3つの「君が代」

君が代原本
「君が代」の原本
(「国歌」じゃなくて「唱歌」になっている点に注目)


 1999年8月13日、「国旗及び国歌に関する法律」が施行され、「君が代」が国歌に、「日の丸」が国旗に決まりました。そこで、「君が代」の歴史についてまとめときます。
 実は、「君が代」には3種類あったんです。面白いので、『明治事物起原』から、あらましを紹介しておきます。

「君が代」の原型は『古今和歌集』の

 我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

 というのは有名な話ですね。これに『和漢朗詠集』の「きみがよは〜」と結びついて今の歌詞ができました。

 明治2年(1869)、国歌制定を説いた軍楽隊長フェントン(イギリス人)がこの詞に曲をつけたけれど、純西洋風で日本人には合わず、広まりませんでした。
 明治9年、海軍軍楽隊の中村祐庸が「外国調に非ざる天皇陛下奉祝の楽譜を新に制定するの建議」を提出し、陸軍、海軍、宮内省が委員を任命し、雅楽寮の林広守に作曲させることが決まりました。これに、ドイツ人エッケルトが和音をつけたものが、現在、一般に通用している「君が代」です。

君が代作者林広守
林広守


 君が代の詞を選んだのは、大山巌元帥という説があります。そのきっかけは、幕末、横浜で起きた生麦事件でした。これは生麦村で、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入したイギリス人を藩士が殺傷した事件です。イギリスは怒って軍艦7隻を鹿児島湾に侵入させます。
 
 このとき、イギリス軍艦の甲板から大音量で聞こえてきた軍楽に、薩摩軍は大いに驚きました。そして、維新後、軍隊を創設した後、薩摩の少年20〜30人を横浜に駐留していたイギリス軍に派遣し、軍楽の伝習を行ったのです。
 あるとき、軍楽隊長フェントンが、伝習生の穎川与五郎に、「外国には、みな国歌があるが、日本にはないのか」と聞かれ、「まだありません」と答えたことがきっかけで、国歌の作成が始まります。

 穎川がたまたま上京していた薩藩徴兵砲兵隊長の大山弥助(後の大山巌元帥)に話したところ、「歌詞を新作するより古歌をそのまま用いたほうがいいだろう」と、「君が代」の詞を与えたのです。
 あまりにできすぎた話ですが、大山は日頃から古今集を愛誦していたそうなので、ホントの話かもしれません。

大山巌
大山巌


 さて、前述の通り、フェントンが作った最初の曲は日本人にはあいませんでした。そこで林広守が作り直した曲は、明治13年10月25日に完成し、同年11月3日の天長節の宴会で、初演奏されました。これが国歌「君が代」の誕生。

 そして、面白いのはここから。
 国歌の制定に加われなかった文部省が、独自に曲を付けた第3の「君が代」を作るのです。明治14年11月、文部省音楽取調掛が編纂した『小学唱歌集・初編』に、初めて「君が代」という題の唱歌が掲載されました。
 詞はちょっと長く変えられ、2番まであります。

(1)
君が代は、ちよにやちよに、さざれいしの、巌となりて、こけのむすまで、うごぎなく、常磐(ときわ)かきわに、かぎりもあらじ
(2)
きみがよは、千尋(ちひろ)の底の、さざれいしの、鵜(う)のいる磯と、あらわるるまで、かぎりなき、みよ(御代)の栄(さかえ)を、ほぎたてまつる
(明治15年刊行『文部省唱歌集・初編』より)

 第3の「君が代」の曲調は賛美歌を応用したもののようですが、結局こちらも普及することはありませんでした。
 結局、「君が代」は明治26年8月12日に国歌と制定され、明治33年の小学校令施行規則で「紀元節・天長節・1月1日、職員および児童は、君が代を合唱すべし」と規定されたのです。


更新:2012年10月27日


<おまけ>
「君が代」に出てくる「さざれ石」というのは、小さな石が長い年月をかけて1つの大きな岩の塊に変化したものも指します。学術的には「石灰質角礫岩」と呼ばれます。その現物を鹿島神宮に見に行ってみたよ。
さざれ石
さざれ石

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