海上保安庁の誕生

海上保安庁
初期の海上保安庁(1955年頃)


 国民的歌手・美空ひばりが横浜国際劇場でデビューしたのは昭和23年(1948)5月1日。実はこのとき、もう一つ“デビュー”したものがありました。それが今回のお題である海上保安庁です。職員は1万人ですが、巡視艇は28隻と、こじんまりしたデビューでした。

海上保安庁
1948年5月5日の閲艇式(『写真図説 近代日本史』国文社、1966より)


 当時、戦争に負けたばかりの日本はすべてが統制下にありました。
 たとえば食料や日常雑貨には「マル公」と呼ばれる公定価格が決まっており、同一品目は同一価格で販売されていました。魚も一緒で、大漁だろうと不漁だろうと値段は一緒。

 漁師にしてみれば、不漁だと、魚の値段を上げられないまま赤字になってしまう。
 一方、豊漁だと、値段を安くできないから魚が余ってしまう。この場合、若干、米や油の配給が増えるものの、基本的には廃棄せざるを得ない。しょうがないので、地元の農家の肥料として売る以外ありませんでした。
 食糧難の時代に、何とバカなことをやっていたのか、という話です。

 困った農家は、隠れて東京に魚を売りに行きました。ところがそれは違法行為なので、水上警察が重機関銃を備えながら、産地の船が東京に入って来るのを警戒するような事態が起きていました。
 繰り返すけど、食糧難の時代の話ですよ。なんじゃそれって感じでしょ。

 ちなみに、その水上警察は、たいていの場合、港のある自治体の管轄でした。もちろん港湾に限らず、沿岸の水域はほぼ各自治体の管理で警備していたのです。
 これって効率が悪いよね、というところから海上保安庁の構想ができてきました。


海上保安庁
生阿片の押収(1957年)


 実はもっと大きな理由があって、それは密輸や密入国、海賊の横行でした。
 昭和22年8月15日、貿易が再開されて喜んだのもつかの間、1週間もたたないうちに北九州で日本の船が国籍不明機によって爆撃されたこともありました。そもそも船が少ないなかで、これでは自治体ごとの水上警察では対応しきれないという危機感から、海上警備の一元化が議論にのぼるようになってきたのです。

 こうして昭和23年3月30日に法案が提出されます。
 法案の理由書には「戦後の新情勢に鑑み海上の安全を確保し、並びに法律の違反を予防し、捜査し及び鎮圧するため、海上保安制度を確立する必要がある。これが、この法律案を提出する理由である」と書かれていました。
 
 海上保安庁の初年度の運営経費は約9億1200万円。余談ながら、同じ運輸省所管予算の歳出を見ると、戦争で海外に残っている邦人の帰還輸送の経費が9億3300万円でほぼ同額でした。

 海上保安庁は昭和23年(1948)5月1日に設置されました。保安局、水路局、燈台局で構成され、当初は山口県から九州・五島列島にかけての密貿易船の検挙が最大の任務でした。
 昭和24年には警備救難部が追加。これが「海猿」の元となったわけですな。


海上保安庁
観音崎に次いで2番目に点灯した野島埼灯台。右は無線方位信号所(電波灯台):交通部(旧灯台局)担当


最初期の海図
上の地図に水深などを書き込んだ最初期の海図:海洋情報部 (旧水路局)担当


 昭和25年には特別掃海隊が朝鮮半島へ出動し、機雷処理を実施しています。今だったら海上自衛隊の仕事ですが、当時はまだ自衛隊がありませんでした。
 昭和27年、警察予備隊(陸上の軍事組織、後の陸自)と海上警備隊(後の海自)、さらに海上保安庁が統合されて保安庁になるはずでしたが、海保の反対により頓挫。結局、海保は組織が温存され、その後、保安庁は防衛庁になりました。

明神礁
爆発する明神礁。この火山の調査で海保には犠牲者が出ました

 この年、伊豆諸島南部にある海底火山・明神礁が爆発、海上保安庁は海洋調査を行っています。海保は海洋調査も重要な任務なんですな。「拓洋」という調査船が有名です。

海上保安庁 海上保安庁
初代「拓洋」とその内部。電磁海流計、自記水温計、自記風向速計、自記気圧計、極深海・浅海音響測深儀などが見える


 もうひとつ、海保の重要な任務に南極観測がありました(現在は海自と国立極地研究所が担当)。もともと第1号観測船「宗谷」は灯台の補給船だったんですよ。

宗谷 宗谷
船の科学館に保存されている初代「宗谷」と、後ろ甲板のヘリポート設置工事


 さて、現在の海保は予算1800億円で職員は1万3000人。この人数で、世界第6位という広大な海域を日々護っているわけですな。
 極寒のオホーツクでは、釧路海上保安部の砕氷巡視船が海氷のなかをパトロール。冬の朝は甲板の氷を小槌で落とす作業から始まるそうですよ。
 なかでももっとも過酷な任務を担っているのは尖閣諸島から沖縄の南大東島までを担当する沖縄第11管区。巡視船では3時間交代の7名ワッチ(監視)体制が組まれています。


海上保安庁 海上保安庁
オホーツク海の流氷の中を進む巡視艇。右は船についた冬の氷(1955年頃)


海上保安庁
APECで活躍する横浜海上保安部


 ところで、2010年、海保の特殊部隊SST(Special Security Team)の訓練が初公開されました。89式自動小銃でテロリスト制圧に向かう……という演習でした。これは全管区の特別警備隊員から選ばれた超精鋭チーム。

 SSTは1996年に誕生しました。前身は1985年に新設された「関西国際空港海上警備隊」と、1992年にプルトニウム輸送船を護衛するため創設された「輸送船警乗隊」。アメリカ海軍の特殊部隊「シールズ」の指導を受けた日本最強の部隊です。
 1班8名で5隊、40名で構成されていると推測されますが、その詳細は明らかにされていません。訓練は偵察、接近戦、シージャック船からの救出などで、中国語、韓国語、タガログ語など語学の習得も重視されているそうですよ。

 ついでながら、海保の武器使用の責任は、自衛隊と異なり、銃を発砲した本人が負う仕組みです。そのため、無用な殺傷は避け、敵の戦闘能力をなくすことが攻撃の中心となっています。


制作:2010年11月8日

<おまけ>
巡視船「くりこま」
巡視船「くりこま」(第2管区)
「救難」を主目的にした巡視船ですが、北朝鮮の不審船事件などを契機に、新造船は「警備」が主目的になりました
 
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