「日の丸」誕生

咸臨丸
日の丸を付けた咸臨丸


 日の丸は、もともと軍扇や船印などに使われていたもので、薩摩藩が幕末に「日本船印は白地日の丸幟」と決めたことを明治政府が踏襲しました。
 明治3年(1870)の太政官布告第57号(商船の規則)によると、旗の寸法は縦横比7対10、日章の直径は縦の5分の3、日章の中心は旗の中心から100分の1だけ旗竿側に寄せるものと決められています。商船用の規則が現在でも通用してるわけですね。

 なお、1999年に成立した「国旗及び国歌に関する法案」では、
 第1条 国旗は、日章旗とする。
 とあり、日章旗の制式は、

1 寸法の割合および日章の位置
  縦 横の3分の1
  日章 直径 縦の5分の3
  中心 旗の中心
2 彩色
  地   白色
  日章 紅色

 
 と決まりました。商船規則は廃止されましたが、当分の間、「寸法の割合については縦を横の10分の7とし、かつ、
日章の中心の位置について旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1偏した位置とする」ことは認められています。
 
 そんなわけで、以下、『明治事物起原』より、「日の丸国旗の始め」を引用しておきます。

《日の丸を、はじめて国旗として用ひしは、薩摩藩より昌平丸といふ長24間の大船を幕府に献上するとき、この旗印を立てて品川沖まで乗り参りしときにて、安政2年2月25日なり。

 そのよりて来るところを聞くに、これより先、嘉永7年7月朔日、島津斉彬公、右の昌平丸献上のことにつき、閣老阿部伊勢守と、宮中において面談し、かの献上船回航のことも近づきけるが、風波の都合にて何国に漂はんも知りがたし、御国船総印ありてしかるべしといひけるに、閣老は、ただいま国事多端にて、国旗の調べどころにあらず、貴辺御見込みあらば承らんといひしに、斉彬公、恐れ多きことながら、大体の見込みはつきて、すでに水戸、尾張、宇和島公、その他の外様にも御内談して同意を得しが、日本をば、異国にては、日の本の国とも、日の出づる国とも唱ふれば、国名にも相当し、また天照大神の天の磐戸を御出になりてより、この日本開け、今日に至れるありがたき国なれば、日の丸こそふさはしけれと、かねて見込みをつけをりしと答へしに、閤老も至極賛成し、斉彬公は、帰館後、日の丸旗の雛形2種に手紙を添へ、御小姓井上庄太郎を内使と して、辰の口の阿部閣老に送りたるに、その後各国の旗章に類似のものもなく、弁識もよかるべしと、その筋の評議にて、7月の11に至り、閣老より、「大船製造に付ては、異国船に不紛様、日本船印は、白地日の丸幟相用候様被仰出候」と一般に達せられたり。

 これより日本の総船印は、一般に日の丸を使用することとなり、翌年の2月鹿児島より廻航し来れる昌平丸にも、やはり日の丸の旗を掲げられたり。斉彬公のこの事蹟は、史談会にて薩摩の市来四郎といふ人が巨細に取り調べおかれしよし。

 安政2年、和蘭国より幕府に軍艦スームビング号を献ず。同船の副長グハビユス氏、「日本国にても、最初海軍御取立に相成る上は、国旗を授候事、至極肝要に存候」とて、国旗制定の急なるを献言せり。幕府も喜びてその忠言に従ひ、国旗を定め、5年7月には条約各国へこれを通報せるよし。

 安政7年、幕使新見正興一行に従ひ軍艦咸臨丸が、日章旗を掲げて北米サンフランシスコ港に入りしは、日章旗を翻して外国を訪ふの始めなり。
 
 佐藤秀長の『米行日記』、万延元年3月9日、桑港(サンフランシスコ)に入るの条に、「この時、米国の軍艦より我日の丸の旗を掲けて、歓迎の意を表され候」、同上新約(ニューヨーク)メトルポリタンホテルの記に、「美なる数百の窓毎に、我国の旗と、米国の旗とを2本つゝ建てし」ことを記せり。

 市川(清流)氏の『尾蝿』文久2年3月2日、マルタにての条に、

「英国の軍艦マルブラ号入津し来る、即檣(マスト)上に旭日旗を翻して、祝砲15発を為せり、正使彼の船中に行き答礼し、帰る時又更に旭旗を揚、祝砲15発し、水夫は帆架上に排列して、尊客を送る祝式を尽す。因て私に憶ふ、今日満港の碇泊船中、尽く注意嘱目す。此旭旗をして5大洲至る所、豈此の如くならしめは、豈愉快ならずや」

 一行誰しもわが国旗のありがたさに感泣せざるものなかりしなるべし》



 明治5年、太政官から長崎、横浜など開港場の裁判所(当時は県庁)に対し、国旗を掲揚するよう、翌6年には司法省から同様のお達しがあり、国旗掲揚は普及していきます。ちなみに、明治5年、明治天皇が長崎・鹿児島を巡幸した際は、日の丸を掲げない家も多かったのですが、明治9年に奥羽を巡幸したときは、都会はもちろん、田舎の一軒家までことごとく日の丸を掲げていました。この時点で、国旗掲揚の習慣が完成したわけです。

旭日旗
陸軍の旭日旗


 なお、「旭日旗」はもともと陸軍の旗で、日章旗に16条の光線(十六条旭日旗)を放つ図案を兵部省が考案し、1870年(明治3年)5月15日の太政官布告第355号で「陸軍御国旗」として制定されたものです。

君が代の成立

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