技術が制した「日露戦争」

世界最高の無線機
これが世界最高の無線機だ!



 明治38年(1905)5月27日、ロシアのバルチック艦隊発見の報告を受けた戦艦三笠は、大本営に宛てて電文を発信します。これが有名な、
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

ロシアのバルチック艦隊発見の報告
電文の原本

 
 この電文は、当時、世界最高の性能を誇った無線機によって打電されました。それが明治36年に開発された三六式無線電信機です。この電信機は、逓信省の技師・松代松之助が作り上げていた実験機を、海軍技師・木村駿吉が大幅に改良したものです。150km以上の通信が可能だったことで、通信技術に劣ったロシア軍より優位に立つことが可能でした。
 また、無線機の電源は、島津製作所が国産第1号として開発した蓄電池でした。

木村駿吉
木村駿吉


 日本海海戦の勝利は、「敵前回頭」や「T字戦法」など、フォーメーションの勝利とされますが、実は日本の高い技術力が勝利をもたらした側面が強いのです。
 このあたりの話は、当時は有名でしたが、今はあんまり語られることもありません。なんで、ここで当時の日本軍のスーパーハイテク技術をまとめておきます。



 日露戦争で日本が勝利した理由はいくつかありますが、特に大きな理由の1つに、日本海軍が世界最高の火薬を持っていたことがあげられます。
 もちろん火薬自体は昔からありましたが、日本軍の火薬は圧倒的な破壊力でした。まずは破壊されたロシア艦アリヨールの写真を見てくださいな。甲板がほとんど崩れ、焼き尽くされていることがわかります。どれほど破壊力が強いか一目瞭然です。

破壊され尽くしたアリヨールの甲板
破壊され尽くしたアリヨールの甲板


 この火薬の発明者は、日本海軍技士の下瀬雅允(しもせまさちか)です。下瀬は安政6年、広島の鉄砲町で生まれました。この場所は名前の通り、鉄砲を作っていた場所です。
 下瀬は幼い頃は虚弱体質でまともに勉強もできなかったといいますが、それなのに工部大学(現、東大工学部)に3番で合格する俊英でした。

 卒業後、印刷局に勤務し、ここで紙幣用のインクを開発します。このインクにより、精巧な印刷が可能となり、偽札防止に大いに役立ちました。


下瀬雅允
下瀬雅允
 

 その後、下瀬は海軍省の技官となり、ここでパワフルな火薬を発明するのです。
 当時の火薬は乾燥しているとすぐ爆発してしまうため、15〜20%程度の水分を含ませていました。ですがこの調整が非常に難しかったのです。当たり前ですが、水分が多すぎると爆発力は落ちるし、かといって少なすぎると危険だからです。
 明治26年(1893)、下瀬は染料に使われたピクリン酸にワックスを混ぜることで、きわめて安全性の高い火薬をつくり出しました。この火薬は冷やすと固まり、温まると液体となるので、保存も容易になりました。

 もちろん火薬だけでは大きな爆発力は得られません。ですが、伊集院五郎・海軍大将が高品質の伊集院信管を開発。こうして日本軍は明治27〜28年の日露戦争でバルチック艦隊を撃破、大勝利を収めるのです。
 下瀬火薬の製造法は極秘とされ、世界中からおそれられました。海軍では第2次世界大戦でも使っていたほどです。

 ちなみにこの功績で下瀬は海軍省から1200円の賞金を得ました。褒状には「我兵器に一層の鋭利を加へ帝国海軍に裨益(=助け)を与ふる少からざるのみならず其勤労等に大なりとす」とありました。



 火薬も重要でしたが、日本艦隊は船のスピードも世界最高レベルでした。当時、軍艦は石炭と水による水管式汽罐を積んでいましたが、当時最高峰の汽罐を発明したのが、海軍の宮原二郎です。

宮原二郎
宮原二郎

 安政5年生まれの宮原は、海軍兵学寮機関科を優秀な成績で卒業したため、海軍省からイギリスへ派遣されました。宮原はのべ16年もイギリスにいましたが、この間、グラスゴーの造船会社やグリニッチ海軍大学などで研究を重ね、明治29年、ついに独自の機関を発明します。
 明治30年イギリスと日本で特許を取得、明治33年に軍艦「厳島」「松島」に搭載され、実験航海が行われました。結果は石炭も水もはるかに少なくて済み、非常にいい成績を収めました。

旗艦「松島」
日清戦争では旗艦だった「松島」
(左の横穴は敵の30cm砲弾で破壊された穴)


 宮原式の性能は抜群で、

・外国製汽罐が90万円なのに、宮原式は40万円と価格が安く、しかもどの工場でも作れるほど製作が容易
・給水がラクで、掃除もラク。乱暴に扱っても安全
・エネルギー効率が高く、馬力が強い
・小型なので、スペースをとらない
 
 とイギリス人もビックリの高性能。これが日本海軍の高速化をもたらしたのでした。

 このように、「技術立国」日本の萌芽は、すでに100年前から存在していたのです。


制作:2006年3月2日


<おまけ>
 日本初の蓄電池を開発したのは、2代目島津源蔵です。彼は後に蓄電池部門を独立させ、日本電池(現、ジーエス・ユアサ コーポレーション)を設立します。
 現在でも評価の高い日本電池の「GSバッテリー」は、島津源蔵のイニシャルを取ったものでした。

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