東京・橋の開通式
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「開橋式」の世界
日本橋ではパニックで「戦争のごとき大混乱」
永代橋の開通式(1897年11月10日、『風俗画報』154号)
日本の道路のスタート地点は、言わずとしれた「日本橋」です。
1603年(慶長8年)、徳川家康の江戸開府と同じ年に日本橋が作られました。木造の橋で、この翌年、5街道の起点とされました。いわゆる、「お江戸日本橋七つ立ち」の始まりです。
実は、この日本橋、トルコまで続く「アジアハイウェイ」(約2万km)の起点にもなっています。橋からは見えませんが、ちゃんと標識も設置されています。
アジアハイウェイの起点
木造だった日本橋は、何度となく架け替えがおこなわれ、20代目になって、ようやく石造になりました。これが現在も残る橋で、完成したのは1911年(明治44年)3月です。
長さ48.6メートル(27間)、幅27メートル(15間)で、ルネサンス様式をとりいれた二連アーチ構造。茨城、岡山、山口で切り出された9万個以上の御影石が使われています。
装飾の設計は、東京府庁などを設計した妻木頼黄(つまきよりなか)です。
南北に架かる橋の両端には、当初、西洋式のライオンを設置する予定でしたが、その後、純日本式に変更となり、東京市徽章を抱いた青銅製の神楽獅子2匹ずつとなりました。
中央には、翼の生えた牡牝の麒麟に大灯籠を背負わせ、南と北を守らせています。
牡牝の麒麟
日本橋の橋標は15代将軍・徳川慶喜の揮毫で、妻木が依頼するもいったんは断られますが、尾崎行雄東京市長の再依頼で快諾したと伝えられます(「大阪毎日新聞」による)。
日本橋の橋標
日本橋の開通式は、1911年4月3日に開催されました。このとき、帝都の一大イベントをひと目見ようと数多くの人が集まり、《幾万の群衆式場を押し破りて多くの重軽傷者を生ず》(読売新聞)という状況になりました。一体、どういうことか。
まず、式がおこなわれた4月3日は、当時の人なら誰もが知っていた神武天皇の崩御日(神武天皇祭)です。
日本橋の南北のたもとには、杉の青葉で包んだ大緑門(アーチ)が立てられ、その左右門柱の上部には巨大な国旗、さらにその下に30数本の小さな国旗が輪形に掛けられました。
杉の葉アーチ
北の門には「祝開橋」、祝典会場となる南の門には「式場」の巨大な文字が書かれています。門から左右の袖に引かれた紅白だんだらの幕は、その先にある破風形の建物とつながっています。
この建物の屋根は純白の布が張られ、屋根から床まですべて杉の葉で包まれています。柱は紅白の布で巻かれ、軒先には紫色の幕。橋には1200個の電球がつけられ、イルミネーションになっています。
祝典会場
会場近辺には、芸妓連の舞台、市川段四郎一座の演技場が用意され、金釜正宗(日本酒)、ビール、三ツ矢サイダー、天ぷら、おでん、寿司などの模擬店が並びました。
街の装飾
当日はあいにくの雨模様でしたが、花見がてら上京した人も多く、午前3時頃には人が集まり始め、橋の付近4kmほどが人で埋まりました。午前10時には、警官が数メートルおきに配置されました。
警官に制止されている見物人たち
開通式が始まったのは午後1時です。
東京市長、内務大臣、東京府知事、日本橋区長などの挨拶が続きます。尾崎行雄東京市長は「四通八達の要衝にあたり、交通はすこぶる頻繁、運輸はなはだ殷盛なり。堅固を図るとともに、美観を添えん」と述べました。
そして、メインイベントとして「渡り初め」がおこなわれました。渡り初めは、江戸時代から続く開橋式の行事で、同じ家のなかで3代続く3組の夫婦が担当する習わしです。どれくらい高齢で、どんな夫婦が選ばれるのか、当時の一大関心事でもありました。
栄誉の木村源次郎・ケイ夫妻
区内最高齢の小島フサ子(108)を先頭に、小筆英茂(89)、木村利兵衛(81)、妻・千代(65)、木村源兵衛(53)、妻・キン(46)、木村源次郎(27)、妻・ケイ(24)の8人が南から北へ渡りました。
ちなみに源次郎とケイは、本来渡るはずだった木村亀次郎の弟夫婦です。亀次郎の妻が産気づいたため、急遽、代理を務めたのです。
渡り初めの後、柳橋や葭町などの芸者たちが手古舞姿で木遣り音頭を歌いながら橋を渡ると、大きな歓声が沸き起こりました。
正午頃から日本橋界隈には、たくさんの人がいましたが、デパートの白木屋近辺で「わーっ」という声が響いたかと思うと、何万人もの群衆がパニックになり、大混乱となりました。
白木屋の前
《押しに押し揉みに揉みつつ、中には泣く叫ぶ、その混乱の状、凄じとも凄じく、あるいは帽を落とし、あるいは衣服を裂き、または地上へ躓(つまず)き倒れて頭から踏みにじられ、辛くも巡査に救い上げられるものもあり、また年若き女の髪を振り乱し、恐ろしき形相となり、素裸足(すはだし)にて救護所へ連れ引かるるもありたり》
《婦人、小児等は早くも悲鳴をあぐるに至り、叫喚、悲鳴、怒号こもごもに起り、ほとんど戦争のごとき大混乱を呈し、見る間にバタバタと将棋倒しに倒さるる者数を知らず、今までの歓楽境はたちまち一大修羅場と変じ、ついに数十名の負傷者を出だし日本橋上に血を染むるに至りしは、遺憾至極の事と云うべし》(いずれも時事新報)
実は、渡り初めや踊りの後の大混乱というのは、多くの橋の開通時に “定番” となっています。
たとえば、1903年(明治36年)3月8日に開通式がおこなわれた万世橋では、歌舞伎俳優・阪東又三郎の父らが渡り初めした後、《群衆は縄張りを破り、たちまち雲霞のごとく押し寄せ来たり》(『風俗画報』267号)とあります。
万世橋の開通式
1904年(明治37年)11月12日に開通式があった両国橋では、再び阪東又三郎の父らが渡り初めした後、《待ち構えたる東西の群衆は、一度に大浪の寄せくるごとく雑踏を極め、付近は非常の賑わいなりし》(『風俗画報』307号)と記録されています。
両国橋の開通式
周囲の混乱をよそに、日本橋の開通式は、16時30分に鳴り響いた鐘の音を合図に、来賓たちが立食場に集まり、君が代演奏、シャンパンの乾杯、万歳三唱で幕を閉じました。
なお、日本橋改築に関わった労働者は石工のべ3万8000人、人夫3万1000人、大工・鍛冶工200人と記録されています。総工費は52万2890円。
日本銀行が出している貨幣価値の基準値「戦前基準指数」によると、1911年の「0.610」が2020年は「675.7」となっており、単純計算で物価は1100倍になっています。とすると、この金額は5億8000万円ほど。壮麗な日本橋の建築費が6億円とは、意外に安い気もしますね。
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外国人が見た日本橋
制作:2021年4月28日
<おまけ1>
日本橋は関東大震災でも東京大空襲でも崩落しませんでしたが、現在もそのときの被害跡が残されています。具体的には、橋脚部分にある石の崩れや黒い焦げが関東大震災の被害跡、橋の上に残った黒いシミが焼夷弾の跡です。
日本橋に残された関東大震災の跡
戦後の1946年8月20日、日本橋で復興祭が開かれました。並木路子や高峰秀子などのスターが歌い、やはり芸妓連の手古舞や木遣りが橋を渡って、それを群衆が眺めました。日本橋は復興の象徴になったのです。
しかし、1964年、東京オリンピックを前に高速道路が建造された際、日本橋の真上を通ってしまいました。高速までは地面からわずか6メートル。いまでは空もほとんど見ることができません。
<おまけ2>
下は関東大震災で大きな被害を受けた新橋の開通式。大正時代のものです。
新橋の開通式(1925年7月20日、『国際写真タイムス』1925年9月号)
こちらは金杉橋の開通式(1919年12月20日、『写真通信』1920年2月号)