帝国ホテルの歴史
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帝国ホテル開業
これぞ帝国ホテル(ライト館)
明治23年11月3日、日本初の本格的な洋風ホテル「帝国ホテル」が誕生しました。欧化政策のために外務大臣・井上馨が提案したもので、場所は舞踏会で有名だった
鹿鳴館
の隣です。国策ホテルだっただけに、開業時、筆頭株主は宮内省でした。
ホテルはドイツ・ネオ・ルネッサンス式の煉瓦造り3層構造。総建坪1300坪以上という大きなもので、当時「東洋唯一の大ホテル」といわれました。
玄関の正面に広間があり、その左に客を受け付けるフロント。談話室には椅子とピアノ、オルガンなどが設置され、100畳という大きなビリヤード場もありました。
鹿鳴館の隣だけに当然というか、広い舞踏室もあり、500〜600人が集まる会合では、この舞踏室が臨時食堂になりました。ほかに喫煙室や新聞縦覧室、奏楽室などなど。
開業当時の帝国ホテル
当時の新聞(東京日々新聞、明治23年11月9日)によれば、室料は最下等で50銭、最上級が7円。ちなみにこれは素泊まりで、2食付きだと2円75銭〜9円くらいでした。朝食は50銭、昼は75銭、夕食は1円でした。
明治26年(1893)10月、ボヘミア人の旅行者ヨゼフ・コジェンスキーは、帝国ホテルの宴会に出席し、次のように書き記しています。
《日本食の豊富なメニューのなかには、最も味のよい魚、特に鯛、マッシュルームを添えた鶏肉、伊勢海老、貝類、卵、生姜、ダイコン、メロン、キュウリ、海藻などがある。牛肉、子牛の肉、羊肉や豚肉は調理して出されることはない。ここではご馳走とは見られていないのだ。日本人は、それほど鮭が好きではないし、牡蠣はありふれた食事の部類に入る。
日本人だけで編成されている軍楽隊の演奏するワグナーのオペラのメロディーに対して、参会者は熱狂的に拍手していた。手品師の演技や、日本の女性歌手の歌と踊りが、客の陽気な気分をかきたてた。そして忘れがたい一日は、その晩おそく打ち上げられた花火の華麗な照明で終わりを告げた》(『ジャポンスコ』)
オープン当初は、おそらくあまり日本人に縁のなかったホテルも、次第に多くの日本人が利用し始めます。その様子を苦々しく思っていたのが夏目漱石。明治38年に書かれた『吾輩は猫である』には、
《聞くところによると彼等(=西洋婦人)は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。怪(け)しからん事だ。……彼等の(露出度の高い)礼服なるものは一種の頓珍漢的(とんちんかんてき)作用によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと云う事が分る。……(そして日本人も)この不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ出懸(でか)けるではないか。その因縁(いんねん)を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると云うまでの事だろう。……あまり日本人をえらい者と思ってはいけない》
と西洋かぶれの日本人を痛罵するのでした。
帝国ホテルではさまざまな会合が開かれ、多くの来賓が集まったわけですが、歴史的に有名な会合がこちら。明治38年、
日露戦争
の講和会議に出発した小村寿太郎一行の壮行会です。
小村寿太郎壮行会
で、一行が出席したアメリカのポーツマス会談が下の写真。
この長テーブルに注目ですが、それは最後にまた触れます。
ポーツマス会議
さて、大正時代に入って、旧帝国ホテルは
フランク・ロイド・ライト
の設計で新しくなりました。冒頭の写真が1923年に完成したライト館ですが、なんとオープン当日に起きたのが
関東大震災
。周囲の建物が崩壊するなか、まったくびくともしなかったというのは有名な話です。
当時の絵はがきより、戦後に建設された第1新館(1954)
第2新館(1958)
その後、ライト館も老朽化には勝てず、1967年に解体工事が始まり、1970年に新しい本館が竣工しました。設計は学士会館や日本橋高島屋を設計した高橋貞太郎。
(余談ながら、学士会館は敗戦でGHQに接収され、舞踏会場・宿泊施設となっています)
現在の帝国ホテル(インペリアルタワー建築前)
帝国ホテルといえばライト館なわけですが、これは現在、愛知県犬山市の明治村に保存されています。さっそく見に行ってみたら……大雪でやんの。
信じられない大雪!
寒くて死にそうですが、なかの様子はこんな感じ。
玄関
フロント
大ロビー前の階段
玄関からすぐの階段部分は低い天井が威圧するんですが、階段を上ると、一気に視界が開けます。非常によくできた空間デザインです。
中央の大ロビー。天井がスコーンと抜けて広々
2階からロビーを見下ろしたところ
で、ここに保存されてるのが、前述のポーツマス会談で使われた長テーブルの実物。いやー、歴史って不思議なところで“保存”されるんですね。
歴史を作った長テーブル
制作:2006年11月21日
<おまけ1>帝国ホテル乗っ取り史
帝国ホテルは歴史ある日本一のホテルだけに、これまで何回か乗っ取りが行われました。
戦後、帝国ホテルの筆頭株主は、宮内省から大倉財閥の2代目、大倉喜七郎に変わっていました。大倉は敗戦で公職追放され、ホテル経営に戻れないまま株を放出。その株を買い占めたのが、中国で塩とタバコ事業で大儲けし、「北支の煙草王」と呼ばれた金井寛人。この金井に8000万円という巨額の資金援助を行ったのが、後に東京相和銀行の会長になる長田庄一です。
金井は1953年に帝国ホテル会長になり、以後、君臨します。この時代にさらなる乗っ取りを行ったのが白木屋の株買い占めで名を馳せた横井英樹ですが、こちらはあえなく失敗しました。
1977年に金井が死去すると、同氏の持ち株すべてが小佐野賢治の国際興業に渡ります。その国際興業は、2004年、アメリカの投資ファンド・サーベラスに買収されました。つまり、帝国ホテルは外資系になったわけですが、2007年、三井不動産が資本投下したことで、現在は“日本企業”となっています。
なお、金井に帝国ホテルを乗っ取られた大倉喜七郎は、その悔しさから、1962年、虎ノ門の大倉邸跡地に新ホテルを開業します。それが帝国と並ぶ高評価を得ているホテルオークラなのでした。
<おまけ2>開業時の挨拶全文
帝国ホテルのオープンは明治23年11月3日ですが、開業式は20日に開催されました。この式典で、株主総代の渋沢栄一が行った挨拶全文を公開しときます(東京日々11月22日より転載)。今となっては、いまいち意味がわかりませんが、「五洲水陸の珍什は一呼立ちどころに弁ず」、つまり世界中の食べ物を提供するという点がポイントです。
答詞
これ明治23年11月20日、本館開業の典を挙げ、朝野貴賓の恵臨を辱(かたじけ)のうし、殊に蜂須賀知事閣下の祝司を賜わる。本館の光栄焉(これ)に過ぐるはなし。よって本館創立の主旨を略陳して、瓊詞(けいし)に奉答し、併せて貴賓の寵眷(ちようけん)を鳴謝せんとす。
恭(うやうやし)く惟(おもん)みれば、我が東京は維新奠鼎(てんてい)ここに二十有三載、交通の道大いに開け、聘問(へいもん)の礼荐(しき)りに挙ぐ。朝会の使往来織るがごとく、通商の客、雲屯霧集す。樽俎(そんそ)相見(あいまみ)え、饗燕相親しむ日虚日なし。これ我が東京の一大盛事たり。この盛事に際会すれば、またその用を利しその需に供するの具を設けざるべからず。本館の創立は実にこの盛事に起因せり。
しかりといえども、これまたもとより民業なり。必ず営業法を以って計画せざるべからず。これに於いて有志数名相議し、資を合わせ社を結び、地を相し図を絵き、ついにこれに従事し、鳩工より落成に至る。年を経る3周、資を投ずる26万余円となす。故にその構造は美を尽さずといえども、よく数百名の大賓を款待(かんたい)するに足るべく、その器皿(きべい)は金を鏤(る)し玉を刻せずといえども、五洲水陸の珍什は一呼立ちどころに弁ず。これ本館の自から勉め、自から任じて譲らざる所なり。
知事閣下のその国の民意を察し、その文明の点度を徴するに足ると言わるるごとき者は、本館励精を以ってこれを他日に期せんと欲す。仰ぎ願わくは朝野内外の貴賓、この微志を諒納せられ、幸いに眷愛を賜わらんことを。謹みて以って奉答し、並びにここに鳴謝す。