルラは、列車内で他の乗客と「ほんとうの神さま」について話し合います。
《「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」》(『銀河鉄道の夜』)
作者の宮沢賢治は法華経に強い思い入れがあり、日蓮宗の熱心な信者です。日蓮宗というのは他の宗派を認めず、基本的には一神教的な性格を帯びています。つまり、「ほんとうの神さま」というのは、日蓮(宗)を指していると考えられます。
八紘一宇の文字が書かれた切手
「ほんとうの神さま」トークの前段には、「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」とあります。
天上ではなく、この場所で作る「もっといいとこ」とは何か。
遺言が「法華経1000部を印刷して配布して」だった宮沢賢治の信仰心を考えれば、「日蓮宗によって統一された世界」だと判断しても間違いではないでしょう。
日蓮宗は、「一天四海皆帰妙法」を目標にしています。一天四海は世界を指し、妙法は法華経のこと。つまり、世界中の人が「南無妙法蓮華経」と唱えればいい、という思想です。まさに一神教による世界支配です。
宮沢賢治は、後に日蓮宗系の国粋団体「国柱会」に入会します。国柱会は、日蓮宗の僧侶だった田中智学が創設した団体で、名前は「我、日本の柱とならん」という日蓮の言葉からとられています。
田中智学は、日蓮宗をどうやったら世界に広められるかを模索するなかで、『日本書紀』に書かれたある文章に着目します。それは神武天皇の「橿原奠都の詔」(かしはらてんとのみことのり)で、内容は、ざっくりいうと「大和をほぼ制圧したので、橿原で建国するぞ」という宣言です。
大台ヶ原の神武天皇の銅像
宣言文には「皇孫の正義を信じる者を増やし、その後、国をまとめ、世界を1つの屋根にしよう」という意味の言葉が書かれています。
原文は
「下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇」
。書き下すと、
「下(しも)は則ち、皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養いたまえる心(みこころ)を弘(ひろ)めん。
然(しか)して後に、六合(くにのうち)を兼(か)ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)ん」
「六合」も「八紘」も「世界」という意味なので、【「皇孫養正の心」を広め、「世界を1つ」に】となります。これが神武天皇による世界統一です。
こうして、田中智学は、大正2年(1913年)、「世界を1つに」の原文を縮めて「八紘為宇」という言葉を考え出します。これが転じて「八紘一宇」(はっこういちう)となりました。
重要なのは、
日蓮宗の目標は「一天四海」を「皆帰妙法」に
日本国の目標は「八紘」を「一宇」に
と、対比されている点です。こうして、田中は「日本国体学」を創始しました。
神武天皇降誕の地(宮崎県の鵜戸)
なお、田中智学の目標は世界中に日蓮宗を広めることですが、八紘一宇を「日蓮を中心とした世界統一」と見るのは間違いです。どうしてかというと、後に田中自身がこう書いているからです。
《「人類一如」といえばとて、人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文(あや)、それは其儘(そのまま)で、国家も領土も民族も人種も、各々(おのおの)その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文(だいぶん)を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰(ここ)にいう統一である。
であるから、その意義を間違えざる為め、特に
「道義的世界統一」
の名で区別して、世にありふれた悪侵略的世界統一と一つに思われない様にしてある》(『日本国体の研究』)
つまり、【人種や風俗を尊重した上で、大いなる統一を目指す】ということです。決して文化の強制ではありませんでした。この考えが、大東亜共栄圏という発想につながるわけですね。
ちなみに、『最終戦争論』で「東亜連盟構想」を発表した石原莞爾も国柱会のメンバーでした。
さて、昭和15年(1940年)は、神武天皇が日本を建国してちょうど2600年目。このため、日本中で大イベントが繰り広げられました。そのなかで、気合いを入れたのが宮崎県です。
前述した神武天皇の「橿原奠都の詔」の冒頭は、「東に向かって出発して6年たった」と始まります。どこから出発したのかというと、宮崎県です。神武天皇は鵜戸で生まれ、国見ヶ丘で国を見回した後、東征に旅立ちます。
宮崎県高千穂町の国見ヶ丘
そこで、
紀元2600年奉祝
のため、高さ120尺(36.4m)の巨大な塔「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)の建設をするのです。場所は、神武天皇が東遷する前の皇居跡と伝わる「皇宮屋」(こぐや)近くの丘(八紘台)。
皇宮屋
基底部は、南米を含む世界中から集めた1800個の石材を玉垣にし、主柱部は鉄筋コンクリート造り。基部中央には神武天皇が日向を出発した美々津の立磐神社の奇岩が使われました。
デザインは、神道で依り代となる「神籬」(ひもろぎ)をイメージし、上部は日本書紀にある上代の天皇の盾で固め、四隅に民族の結束を表す「結った薪」を置き、その上にかがり火。
平和の塔
さらに四方には、信楽焼で作られた四神像(神代の職業を意味)が置かれました。これは、古神道の霊魂観として知られた「一霊四魂説」に基づいています。四神像の意味は以下の通り。
荒御魂(あらみたま)=武人
和御魂(にぎみたま)=工人
幸御魂(さちみたま)=農民
奇御魂(くしみたま)=漁民
正面には秩父宮雍仁親王が書いた「八紘一宇」の文字が刻まれています。
内部は空洞で、かがり火と、設置された照明により、空高く光を照射することができました。
なお、設計は、日本サッカー協会のシンボルマーク(遭難しかけた神武天皇を救った八咫烏)を作った日名子実三です。
日名子が作った八紘之基柱の模型
昭和14年(1939年)年初春、日名子は模型を完成させ、3月15日、鍬入れ式が行われました。のべ30万人が「祖国振興隊員」として働き、昭和15年11月25日に完成しました。
八紘台の整地作業(矢印の位置が塔の建設ポイント)
八紘之基柱の定礎式(昭和15年4月3日、アサヒグラフより)
「八紘一宇」という言葉は、昭和11年に起きた
二・二六事件
の「蹶起(決起)趣意書」にも書かれましたが、公式的に使われたのは、昭和15年8月、第2次近衛内閣が公表した基本国策要綱(大東亜新秩序の建設)が最初です。
「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく=建国)の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし」と書かれており、この段階では「世界平和」が謳われています。
近衛文麿が書いた「八紘一宇」
ところが、その翌月の9月21日、陸軍大臣だった東條英機は、日独伊三国軍事同盟の成立を受け、次のように訓示してます。
《皇国、今日の進止は、須(すべから)く「至仁の聖旨」を奉じ、八紘一宇の皇謨(こうぼ=天皇の統治計画)に則り、小敵を侮らず、大敵を恐れず、万年の史上、光彩陸離たる道義日本の興隆を期すべきなり》
当初、【人種や風俗を尊重した上で、大いなる統一を目指す】はずだった八紘一宇は、こうして徐々に戦争を肯定するスローガンとなっていったのです。
制作:2015年3月22日
<おまけ1>
昭和12年、内閣情報部(のちの情報局)が「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」を公募しました。愛唱歌という設定ですが、実際は「国民精神総動員」の方針に適合した日本賛歌の募集でした。
1位をとったのは『愛国行進曲』。その2番は次のような歌詞です。
起(た)て 一系(いっけい)の大君(おおきみ)を
光と永久(とわ)に頂きて
臣民(しんみん)我等 皆(みな)共(とも)に
御稜威(みいつ)に副(そ)はむ大使命
往(い)け 八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海(しかい)の人を導きて
正しき平和打ち立てむ
理想は花と咲き薫る
八紘も四海も入っているところがわかりやすいですね。
<おまけ2>
神武天皇の「橿原奠都の詔」を全文公開しておきます。
我(あれ)東(ひむがし)に征(ゆ)きしより、茲(ここ)に六年(むとせ)になりぬ。
皇天(あまつかみ)の威(みいきおい)を頼(かかぶ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。辺土(ほとりのくに)未(いま)だ清(しずま)らず。余(のこりの)妖(わざわい)尚(なお)梗(こわ)しと雖(いえど)も、中洲之地(なかつくに)復(また)風塵(さわぎ)なし。
誠に宜(よろ)しく皇都(みやこ)を恢廓(ひらきひろ)め、大壮(みあらか)を規(はかり)摹(つくる)べし。
而(しか)るを今、運(とき)、此(この)屯蒙(わかくくらき)に屬(あ)い、民(おおみたから)の心(こころ)朴素(すなお)なり。
巣に棲(す)み、穴に住む習俗(しわざ)、惟(これ)常となれり。夫(そ)れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必(かなら)ず時に随(したが)う。
苟(いやしく)も民に利(くぼさ)有らば、何(なん)ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)わむ。
且(また)、当(まさ)に山林(やまはやし)を披(ひら)き沸(はら)い、宮室(おおみや)を経営(おさめつくり)て、恭(つつし)みて宝位(たかみくらい)に臨み、以て元元(おおみたから)を鎮(しず)むべし。
上(かみ)は則(すなわ)ち、乾霊(あまつかみ)国を授けたもう徳(うつくしび)に答え、下(しも)は則ち、皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養いたまえる心(みこころ)を弘(ひろ)めん。
然(しか)して後に六合(くにのうち)を兼(か)ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)んこと、亦(また)可(よ)からずや。
夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原(かしはら)の地(ところ)を観(み)れば、蓋(けだ)し国の墺區(もなか)か。治(みやこつく)るべし。
八紘一宇の塔の完成シミュレーション