狂牛病と口蹄疫には負けないぞ
食肉処理場に行ってみた!

屠畜
食肉処理場


 幕府禁制の日本地図を持ち出そうとして、ドイツ人医師シーボルトが国外追放になったのは1828年のことでした。
 で、あまり知られていませんが、そのシーボルトは30年後の1859年に再び来日しています。そのときは息子アレクサンダー・フォン・ジーボルトと一緒でした。
 アレクサンダーはまだ10代で、どうしても肉が食べたいのですが、肉食禁止の日本ではもちろん牛や羊の肉は売っていません。豚肉はあったようですが、いまいち魅力を感じなかったので、被差別部落の人間から牛肉を手に入れます。

《彼は2、3日後に肉を細長く切って持ってきて、信じられないほど安い値段で売ってくれた。それで父と相談してスープとビーフステーキを作ったが、味は故郷で食べたのとは全然違っていた》(『ジーボルト最後の日本旅行』)

 牛の味がまったく違った理由は、後日判明します。売ってもらったのは死んだ牛の肉だったのです。当時の日本では屠畜が禁じられている以上、それはやむを得ない話でした。
 しかし、事の真相を知ったアレクサンダーは《どんなに抵抗を感じたか、詳しく記す必要はあるまい》として、以後、肉をあきらめ、すっかり日本食にはまったのでした。

屠畜
「屠牛場へ引かれて歩む牛の身は今日を限りの命ともかな」
(明治6年『文明開化童戯百人一首』より。儀同三司母の原文をパロディ化)


 ちなみに死んだ牛の肉を食べるとどうなるのか? 1695年(元禄8)に刊行された『本朝食鑑』によれば、

《病死した牛は大毒があり疔(ちょう)を生(おこ)す。自然死の牛あるいは首の白い牛を食べると死ぬ。疥牛を食べれば痒を発(おこ)す。黄牛を猪肉・黍米酒に合して食べると、どちらも寸白虫(さなだむし)を生ずる。ニラに合して食べると熱病になり、生姜に合して食べると歯を損なう》

 とあり、死んだ牛を食うと《癰疔(ようちょう)・癩疥(らいかい)・天疱(てんぽう)・厲風(れいふう)》といった聞いたこともない毒に当たって命を落とすそうです。
 スゴイ話だな。


 さて、今の日本で、死んだ牛や病気の牛の肉を食うことは想定できませんが、その安全はどうやって担保されてるんでしょうか? 

 最近はあまり話題になりませんが、かつてBSE(狂牛病)問題が起きたとき、農水省の対応が批判されたことがありました。
 どういうことかというと、日本初のBSEは2001年9月、千葉県で発見されたのですが、実は前年の7月にECの科学運営委員会が日本の狂牛病発生リスクを「3(システムが改善されない限り発生の可能性が高い)」と警告していたからです。


狂牛病 狂牛病
表紙にはconfidential(極秘)とあるECの内部資料。日本の狂牛病発生リスクは「3」


 この段階でうまく対処すれば、日本で狂牛病は発生しなかったのではないか、という(後付けの)批判がわき起こりました。
 実際は、第1号が発生した翌月に食用牛の全頭検査が導入されており、それなりの対応が取られていたわけです。現在は検査で陽性が確認された場合、家畜伝染病予防法に基づいて殺処分されているので、BSE牛が出回ることはまずありません。


 かつて俺はその検査の様子を見たいと思い、国内の処理場に「見せて見せて!」とお願いしたことがあります。国内に処理場は150カ所以上あるんで、すぐ見せてくれるかと思ったら大間違い。間違いなく見学なんてできません。1日に牛だけで300頭処理する日本最大の芝浦食肉処理場なんて、3秒で却下でした(泣)。そんなわけで、あらゆるルートを駆使し、なんとか某処理場に入ることができました。
 
 以下、食肉処理の流れを紹介しましょう。


 作業は、まず、係留場に牛を追い込むところから始まります。細い通路を通って1頭だけのスペースしかない個室に入ると、鉄製の仕切りが下ろされます。ここでピストルのような「屠殺銃」によって額に穴を開けられます。鉄のノズルが牛の頭蓋骨を貫通して、脳を破壊するわけです。

屠畜
屠室に追い込まれた牛は、屠殺銃の「パチン!」という乾いた音と同時に気絶


 牛が横転すると、その自重で左の扉がクルリと回転、そこは放血場になっています。喉にナイフを入れ、頸動脈を切って放血。牛はなかなか死なず痙攣しているので、非常に危険な作業となります。
 かつては牛の脊髄を破壊して完全に動きを止める「ピッシング」という作業が行われてましたが、BSE(狂牛病)の危険部位である脊髄を破壊すると肉が汚染される可能性があるため、今は行われなくなりました。そのため、牛がなかなか死なず、危険が増えたといいます。



 危険を避けるため、牛が喉元から大量の血を出している間に、電極を当てて脳を停止させる「不動体化」という作業が行われます。これで牛の痙攣が完全に止まるので、牛の足にチェーンを巻き付けて5mほどの高さに釣り上げます。
 ここで胃の内容物が逆流しないよう「食道結紮(けっさつ)」という作業を行います。食道と直腸をゴムバンドで固定するわけですな。

 続いて両足首が切断され、「エアカッター」でスルスルと皮をむきます。殺菌のために何度も水蒸気でカッターを消毒するため、湯気がもうもうと立っていました。
 丸裸になった牛は、吊されたまま内臓が摘出され、頭も切り落とされます。内蔵は部位ごとに切り分けられ、洗浄された後にホルモンとなります。


 では頭部はどうなるのか?
 これが非常に重要なんですが、頭は裏の作業台で手際よく脳の一部が取り出されるんですね。そして生体検査室でBSE検査が行われるわけです。
 この検査をするのは保健所から派遣された獣医師で、処理場の職員とは一切関係がありません。俺も検査室に入れてもらえませんでした。これじゃ、不正なんて起こりようがないですよ。


 検査が終わった牛の頭部は、舌(牛タン)を摘出されたあと、骨髄などとともに800度の熱砂で完全に焼却処分されます。この燃えかすも、持ち出すには保健所への申請が必要となるくらい、厳重なチェック体制が敷かれているのでした。

屠畜
産業廃棄物となる燃えかす


 さて、解体はまだ続きます。
 手足と頭と内蔵のない肉の塊は、背骨に沿って巨大なチェーンソーで真っ二つにされ(「背割り」)、これで「枝肉」の完成。200キロ以上もある枝肉はシャワーで洗浄され、吊されたまま冷蔵庫で2日ほど冷却されます。そして部分肉に切り分けられ、真空パックされ、完全なトレーサビリティの下で出荷されるのです。

 参考までに書いておくと、牛肉は枝肉の段階で「日本食肉格付協会」の格付員によって「格付け」が行われます。「格付け」は

 ・歩留まり等級(肉の量)=C-B-A
 ・肉質等級  (肉質) =1-2-3-4-5
 ・BMS(ビーフ・マーブリング・スタンダード、霜降り具合)=1〜12


 という3つの指標で判断されます。最高品質の肉は「A-5-12」、最低が「C-1-1」で、「3×5×12」の180等の格付けがされるのです。

冷蔵庫で保存される枝肉
冷蔵庫で保存される枝肉


 かつて日本では牛肉は高価で、なかなか食べられませんでした。年数回の「ハレの食べ物」でした。それが1991年の輸入自由化以降、外国産の安い牛肉が大量に出回り、高い和牛から安いサイコロステーキまでさまざまな選択肢が増えました。それはそれで素晴らしいことですが、しかしその一方で、肉骨粉の導入など効率重視の畜産が狂牛病を引き起こしたわけです。もちろん、今では狂牛病自体、ほとんど発生していないし、発生したとしても肉は出回ることはありませんが……。


 BSEは牛に共食いさせてたのが想定原因なわけで、これはまぁ人災の面も強いと思います。では、宮崎県を苦しめている口蹄疫はどうなのでしょうか? やっぱりこちらも触れざるを得ないでしょう。
 結論から言えば口蹄疫は完全な伝染病で、おそらく昔から存在していました。前述の『本朝食鑑』には、

《病気が牛に伝染流行した場合は一村一郷すっかり患(かか)ってしまうのが一般で、竟(つい)には一国一天下にまで及び、ちょうど人間の疫癘(えやみ)と同じである。それで、これを「牛疫」と言い、多数が斃(たお)れるが、これは時令(じせつ)の運というべきであろうか》

 とあります。牛の伝染病は広範囲に広がるというのですよ。まさに口蹄疫の感染とそっくりでしょ?

 もう少し正確に言うと、実際に「牛疫」という病気は存在しているんですが、症状はヨダレや発熱など口蹄疫と似ており、過去の記録ではそれが「牛疫」なのか「口蹄疫」なのかわからないのではないかと思われます。

 では口蹄疫はどのような感染ルートなのか?

 実は、宮崎県を口蹄疫が襲ったのは今回(2010年)が初めてではないのです。10年前の2000年3月にも発生しているんです。そして見落としてはいけないのが、前回も今回も、宮崎の感染を先取りするように、まず韓国で口蹄疫が発生している点です。
 2000年に発行された国際獣疫事務局(OIE)の内部資料によれば、韓国で最初に感染が確認されたのが38度線をはさんで北朝鮮と国境を接する京畿道の坡州市。

韓国の口蹄疫
OIEの内部資料。韓国の口蹄疫の最初の発生は38度線直下


 口蹄疫の起原は中国とされているので、中国→北朝鮮→韓国、あるいは中国→韓国というルートが考えられるわけです。
 その口蹄疫がどうやって海を渡って日本に来たのか?

 考えられる可能性として高いのが、宮崎とソウルを結ぶ飛行機の直行便。
 ソウル―宮崎の直行便は2001年4月に就航。以来、宮崎県を訪れる韓国人観光客は急増し、2007年には東国原知事もソウルを訪問し、観光客の誘致に力を注いでいます。
 2000年の口蹄疫発生のときには韓国との直行便はありませんでしたが、1999年の宮崎空港拡張を受け、県は韓国とのチャーター便に多額の補助をしていたんですな。当然、大量の観光客が往復していました。

 もちろん、科学的な根拠があるわけではないんですが、韓国からの飛行機に乗ってウイルスがやってきた可能性がどうしても捨てきれないわけです。もしそれが本当だとしたら、「観光立県」という宮崎県の政策が生んだ悲劇ということになります。

 グローバル化というのは、こういうところでも顔を出すのです。なんだか恐ろしい話ですな。
 

制作:2010年6月27日


<おまけ>
 仏典には、人間が「無常」を眼前に控えながら何とも思わない様子を、「牛が仲間を殺されるのを見ながら平気でいられるのと同じ」という表現があるそうです。これに対して南方熊楠は次のように述べています。
《予、在外中しばしば屠場近く住み、多くの牛が一列に歩んで殺されに往くとて交互哀鳴するを窓下に見聞して、うたた惨傷(さんしょう)に勝(た)えなんだ》(『十二支考』)
 個体差があるとはいえ、牛だって仲間が殺されるのは悲しいんでしょうね。それを食べる人間は、もっと悲しい存在なのですな。
三河島の屠場
三河島の屠場(1931年)
 
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