「光線電話」の世界
井深大がソニーを創業するまで

光線電話(受信機)
光線電話(受信機)


 早稲田大学・理工学部と、出版社の新潮社は、ともに新宿区にあり、距離は2.8kmほど離れています。
 1930年代の初頭、この2カ所を結んで「光線電話(光電話)」の実験がおこなわれました。光線電話は、文字どおり、光を使った電話で、当時、画期的な技術として、多くのマスコミが取り上げました。

 実験をしたのは早大生の井深大で、後に東京通信工業(ソニーの前身)を創業することになります。
 今回は、光線電話の実験で「学生発明家」として名をはせた井深が、ソニー創業に至る道を、技術史の観点からまとめます。

光線電話(発信機)
光線電話(発信機)



 1908年(明治41年)、井深は栃木県の古河鉱業の社宅で生まれました。父は新渡戸稲造の門下生で、学生時代、静岡県に日本最古級の水力発電所を作るような人物でした。しかし、井深が3歳のときに亡くなり、以後、祖父のもとで育てられます。

 井深は小さい頃から機械いじりが好きで、中学では、小遣いで高価だった真空管を買い、無線に夢中になりました。当時、ラジオ放送は存在していません。そんななか、井深は、ラジオの試験放送を聞くことに成功します。

《そのころちょうど試験放送をやっていた新聞社が大阪にあった。私がこの放送を聞いていると近所の人が集まって来て大騒ぎをしたものだ。そのとき総選挙があって、新聞社ではどんどん新しいニュースを放送した。近くの新聞販売店の軒先の速報はあちこちの中継を経てくるためおそいので、私が放送で聞いたのを知らせてやると、ニュースの早いのに目を丸くして驚いた近所の人々の顔がいまでも思い出されてくる。
  
 試験放送は1ヵ月で終了したが、その最後の日にアナウンサーが「放送はきょうで終わります。皆さんさようなら」と言ったときにはなんともいえぬ惜別の情にひたったのを覚えている》(『私の履歴書』)

 早稲田大学に入った井深は、堤秀夫教授の下で「ケルセル」の研究をしました。ケルセルは、光を外部から与えた電圧どおりに変調する技術です。変調とは最適な電気信号に変換することですが、これが井深の技術史のキーワードとなります。

 井深は、大学時代、斬新なネオンサインによるイルミネーションを発明しています。

 夜の街をカラフルに彩るネオンは当時すでに普及していましたが、せいぜいつけたり消したりする程度。しかし、井深は、ネオン管に高周波の電流を流すと、光が自由に伸び縮みすることを発見したのです。この技術を使うと、ペンで書くように光の文字を書いていけるのです。井深は「走るネオン」をパリ万博に送り、優秀発明賞を獲得しています。

「走るネオン」は、電気で “光の長さ” をコントロールするものです。これが進むと、光を電気に「変調」したり、電気を光に戻すことができます。ここで光線電話が登場するのです。

戦前に流行したネオンサイン
戦前に流行したネオンサイン



 光線電話を説明する前に、通常の電話の仕組みを簡単に書いておきます。
 まず、声は「空気の振動」です。口から出た声(空気の振動)が、相手の耳に伝わり、その振動を再び音に変えるのです。

●声の仕組み
【口→空気の振動→耳】

 この「振動」を電流や電波の力で遠くまで運ぶものが電話です。図解すると、こうなります。

●有線電話の仕組み
【口→空気の振動→(送話機)→電流の強弱→(受話器)→空気の振動→耳】

 これが無線電話になると、電流の強弱を直接送るのではなく、間にもう一段階必要になります。

●無線電話の仕組み
【口→空気の振動→(送話機)→電流の強弱→(真空管など)→電波の強弱→(真空管など)→電流の強弱→(受話器)→空気の振動→耳】

 光線電話は、この電波の代わりに、光を使うものです。

●光線電話の仕組み
【電流の強弱→(特殊な装置)→光の強弱→(特殊な装置)→電流の強弱】


光線電話の仕組み
光線電話の仕組み



 この特殊な装置は、光を電流に変え、電流を光に変えるものです。光が電気に変わることを「光電効果」と言いますが、その最たるものが「太陽電池」ですね。しかし、光線電話に必要な装置はもっと小さなもので、「光電管」や「光電池」と呼ばれます。もちろんケルセルも含まれます。

 井深の大学の卒業論文のタイトルは「変調器としてのケルセル 附光線電話」ですが、まさにこのケルセルで光を変調させることで、音声のやり取りに成功したのです。

 実は、この「変調」こそ、あらゆる技術の基本とも言えるものでした。
 以下、井深の仕事と直接の関係はないですが、ケルセル技術の応用について触れておきます。

■テレビの開発
 
 光で音声をやり取りできるなら、もしかしたら映像もやり取りできるかもしれない。これがテレビの発明につながります。

 日本のテレビ研究は、浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)の高柳健次郎と、早稲田大学の山本忠興、川原田政太郎の2派に分かれます。高柳はブラウン管を、山本・川原田はケルセルを使用しました。

 早稲田式テレビは、たくさんの穴が空いたニポー円板で撮影対象を光の点滅に変え、その光を光電管で電気信号に変換します。受像側では、光をプリズムとケルセルを通し、回転鏡で投影します。送信側のニポー円板と受信側の回転鏡が同期すると、映像を再現できる仕組みでした。

科博に展示された早稲田式テレビ
科博に展示された早稲田式テレビ(手前がニポー円板)


■距離の測定も可能

 距離を測る場合、もともと三角法で求めましたが、時代が下ると、対象物まで電波または光を送り、反射して戻ってくる時間を測定して求めるようになりました。
 電波を使うもの(電波測距儀)は、長距離の測定ができるので、軍事用のレーダーとして開発されていきます。
 一方、光を使うもの(光波測距儀)は、ケルセルで変調した光を飛ばします。測定距離はやや短いですが、電波のような拡散がないので、市街地などでも測定が可能となります。

■暗視ゴーグル

 光には可視光線と、赤外線や紫外線などの不可視光線があります。
 赤外線は霧や雲を通過しやすく、目に見えないうえ、分光も簡単なので、戦場で光線電話に赤外線を使えば、きわめて好都合だと考えられました。

 そして、光電管を利用した望遠鏡を使えば、驚くことも可能でした。暗視望遠鏡です。テレビは可視光線を使いますが、赤外線を使えば、夜間でも遠くの景色を見ることができるのです。この暗視装置は、第2次世界大戦中、ドイツ軍が戦車用として世界で初めて実用化しました。これが一気に小型化していくのでした。

 このように、変調技術は、さまざまな製品に使われるのです。

暗視望遠鏡の映像
暗視望遠鏡の映像(1943年の『写真週報』294号)



 さて、大学を出た井深は、東芝の入社試験に落ち、写真化学研究所(PCL)で録音技術の研究をします。『私の履歴書』では、《PCLの仕事は私 には確かにうってつけであった。光を音に変え、あるいは音を光に変え、それをまた音に変えるという録音技術に興味を持っていたからである》と語っていますが、この「変調」は後のCD技術に通底します。

 その後、トーキー映画や真空管、ブラウン管を作る日本光音の無線部で活躍し、さらに日本光音の出資を受けて、日本測定器を立ち上げました。この会社では、戦争が激化するとともに、軍の仕事がどんどん増えていきます。
 
 潜水艦発見装置の開発などもありましたが、特に有名な仕事が、音叉による無線操縦と、「マルケ」という熱線誘導兵器です。
 
 無線操縦は、コヒーラーと呼ばれる検波器の誕生とともに始まりました。真空管の発展とあわせ、第一次世界大戦の頃にドイツなど欧州各国で開発がスタートし、1919年頃には実用に堪えるものができたとされます。日本では、1929年に駆逐艦「灘風」から「卯月」の無線操縦実験がおこなわれ、1930年に開かれた「無線ラジオ展覧会」では、戦車の無線操縦が実演されました。

戦車の無線操縦
戦車の無線操縦



 こうした過去の実験をどこまで把握していたかはわかりませんが、井深は音叉を利用して無線操縦する技術の開発を目指します。音叉の機械的な振動を電気に変え、ある音に特定の動作を紐つけることで、無線操縦が可能になるわけです。開発には、正確な周波数の測定と調整が必要ですが、普通の人間にはなかなか難しい仕事です。そこで、上野音楽学校の生徒を動員してもらいました。はち巻き姿の女子挺身隊がドミソ、ドミソを組み合わせ、最適な音が出るように金属板を削っていきました。この技術は、レーダーの周波数標準にも役立っています。


音叉による自動操縦イメージ
音叉による自動操縦イメージ

 
「マルケ」は敵艦の熱を探知して、そこに爆弾を打ち込む技術です。井深は、熱源を探知して増幅する技術、無線技術で貢献しました。

 当時、敵に打ち込むミサイルの研究は、後に「日本の宇宙開発の父」と呼ばれる糸川英夫が担当していました。そして、熱源を探知する研究を一緒に取り組んだのが、後にソニーを共同創業することになる盛田昭夫です。
「マルケ」は開発に成功すれば、戦局を一気に変える可能性がありましたが、残念ながらうまくいかず、日本は敗戦を迎えます。

日本橋の白木屋
日本橋の白木屋



 戦後、井深は、東京・日本橋の白木屋3階に東京通信工業を設立します。
 第1号製品は、電波の周波数を変換するコンバーターで、家庭にあるラジオに取り付けるだけで短波放送が聞けるものでした。その後、真空管電圧計で大量の注文を取ることに成功します。

 新しい独自製品のタネを探していた井深は、創業から4年後、アメリカ製の磁気録音機に出合います。いわゆるカセットテープです。これこそが飛躍のカギになると踏み、開発に乗り出しました。しかし、原理はわかったものの、テープの製造方法がどうしてもわかりません。

 ようやく、スプレーで粉末磁石を塗布する方法を編み出します。実験で使われた言葉は「本日は晴天なり」。
テープを再生するとはっきりと聞くことができました。こうして、1950年、東京通信工業は国産初のテープレコーダーを発売するのです。

 1955年には日本初のトランジスタラジオを発売し、1958年、東京通信工業は「ソニー」に改名するのでした。

日本初のテープレコーダー「G型」
日本初のテープレコーダー「G型」(日本を変えた千の技術博)



SONY誕生(2)テープレコーダーの誕生

制作:2022年2月7日

<おまけ>

 光電話は、途中に障害物があれば使えず、長距離の伝送も不可能です。そこで、光をガラス繊維(グラス・ファイバー)のなかを通そうというアイデアが日本で生まれました。1936年、逓信省研究所の関壮夫と清宮博(当時は旧姓の根岸博)が発明した「光線通信方式の改良」という特許です。これが現在の光ファイバーにつながる基本の考えです。

 終戦後の1947年、アメリカのベル研究所でトランジスタが発明され、真空管の時代が終わります。このニュースを聞き、井深はラジオの開発に乗り出し、苦心惨憺の末、トランジスタラジオを発売しました。一方、清宮博は、光ファイバーを使った光通信の開発に乗り出し、後に富士通の社長にまで上り詰めるのでした。

テレビ撮影用の光電管(科博)
テレビ撮影用の光電管(科博)
 
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