JTB/日本交通公社の誕生
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JTB/日本交通公社の誕生
不死鳥のように蘇る日本最大の旅行会社
日本の旅行をナビゲート
戦前の大軍需工場「各和製作所」を一代で作り上げた各和福次は、1937年(?)の6月、朝鮮・満洲に視察旅行に行きました。言うまでもなく、当時の旅行は危険と隣り合わせです。軽々しく旅ができるわけではないので、手配を「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(以下、JTB)にまとめて依頼しています。
JTBの随行員は、各和の安全を守るため、現地住民との交流を厳しく諌めます。たとえば山海関では、自動車はもちろん、馬車も人力車もなく、しかたなくラバに乗る必要がありました。しかし、駅につくと、ラバの御者たちが殺到し、一行はあっという間に囲まれてしまいます。危険だと判断した随行員は、何人もの御者のスネを靴で蹴り上げ、安全を確保しました。
各和福次の旅行記(未刊)
同様に奉天では、人力車の車夫にお礼を言った各和に、「日本人の体面があるからやめろ」と制止しています。当時の中国では、日本人が下手に出ることは危険だったからです。
旅行会社JTBは、1912年(明治45年)3月12日に創設されると、最初に中国の大連に支部を開設します。JTBは、まさにここから始まりました。今回は、JTBの誕生と、繰り返される倒産危機の歴史をまとめます。
創業当時のJTB本部(鉄道院庁舎の一部)
渋沢栄一が中心となって、帝国ホテルが開業したのは1887年(明治20年)12月のことです。開業式で渋沢は「用命があれば世界のどんなものでも調達して便宜を図る。これこそ帝国ホテルが果たすべき役割と心得だ」と語っています。
渋沢は、1867年のパリ万博に徳川昭武の随行員として参加していますが、このとき、多くの外国人観光客を目撃します。そして、外客の誘致こそ、日本の経済発展に役立つことを知ったのです。その第一歩が
帝国ホテル
でした。
帝国ホテル
その5年後の10月、帝国ホテルに再び渋沢栄一の姿がありました。末松謙澄、蜂須賀茂韶、益田孝らと会合し、外客の誘致斡旋機関の創設が決められたのです。これが1893年に設立された「喜賓会(Welcome Society)」で、事務所は東京商工会議所内に置かれました。
喜賓会の目的は以下のとおりです。
《我国の山河風光の秀、美術工芸の妙、つとに海外の称賛あるところとなり。(中略)
遠来の士女を歓待し、行旅の快楽、観光の便利を享受せしめ、間接には彼我の交際を親密にし、貿易の発達を助成するを以て目的とす》
せっかくやってきた外客を失望させないよう、ホテルの改善勧告、優秀なガイドの育成、観光地や日程の調整、国内人脈の斡旋、ガイドブックや地図の刊行などが謳われました。ガイドというのは、もちろん通訳のことで、イザベラ・バードに同行した伊藤鶴吉などが有名です。団体としては、開誘社や東洋通弁協会などがありました。
ただし、喜賓会は資金に乏しく、なかなか満足な活動ができませんでした。
喜賓会の英文ガイドに載った帝国ホテルの宣伝
(国会図書館「A guide book for tourists in Japan」1908年)
日露戦争後には、外客の誘致は外交面からも経済面からもその重要性が増していました。強大国ロシアに勝った日本に世界は驚きの目を向けましたが、誰も日本のことは知らず、外国では怪しい噂ばかり先行する事態になっていました。また、貿易としても、日本は売り物が生糸や綿布くらいしかなく、貿易赤字の解消も喫緊の課題でした。外客が来れば国際収支も改善します。
折しも1907年(明治40年)、アメリカから帰国した鉄道院の官僚・木下淑夫は、さかんに「外客誘致論」を主張します。この意見に鉄道院の副総裁・平井晴二郎も賛同し、渋沢栄一も共鳴。木下らは汽船会社、鉄道会社、ホテル、百貨店(三越、高島屋、さらに御木本、山中商会等)、劇場などに声をかけ、ついに1912年3月12日、JTBの前身となる「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が半官半民で設立されました。従業員はわずか11名でした。
当時、外客の旅行は汽船と鉄道による移動が主なので、設立の発起人は以下の12名となりました。
●鉄道院(平井晴二郎、木下淑夫、大道良太)
●南満洲鉄道(中村是公、清野長太郎、龍居頼三)
●日本郵船(近藤廉平、林民雄、小林政吉)
●東洋汽船(浅野総一郎、井坂孝)
●帝国ホテル(林愛作)
設立式で渋沢は、「外国人の来遊に対する設備に就(つい)ては『ホテル』を見ましたが、横浜、神戸にはありますけれども、その有様は便利でなく、順序なしに旅行をする者の便利に供するという事は、殆(ほと)んどあまり考える人もなかったと言うても宜(よろ)しいので御座います」(『ビューロー読本』)と語っています。
木下淑夫はその後、東京ステーションホテルの建設にも尽力しました。JTBの実務は生野団六が担っており、一般的には木下淑夫が「生みの親」、生野が「育ての親」とされています。
JTBは、創業後すぐに中国の大連、朝鮮、台湾、神戸、ニューヨークなどに支部や代理店を開設。そして、生野の次にトップになった猪股忠次は、イギリスの旅行代理店トーマス・クックと提携し、世界一周ツアーにも関与するようになります。
神戸案内所
世界初の団体旅行は、トーマス・クックが、1841年、禁酒大会に出席するグループを世話したことが始まりです。その後、1851年のロンドン万博、1855年のパリ万博で大儲けし、アメリカ大陸横断やスエズ運河の船旅などを次々と成功させました。JTBは、こうしたトーマス・クックのノウハウを学んで成長したのです。
トーマス・クックの世界一周ツアー募集(官報1922年12月12日)
実際、日本では富士山や瀬戸内海を国立公園にしたり、博覧会を開催したりで、外国人の誘致は順調に進みます。
関東大震災では、軽井沢から移動できなくなった外国人の世話をしたり、在京外国人を神戸に避難させるなど、さまざまな貢献をします。
日本旅行協会のガイドブック
ジャパン・ツーリスト・ビューローは1934(昭和9年)から社団法人となり、和訳は「日本旅行協会」となりました。しかし、まもなく、会社消滅の危機に瀕することになります。その原因は、戦争です。
言うまでもないですが、戦時下に観光事業はほぼ存在しません。
まず1942年(昭和17年)11月、鉄道省の国際観光局が廃止され、1943年12月には国際観光協会も吸収合併により消滅しました。外国語使用禁止の流れを受けて東亜旅行社と改称していたJTBは、この年、東亜交通公社と改称し、国際観光協会の事業を継承します。
公社になったことで、内閣情報局などから補助金が入るようになりましたが、これは対外プロパガンダのためでした。『ツーリスト』や『旅』などの雑誌を発行していたJTBにとってはお手の物です。膨大な印刷物や映画を多言語で作り、次々に現地に配送。日本の国情や文化を強力にPRしていきました。たとえば、中国の北京では、北京支社が華北事情調査所を併合し、プロパガンダを流し続けました(『交通公社50年』による)。
海外に頒布した「JAPAN」
戦局が悪化すると、国内旅行者の乗車券購入が全面的な統制を受けることになりました。不要不急の行楽や旅行が消滅するなかで、JTBは、労働者、学徒動員、疎開児童などの集団輸送を担当します。本土空襲が激しくなると、戦災者の輸送も担いました。
この頃で特筆すべきは、ナチスの弾圧を逃れたユダヤ人の海上輸送を担当したことです。
1940年7月、リトアニアの領事代理だった杉原千畝が、ポーランドからのユダヤ難民6000人に日本通過ビザを発給しました。しかし、モスクワではなかなかシベリア鉄道に乗れず、場合によっては数カ月もかかって極東に到着しました。特に冬季は、零下30度を超える寒さのなかを走るため、移動は困難を極めました。
1940年になって、事の深刻さに気づいたアメリカユダヤ人協会は、極東までたどりついた人達をアメリカまで届けるよう、ニューヨークのJTBに依頼します。これを受け、JTBはウラジオストク〜敦賀間で「天草丸」を使って毎回400人ほどの難民を運びました。運航は40数回おこなわれたと記録されています(『観光文化』144所収「ユダヤ難民三万キロの旅」)。
敦賀港駅
JTBは、敗戦後すぐに「日本交通公社」になり、進駐軍の部隊内に案内所を設け、映画や講演会を開いたり、英文の日本案内やクリスマスカードを配布するなど、交流を深めました。日本の復興とともに、JTBの業績は復活したかに見えましたが、1949年、またしても会社消滅の危機に瀕します。今度は、国鉄の切符販売の手数料が入らなくなったのです。
1915年(大正4年)、JTBは鉄道院から委託された外国人向け乗車券の販売を開始しました。1925年には日本人にも乗車券の販売を始めています。実は、この販売手数料こそが営業の根幹でした。しかし、占領軍はドッジ・ラインにより日本経済の引き締めをおこないます。その一環として国鉄の合理化が命ぜられ、乗車券の外部委託販売が禁止されたのです。
JTBは、わずかに残った国鉄の団体乗車券販売手数料に依存することになるも、あえなく経営危機に。ビジネスの多角化をいろいろ進めますが、どれもうまくいかず、赤字を垂れ流すばかり。しかし、ちょうどその頃、世界中から民間飛行機が乗り入れるようになり、その手数料で一息つくことになるのです。まもなく、国鉄の乗車券の販売手数料が一部復活し、JTBはなんとか潰れずにすみました。
ジャパン・ツーリスト・ビューローの本社は、もともと鉄道院内に置かれ、その後、東京駅前に移ります。JTBには当初、国鉄が3割以上出資するなど、非常に深い関係を築いてきました。構内にある「駅旅行センター」を共同経営し、共存共栄してきたのです。その後、旅行は鉄道だけでなくなり、国鉄との距離はやや離れたものの、蜜月は長く続きました。
東京駅前の旧社屋
しかし、1987年、国鉄は分割民営化されます。この結果、JR各社は儲かる旅行業に自ら参入し、旅行会社との共存関係は消滅。JTBとJRは競争相手となり、双方によるホテルの囲い込みが進むなど、ふたたび危機がやってきます。しかし、このときはバブル期の旅行市場の拡大もあり、なんとかやり過ごすことができました。
1990年代後半になると、ネットの普及により、OTA(オンライン・トラベル・エージェント)と呼ばれるネット専門旅行会社が一気に勢力を伸ばします。これも、既存の旅行会社には大きな脅威となりました。
そして、2020年、過去最大の危機がやってきます。全世界的なコロナウイルスの感染拡大です。JTBは国内旅行の売上が半期で85%減、海外旅行も91%減になるなど、再び経営危機になりました。すでに本社を売却し、減資して中小企業化するなど、さまざまな対策は打っていますが、先行きは不透明です。
JTBは、再び不死鳥のように復活できるのか、業界全体で固唾を呑んで注目されています。
かつて存在した交通公社ビルヂング(現在は丸の内オアゾ)
制作:2022年4月19日
<おまけ>
江戸時代、庶民の間で伊勢参りが大ブームになり、みんなでお金を出し合って順番に参詣に行く仕組みができあがりました。これが「伊勢講」と呼ばれるもので、このおかげで街道の整備が進みました。
日本人は江戸時代から団体旅行していたわけですが、組織化されたのは、1905年(明治38年)に南新助が創業した「日本旅行会」(現・日本旅行)による参詣ツアーが最初です。鉄道を使った高野山や伊勢神宮を詣でる旅行で、初回はそれぞれ100人ほどが参加しました。
なお、団体旅行はその後、社員旅行や修学旅行の形で定着することになります。
1964年の東京オリンピック開催、海外旅行自由化、1970年の大阪万博、その後のジャンボ機就航などで、戦後の旅行業界は、基本的には順調に拡大してきました。しかし、旅行は「不要不急」だけに、いったん環境が悪化すると業績は止まることなく縮小してしまうのです。
団体旅行のマナーを啓蒙(1936年)