誰も指摘しない日本の戦争の原因
「海底ケーブル」と「通信自主権」

KDDI千倉海底線中継所
KDDI千倉海底線中継所(千葉県)
(日本で最初に海底線光ファイバーケーブルが陸揚げされた場所)


 名探偵シャーロック・ホームズの事務所には「海底電信機」なるものがあって、どうも自由に国際電報が送れたみたいなんですよ。実際、『踊る人形』(別訳では『暗号舞踏人の謎』)という短編小説では、ロンドンからニューヨークに「海底電信」を送り、事件を解決しています。

 では、海底電信とはなにか? 文字通り、海底ケーブルを通じた通信システムですが……しかし、コナン・ドイルが『踊る人形』を書いたのは1903年です。元号でいうと明治36年。こんな昔に海底電信なんてあったんでしょうか??

 実は海底ケーブルの歴史は古いんですね。
 世界で初めての実用的な海底ケーブルは1850年、ドーバー海峡(イギリスのドーバーとフランスのカレー)に開設されています。
 その後、大西洋横断ケーブルが1866年に完成しているので、ホームズ先生にとっては、“当たり前” の設備だったわけです。

ドーバー海峡での海底線敷設
ドーバー海峡での海底線敷設


 この世界初の海底ケーブルを敷設したのはウィリアム・トムソン(ケルビン卿)です。まぁ、いわゆる天才科学者の一人で、熱力学第2法則(熱いものは冷める、冷たいものは勝手に熱くならない)を確立した人で、絶対温度で使うケルビンという単位もこの人の名前からつけられました。

 さて海底ケーブルの話ですが。単なる電線と思いつつ、いくつもの技術的な課題があるんです。

 たとえば電線をそのまま海に沈めるわけにはいかないので、なにかで絶縁しなければならない。この材料はどうするのか?
 ケルビン卿のころはグッタペルカ(ガタパーチャ)というマレー原産の植物が使われていました。樹液を煮て得られた赤黒いゴムのような物質は加工もしやすく、電気の絶縁体として最高だったのです。
 1850年、ケルビンは銅線をグッタペルカで包んだものをドーバー海峡に敷設しましたが、これはわずか1日で漁船に引っかけられて断線。翌年、真鍮と鋼線で守ったケーブルを敷設し、英仏間の通信に成功しました。

グッタペルカ
グッタペルカ


 1857年、大西洋電信会社が設立され、アメリカの軍艦アガメムノンとナイアガラによって大西洋横断ケーブルが敷設され始めますが、こちらは難航しました。いちおう1858年には成功するのですが、まもなく断線。その後は南北戦争が起きて計画が中断するなどして、完成したのは1866年のことでした。

 海底ケーブル敷設がどうして難しいかというと、単純に重くて長いからです。

 ケーブルは船や魚による被害防止のため、浅いところほど太く作られます。深いところは細くてかまわないんですが、それでも当時で1マイル(1.6km)あたり1〜1.5トン。浅い海の電線にいたっては1マイル10〜30トンにもなりました。だから軍艦くらい大きくないと敷設できません。

 さらに大きな問題は、電気抵抗のため、距離が長くなればなるほど電流が弱くなるため、非常に高感度の受信機が必要になるのです。
 ケルビン卿はこの受信機を発明したことで、この道の第一人者になれたわけです。
(現在の通信では光ファイバーが主流ですが、これも送受信の半導体が性能を決めています)

サイホンリコーダー
ケルビン卿が発明した高性能受信機・サイホンリコーダー


 さて、ここでようやく本題に入ります。

 日本で電線の架設が始まったのは明治2年(1869)、東京〜横浜間からスタートしました。その後、明治3年に大阪〜神戸、明治6年に東京〜長崎、明治7年に東京〜青森、明治8年には青森〜函館間が開通し、明治維新後10年もたたずに、日本縦断の電信網が完成します。

日本初の電信機
明治3年、神戸大阪間で使用された日本初の電信機
(右が発信機、左が受信機)


 一方、世界の海底ケーブル網はイギリスを中心に拡大を続けていました。そして明治4年(1871)年にはデンマークの大北電信会社が、長崎〜上海、長崎〜ウラジオストック間のケーブルをわが国に陸揚げしています。

 翌1872年、東京〜長崎線の建設に際して、関門海峡1.1kmを結ぶ海底ケーブルが敷設されますが、これが日本政府による最初の敷設です。

 電信は許可制なので、当然のことながら、大北電信は日本政府からの独占認可を得ています。当時は日本に国際海底ケーブルを敷く技術も金もなかったので外資に頼るのはやむを得ないことでしたが、以後、日本はこの独占契約に頭を悩ませ続けることになります。今回はそんなお話。

長崎居留地
明治4年の長崎居留地
(どこかに電線がある?)


 大北電信会社(Great Northern Telecom)は1869年、デンマークに設立されました。
 1871年には北欧からシベリアを経て極東までの長距離電信網を完成させています。極東ではウラジオストックを基点に、長崎、上海、そして香港にいたるルートを確保。

 一方、イギリスの大東電信(現在のケーブル&ワイヤレス)は南洋、アフリカ、ヨーロッパにおける海底電信網を経営し、アメリカの商業太平洋海底電信(コマーシャル・パシフィックケーブル)は米本土から太平洋にかけての電信網を築き上げていました。要はこの3社で世界中を包み込む大計画でした。

 大北電信は明治4年(1871)に日本で業務を開始した時点で独占的な地位にありましたが、明治15年、免許の改訂で対外電信の独占権を正式に確保しました。さらに壱岐、対馬経由で朝鮮ルートも確保。
 すでに中国では大東電信とともに2社による独占権を手にしていたので、この時点で、中国と朝鮮と日本は相互の電信網をすべて外国に依存する状態にありました。

 さて、実はですね、大北電信はデンマーク国籍ですが、実際はロマノフ王朝が大株主でもあり、事実上はロシア系といえるんですね。あれ? 日本とロシアって戦争してますよね?? これって非常にまずいわけですよ。

 日清・日露戦争時、日本は朝鮮との通信回線の増強に乗り出しますが、新線の建設も旧線の譲渡も大北電信が認めなかったため、非常に不利な立場にありました。
 さらに日露戦争の講和における代表団と政府間の通信はすべてロシア側に傍受されていたともいわれます。
 
 問題は傍受だけでなく、巨額の使用料にも及びました。
 日本は回線使用料として、通信料金の3分の1を支払う必要があり、1920年代だけで2500万円も支払っています。
(ちなみに日清戦争で得た賠償金は約3億円)

 このように日本にとって通信の自由の獲得は非常に大きな問題だったわけです。

逓信省
電信の要だった逓信省


 一方、アメリカとの通信回線にも問題がありました。太平洋横断海底ケーブルは明治39年8月1日に直通回線が開通しました。ルートは

 東京→小笠原→グアム→ミッドウェー→ホノルル→サンフランシスコ

 従来は長崎→上海→香港→マニラ→グアム→ミッドウェー→ホノルル→サンフランシスコで、中継地点が大幅に減ったにもかかわらず、料金はほとんど変わりませんでした。これは中継する商業太平洋電信会社の規定によるものでした。

太平洋の海底電線
太平洋の海底電線・開通記念の絵葉書


 さて、最大の懸案事項だった大北電信の件ですが。
 長年の交渉の末、日本は昭和15年(1940)6月1日付けで長崎線の営業権を回収し、昭和18年4月30日をもって大北電信の海底電線業務を全廃させることに成功します。実に70年ぶりの「通信自主権の確立」でした。
 
 太平洋戦争が始まると、日本海軍はホノルル、グアムと攻撃を続け、ミッドウェーで壊滅的な打撃を受けます。どうしてこの地が激戦地として名前が出るのかちょっと理解できるでしょ?

 さらにいうと、海底ケーブルの絶縁体だったグッタペルカ(ガタパーチャ)はマレー原産であり、日本は手に入れることができませんでした。そのため、ケーブルはイギリスのほぼ独占状態。日英同盟がある頃は問題なくても、同盟が終了すると非常に困ったわけです。だからマレーに侵攻したともいえますね。

 そしてもうひとつ。
 海底ケーブルが作れなかった日本は、どこの国より無線電信の開発を熱心に進めます。それが日露戦争の勝利に結びついたのも事実です。

 戦争で維持管理できなかった日本の海底電線網は、敗戦当時で、戦前の約3割まで減少していました。
 もちろん、対日講和条約では海底線の処遇も話し合われました。戦後賠償の一環として大北電信には再び独占権が与えられています(「大北電信会社請求権解決取極」)。この独占権が解消されるのは実に1969年のことでした。
 
 日本の近代は、通信をめぐる戦いだったわけですね。

制作:2009年7月10日

<おまけ>
 
 大北電信が国際電信業務を開始したのは長崎の居留地内にあったベルビューホテルの一室でした。その場所は、現在、長崎全日空ホテルになっていて、敷地内には「国際電信発祥の地」の石碑が立っているそうです。

 ロシア系だった大北電信は、第一次世界大戦後、帝政ロシアが崩壊したことでイギリス資本になったとされています。現在は「GN Store Nord A/S」という名前に改称し、デンマークに本社がある一通信会社になっています。
 商業太平洋会社は戦後まもなく解散し、小笠原とアメリカを結ぶ海底ケーブルはそのまま放置された状態にありました。日米間の海底ケーブルが再び敷設されるのは、1964年のことでした。
千倉ソフトバンクの海底ケーブル陸揚げ基地
千倉にはソフトバンクの海底ケーブル陸揚げ基地もあります
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