SONY誕生(2)
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テープレコーダーの誕生
生演奏を立体録音(1952年)
昭和27年(1952年)12月、東京・有楽町で「第1回全日本オーディオ・フェア」が開催されました。出展は30数社に上りましたが、なかでも人気を集めたのが、東京通信工業が朝日新聞の講堂で行った立体録音再生でした。道路を走る自動車の音や楽団の演奏をその場で録音再生するのです。もう1つ、バイノーラル録音というのもありました。これは人間の耳の位置に置いた2つのマイクで録音するため、音がとても立体的に聞こえるものです。
2つとも今では当たり前の技術ですが、当時はかなり斬新でした。
このフェアのパンフには、
《わが国のオーディオ界も戦後著しく進展し世界の水準に伍してゆく準備がととのいつつある。しかし音に対する一般の関心はまだ薄く、ラジオ音、電蓄音は生の音と全く違ったものと思われている現状である。又国産品の性能を素直に認めず、わざわざ海外製品を購入することが多い。このフェアでは以上の啓蒙と、国産製品の展示とデモンストレーションをいたしたい》
とありました。敗戦後、ようやく独立を果たした日本には、まだ「いい音を楽しむ」という文化は根付いていませんでした。
バイノーラル録音を楽しむ来場者(1952)
それから2年後の昭和29年(1954)11月、今度は銀座松屋で「第3回全日本オーディオフェア」が開催されました。
このとき初参加だったのは音響材料メーカーで、戦後10年ほどたって、ようやく音響マニアが素材まで関心を向けはじめたことがわかります。ちなみに会場の入口には食品メーカーの味の素のブースがありました。実は味の素は、終戦後に稲ワラや麦ワラを材料に、テックスという音響板を作っていたんですね。吸音板は日本で初めて味の素が製造したのです。
バンドの生演奏をその場で録音する東通工のブース(1954)
で、会場の奥に入ると、ひときわ目立つのがやはり東京通信工業のブースでした。ここには最新式のテープ・レコーダーがずらりと並んでいたからです。高級品の代名詞だったアメリカ・アンペックス型から携帯テレコまで。制服姿の女性がパンフレットを配る横で、R-1型のテレコがエンドレスで説明を繰り返しています。
そして、注目すべきは、この年から、フェアで技術的な説明が一切消えたことです。つまり、この頃から、日本でもテレコがようやく商品として市民権を得たということがわかります。
日本で初めてテレコが発売されたのは1950年のことで、まだ磁性材料を塗った紙テープ式でした。この日本初のテレコ「G型」は45kgもあり、値段は16万8000円もしました。製造したのは資本金19万円で創業した東京通信工業(東通工)、つまりいまのソニーです。
東通工がテープレコーダーの第1号試作機を作ったのは1949年のことでした。創業者の井深大が、進駐軍からテープ録音のことを知って開発に乗り出したのです。
同じく創業者の盛田昭夫が戦災で焼け残った神田の薬品問屋からたまたま磁性材料を手に入れたことで、開発成功の可能性が出てきました。
G型テレコ(右上)とM-1型録音機(日本を変えた千の技術博)
以下、当時の様子を取材した読売新聞の記事によれば、
《手探りの“開発”だった。蓚酸第二鉄の粉を、フライパンに入れてしゃもじでいる。茶色になったところで(酸化第二鉄=マグネになる)水に入れて急冷するタイミングがコツだった。焼き過ぎると酸化が進んで黒くなり、使い物にならなくなる。
粉を紙テープに塗るのに、はじめご飯粒を練ったのを使ったがうまくいかず、ラッカーに溶かしてタヌキの胸毛のはけを手に走りながら塗った。テープを正確に6ミリ幅に切るのに、安全かみそりの刃を2枚立てて、その間に通して引っ張った。
78回転レコードのターンテーブルを2つ並べ、間にヘッドを置き、側にマイクとアンプを置いてテープを回した。「本日は晴天なり」と言うと、一回りしたテープから、本日は晴天なり、とちゃんと聞こえた。テープレコーダー事始めだった》(1995年4月5日)
テープレコーダーというのは、テープの上に磁気を与えて録音します。与える磁気の強弱によってさまざなラインを描く残留磁気(これをヒステリシス・ループといいます)を利用するのです。
録音方法は、当初は直流バイアス方式が使われましたが、その後、日本人が発明した交流バイアス方式が使われました。
盛田昭夫がテープレコーダーの仕組みについて『電波科学』(日本放送出版協会)に寄稿しているので、そこから交流バイアス方式について引用しておきます。
《交流バイパス法は東北大学永井健三博士がアメリカに1年半先んじて1940年に発明され特許第136997号として登録されたもので、現在欧米磁気録音機もすべてこの方式を採用していることからしても、わが国が世界に誇るものの1つであるといっても過言ではない》(1951年7月号)
この特許は東京通信工業と日本電気が所有していたため、テレコは両社の独壇場でした。
1951年に出た普及版H型。トランクに入っていて、重さ13kg、8万4000円
こちらは1953年に製造されたNECのトランク型テレコ
ソニーH型の配線図があるので、公開しておきましょう。図の丸印はすべて真空管です。たとえば6SJ7は「電圧増幅用五極管」、6F6は「電力増幅用五極管」、5Y3は「整流用双二極管」と呼ばれるものです。
時代を感じる「真空管テレコ」
さて、ソニーといえば小型化がお手の物ですが、巨大テレコも年を追うごとに小さくなっていきました。
そしてついに1953年には電池式の携帯テレコが完成します。重さ5キロまで軽くなったこの携帯テレコは、当時の皇太子(現在の上皇陛下)に献上されました。
実は皇太子は、この年の3月から半年にわたる初の外遊が予定されていました。ヨーロッパ12カ国とアメリカ・カナダを歴訪したんですが、この旅に持って行くため、開発が急がれたのでした。訪問先で録音されたテープは日本に郵送され、昭和天皇が皇居で聞いたとも言われています。
皇太子に献上された携帯テレコ
1952年、渡米した井深大は、アメリカのウエスタン・エレクトリック社からトランジスターの特許を購入し、1955年、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」の販売を開始します。
このとき、商標に使われたのがSONYでした。「音」の語源となったラテン語の『SONUS』と、「小さい」「坊や」という意味の『SONNY』の合成語です。
『電波科学』1956年6月号より
ちなみに当時のソニーの広告がこちら。ソニーじゃなくて「ソニ」だったことがわかります。ロゴもいまいち?
なお、上の広告に「ダイオード」とありますが、これを開発したのが、当時、東通工の研究員だった江崎玲於奈です。この技術的発見により、1973年にノーベル物理学賞を受賞しています。
トランジスタはその後、集積度を高めてICやLSIへと進化します。ソニーは1960年に世界最初のトランジスタテレビを発売し、そして1979年、ウォークマン発売へと至るのでした。
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SONY誕生(1)井深大がソニーを創業するまで
更新:2022年1月29日
<おまけ>
携帯テレコを外遊に持参した上皇陛下は、相当な音楽マニアのようです。東宮仮御所には大量のクラシックレコードが並んでいたそう。外遊直前に撮影された写真には、愛用のフォノラジオ(ラジオもレコードも聞ける)が写っています。これはビクター製。この時点ではテレビは持っていませんでした(『無線と実験』1953年4月号)。
外遊直前の皇太子