文明開化「食肉」事始め

牛鍋(すきやき)
牛鍋(すきやき)


 蘭学者の緒方洪庵は、江戸時代後期に大阪で私塾を開きます。日本史の教科書に出てくる「適塾」ですな。安政2年(1855)、ここに入門したのが福沢諭吉です。

適塾 適塾
適塾。右は福沢諭吉の名前が書かれた塾生名簿


 今でこそ謹厳実直なイメージがある諭吉先生ですが、塾長だった若かりし頃には、かなりの乱暴狼籍を働いていました。貧乏だった諭吉先生が、当時、お気に入りだったのが、大阪で2軒しかなかった「牛鍋屋」(スキヤキ)です。誰も牛肉なんて食べない時代だったので、店にはごろつきばかり集まっていました。

《最下等の店だから、凡(およ)そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身(ほりもの)だらけの町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やら、そんなことには頓着なし。一人前150文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった》(『福翁自伝』)

 あるとき、諭吉先生は、牛鍋屋の親爺から「仕入れてきた豚を殺してくれ」と頼まれます。そのときの会話。

 諭吉「殺してやるが、殺す代わりに何をくれるか」
 親爺「左様ですな」
 諭吉「頭をくれるか」
 親爺「頭なら上げましょう」

 無事契約が結ばれ、諭吉先生は豚の四足を縛って近くの川に突っ込んで水死させ、お礼として頭を貰います。そして解剖的に脳だの眼だのを調べ、散々いじくったあとに煮て食べたと自伝に書いています。
 というわけで、今回は日本食肉史を調べてみたよ。

 まず前提として触れておくと、我が国では基本的には明治時代までの1200年間、肉食は禁止でした。

 卑弥呼の時代(3世紀)に書かれた『魏志倭人伝』には、《死停喪十餘日當時不食肉》と「日本人は喪中には肉を食べない」とあります。逆に言えば、普段は当然のように食べてたわけですね。

 で、天武4年(675)4月1日、天武天皇が日本で初めての肉食禁止令を出します。『日本書紀』の原文では、
《且莫食(=食うなかれ)「牛馬犬猿鶏」之宍(=肉)、以外不在禁令(=それ以外はいいが)、若有犯者罪之(=もし犯せば罪となる)》
 といった感じ。仏教の教えのためといいますが、本当の目的は“稲作国家体制”を確立するためでした。

 平安時代の967年に施行された法律『延喜式』には、地方からの牛皮、革の貢納が記されているので、禁止されていたとはいえ、肉を食用にすることが常態化していたと想像されます。

 戦国時代、ポルトガル人が来日すると、彼らをマネて日本人の間にも肉食がひろまりかけますが、これを押しとどめたのが豊臣秀吉。「吉利支丹禁教令」とともに牛馬の屠殺を厳重に禁止します。肉食がキリスト教禁止の大きな理由の1つだったというのは、知られざる歴史の一面。 

山くじらや
江戸時代の猪肉(山くじら)屋
(広重 『名所江戸百景』114「びくにはし雪中」)

 江戸時代も肉食忌避は続いていましたが、実際には薬と称して、隠れて肉を食べていました。四谷の三河屋など、「ももんじ屋」と呼ばれる肉料理屋もありました。馬肉を「さくら」、猪肉を「ぼたん」「山鯨(やまくじら)」、鹿肉を「紅葉(もみじ)」などと称する隠語はこのときのものです。
 余談ですが、15代将軍・徳川慶喜は豚が、徳川斉昭は牛が大好きだったそうですよ。


 日本初の牛鍋屋は文久2年(1862)、横浜の「伊勢熊」というのが通説ですが、神戸や京都という説もあるようで、正直、よくわかりません。
 ちなみに東京最初の洋食屋は慶応3年(1867)?、三河屋久兵衛が外神田に開店した「三河屋」とされています(四谷の老舗ももんじ屋「三河屋」とは別)。
 また、東京最初の牛鍋店は明治2年(1869)、江戸最初の屠場を開いた中川屋嘉兵衛の牛肉店から発展した新橋の「中川」です。
 当時、牛肉屋は店先にフラフと呼ばれる旗を掲げることが多く、三河屋は「Mikawaya」、中川は「御養生牛肉」と書かれた旗を立てていました(旗を掲げることを「商家高旗」といいます)。

牛鍋屋 牛鍋屋
銀座の牛鍋屋、万世橋の牛鍋屋(『東京名勝筋違目鏡橋之景』より)


 さて、明治4年(1871)12月、西洋化を進める明治政府は肉食を推奨します。まずは天皇が率先して肉を食べることになりました。
《内膳司に令して牛羊の肉は平常之れを供進せしめ、豕(豚)・鹿・猪・兎の肉は時々少量を御膳に上せしむ》(『明治天皇記』)

 同時に、当時の文化人であった仮名垣魯文が肉食を奨励していきます。有名な言葉が、
《士農工商老若男女、賢愚貧福おしなべて、牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)》(仮名垣魯文『安愚楽(あぐら)鍋』・明治4年)
 こうして、庶民の間にも肉食は、徐々にですが確実に浸透していくのでした。

安愚楽鍋
西洋好きの男(『安愚楽鍋』)


 ちなみに、当時、牛肉は味噌煮で食べるのが普通だったようです。八百屋八兵衛の『牧牛論』(『魯文珍報』明治11年2月18日号所載)によれば、

《葱を五分切りにして、まづ味噌を投じ、鉄鍋ジヤジヤ、肉片はなはだ薄く、少しく山椒を投ずれば、臭気を消すに足るといへども、炉火を盛んにすれば、焼きつけの憂ひを免れず。そこで大あぐらで、一杯傾けるから、姉さん、酌を頼みますと、半熟の肉片、未だ少しく赤みを帯びたるところ、五分切りの白葱、全く辛味を失はざる時、何人にても、一度箸を入るれば、鳴呼、美なる哉、牛肉の味はひと、叫ばざるもの殆ど希れなり矣》

安愚楽鍋
牛肉屋の外観(『安愚楽鍋』)

牛肉しゃも東京流行見世
人気店を一覧にした「牛肉しゃも東京流行見世」(明治8年)では四谷三河屋が大関に。中川は勧進元扱い


 時代が下るにつれ、徐々に牛肉の評判は高まり、次々に牛鍋屋ができていきます。
 明治10年11月8日付の『朝野新聞』では、当時、東京府内に全部で558もの牛肉屋があったと報じています。明治に入ってたった10年でこの人気ぶり。日本人の食のパワーにはホント驚かざるをえませんな。


制作:2010年6月20日

<おまけ>
 現存する最古のすき焼き屋は、横浜が明治元年(1868)創業の「太田なわのれん」、神戸が明治4年の「大井肉店」、京都が明治2年の「モリタ屋」だと思います。
 このモリタ屋の牛鍋を食べたであろう男が、後に東京で一大牛肉チェーン店を開きます。
 男の名前は木村荘平。明治政府から官営屠場の払い下げを受け、「いろは」という店を次々にオープンしていくのです。これが日本初のチェーン店とも言われるんですが、面白いのは約20の支店それぞれに愛人をおいて経営にあたらせた点。
 その後、木村はヱビスビールを創業、火葬場経営にも成功します。しかし、木村が死ぬと「いろは」は婿養子が引き継いだものの、まもなく消滅してしまいました。
 東京初の洋食屋「三河屋」は関東大震災で閉店。江戸以来の老舗ももんじ屋「三河屋」も昭和6年に家庭の事情で閉店となりました。
 そう考えると、140年も続く店ってすごいですよね。
 
明治村 すき焼き
明治村に残る「大井肉店」とモリタ屋のすき焼き
 
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