日本初の国策「特撮映画」
『ハワイ・マレー沖海戦』ができるまで

ハワイ・マレー沖海戦
真珠湾攻撃の瞬間(映画『ハワイ・マレー沖海戦』)


 昭和16年(1941年)冬、映画会社の東宝は、大本営海軍報道部の映画担当・濱田昇一海軍少佐を撮影所に招きました。すでに映画の検閲は進んでおり、各地を放浪する博徒を主人公にした股旅物などは許可されなくなっていました。情報局はこの年から「国民映画」構想を打ち出し、国策映画の制作を始めています。そのため、映画会社は情報局と企画の相談をするのが当たり前になっていました。

 時あたかも日米の開戦直前で、濱田は来たるべき海戦をどう記録するか頭を悩ませていました。すでに超望遠の1000mmレンズも登場していましたが、海戦は夜中に行われることも多く、またきわめて短時間で終了してしまうため、撮影は困難を極めることが予想されていたのです。

 濱田が撮影所に行くと、特殊撮影部の技師が「特殊写真」について説明してくれました。この技師こそ、戦後、ウルトラマンを作り、「特撮の神様」と呼ばれた円谷英二です。

 昭和16年12月8日、真珠湾攻撃と同時に、濱田は円谷英二を報道部に呼びよせ、海戦の特殊撮影の研究を命令します。
 12月10日、マレー沖海戦で、日本海軍はイギリスの「プリンス・オブ・ウェールズ」撃沈に成功。ここで、海軍報道部は、この2大海戦を映画化することを決めます。予算を大規模に投入したものとして、事実上、日本初の国策「特撮映画」の始まりです。

ハワイ・マレー沖海戦
これが驚異のミニチュア撮影!


 翌年の2月はじめ、エノケン(榎本健一)の映画で有名だった山本嘉次郎監督と脚本家の山崎謙太が東宝に呼ばれ、映画制作の発注を受けます。そして、ハワイの攻撃に参加した海鷲(兵士)を今すぐに取材してこいと命じられます。2〜3日で次の作戦に出るため、これからすぐに出発するようにとのお達しでした。

 そのときの様子を、山本はこう書いています(『映画之友』昭和17年11月特別号)。

《実際にハワイに行かれた飛行長はじめ、20歳位の若々しい少年航空兵の方々にお目にかかったときに、まづその室(へや)の空気の、惻々(そくそく)と漲(みなぎ)る気魄に、グッと圧倒された態(かたち)でした》
 
 しかし、実際に話してみると、相手は照れくさがって、どうにも取材がうまくいきません。そこで、山本と山崎が出した結論は、今から見ると理解不能なものでした。

《実に良い人たちだなァと、帰りがけに山崎君とつくづく語ったものでした。
「だから強いのだよ」
「嬉しい期待外れだなァ」
 その時から、我々の胸中は“強い人”を描きたい欲望で満たされました》


 いくら海軍に気を遣ったとはいえ、微妙なコメントです。

 24日、映画全般の許可が下り、軍令部・軍務局・航空本部各方面の制作委員も決定し、映画制作が始まります。
 脚本は山本嘉次郎と山崎謙太の共同執筆となり、第1稿は4月にできあがりますが、検閲で「精神的な部分が欠如している」とされ、書き直した結果、5月中旬に第2稿が完成します。
 しかし、第2稿は長尺で、結局、第1稿で仮撮影を始めることになります。

ハワイ・マレー沖海戦
甲板の撮影シーン


 この時点で、海戦を舞台にしたまともな日本映画はありませんでした。日露戦争の日本海海戦は、まだきちんと映画化されていません。撮影陣には海軍の知識がまったくなく、被服から階級までわからないことだらけです。
 たとえば、土浦航空隊の「時鐘番兵(じしょうばんぺい)」が「三点鐘」を打つと脚本に書いてあっても、鐘がどこにあるのか、どんな服装でどんな階級の兵士なのか、どんな打ち方をするのか、音色はどうなのか、誰も知らないのです。

 こうした苦労だらけの準備を重ね、7月4日、シーン21(兵舎より練兵場に向かう練習生)から撮影が始まります。

 この映画でもっとも困難を極めたのが、航空母艦の撮影でした。機密の塊だけに海軍も一切の資料を提供せず、まともな写真資料さえ手に入れられませんでした。そこで、アメリカの空母の写真を参考にします。後日談ですが、公開直前になって空母が日本式でないことがわかり、一時は公開中止も噂されました。
 
 空母から飛び立つ飛行機のシーンは、海に伸ばした滑走路から実際に零戦を飛ばしています。飛行機が飛び立つとき、空母は必ず向かい風のため、旗は後方に翻ります。ですが、撮影はセットなので、風向きが変わると、すぐに撮影中止となりました。
 また、艦の「がぶり」(揺れ)は、カメラ自体を揺らすのと同時に、海上に作った別の滑走路を揺らすことで表現しています。

 ある日、有名な漫画家や画家が撮影所に招待されました。『フクちゃん』で有名な横山隆一の見学記を引用しておきます。

《本物と違って此の軍艦は金具が一(いっ)さいありません。資材の節約で木と石膏とゴム管で出来た軍艦です。例えばリベットは石膏で、パイプは木です。曲がったパイプはゴムで、色を塗ると全然わかりません。食器は軍からの借り物で、これだけは本物です》

ハワイ・マレー沖海戦
撮影に使われた本物の零戦
 

 映画の核心部である真珠湾攻撃の特撮シーンは、円谷英二が担当しました。
 まず最初に行ったのは、攻撃部隊が撮影してきた写真から、真珠湾の詳細な地図を作ることでした。地形や飛行場の形はもちろん、兵舎やタンクの大きさ、敵軍艦の位置まで詳細にマッピングされました。

 この地図を基に真珠湾の模型を作るのですが、縮尺の基準は「水柱」でした。撮影でもっとも効果的な水柱の高さが最初に決められ、そこから逆算して軍艦の大きさを割り出し、さらに港湾の大きさを算出しました。

 こうして、実物の400分の1の真珠湾セットの建造が始まります。およそ1800坪の敷地に、広さ500坪、水深1尺5寸〜3寸(45〜91cm)の池が作られました。もちろん、当日の太陽の位置や天候も考慮してあります。敵戦艦アリゾナの大きさは9尺5寸8分(約3m)と巨大です。

ハワイ・マレー沖海戦
戦艦の模型制作


 以下、円谷英二本人が残した制作記を引用しておきます(『週刊少国民』昭和17年11月8日号)。

《まず撮影所の広場1800坪に300メートルの上空から見た真珠湾の模型をつくりました。これは山の木はもとより家、埠頭、街など写真そのままにつくったものです。次に1000メートルの上空から見たものとして300坪の模型、5000メートルから見たものとして4坪の模型をそれぞれつくりました。
 これに浮かべる軍艦には実物の15分の1の模型、3メートル余の模型、50センチの模型などをつくったのです》

ハワイ・マレー沖海戦
制作された米国主力艦隊は100数十隻


《戦艦の轟沈ですが、これは水面に細い線をはって魚雷を白波たてて走らせ、戦艦の艦腹へ命中させます。そこには電気装置があって火薬が爆発し水柱がたち模型軍艦が沈むのですが、軍艦はあらかじめこわれやすいように弱いところがつくってあります。そして鉛、鉄、木などでいかにも本当の軍艦らしくこわれるわけです》

《高空から見た軍艦の進んで行く有様ですが、これは鼠色の板の上を小型の模型軍艦が布でつくった白波を後にひいて細い線で引張られるのです。それを黄色に染めた綿が雲のようにちらばっている大きな硝子板を通して撮影します。すると雲の下を勇ましく進む軍艦の姿が本当のように写されるわけです》


ハワイ・マレー沖海戦
扇風機で波を起こす


 軍艦の白波は、艦首と艦尾に細いホースで水を吹き付けて表現しました。波の効果を出すのに、寒天が効果的に使われました。
 空を飛ぶ飛行機は、学校の講堂ほどの大きさいっぱいに雲の絵を描き、それを背景に、つり下げた編隊飛行機を左右に動かして撮影しています。

 爆撃シーンに使われた雷管の数は5000発、スモークは2000本。
 通常は1秒24コマの撮影ですが、その10倍の速さ(1秒240コマ)でフィルムを回しました。これにより、実物そっくりの速度感や立体感を出すことに成功しています。


 
 撮影現場を見学に訪れた洋画家の猪熊源一郎は、円谷英二らしき技術者と話し、撮影で一番困るのは「真珠湾のセットの水に寄ってくるトンボやツバメ」という話を聞いています。
「いや、あいつが撮影の敵ですよ。撮影最中にあの襲撃を喰えば、まったくおじゃんですからね」とその技術者が語っています。

ハワイ・マレー沖海戦
広大なセット


 こうした苦労の末、真珠湾攻撃から1年たった1942年12月3日、『ハワイ・マレー沖海戦』(117分モノクロ)が公開されました。一人の少年航空兵が帝国海軍の訓練で成長し、真珠湾へ向かうまでを描いた名作中の名作です。「国民映画」として鑑賞が推奨され、当時、日本人すべてが見たとも言われました。

ハワイ・マレー沖海戦
迫力の爆撃シーン


 主人公の少年は、東宝専属の映画俳優・伊東薫が演じています。
 伊藤薫は、徴兵検査で甲種合格となっており、撮影終了後の入隊が決まっています。その上で、こんなコメントを残しています。
「この映画に出演する心構えは今までにない緊張したものだ、と自分でも思っている。僕たちもこの仕事にかかった以上、今後とも今の精神を失わない で頑張ってゆかねばならない」
 
 伊東薫は映画の公開とほぼ同時に兵役招集され、1カ月後、中国で戦死しました。まだ20歳でした。

ハワイ・マレー沖海戦
『ハワイ・マレー沖海戦』より、左から中村彰、原節子、伊東薫
(中村彰は日本初の東大出身俳優)


制作:2014年4月7日

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