知られざる「火薬と鉄砲」の日本史

歌川広重『名所江戸百景』に描かれた両国花火
歌川広重『名所江戸百景』に描かれた両国の花火
(ウィキペディアによる)


 隅田川で初めて花火が打ち上げられたのは、1711年のことでした。1659年に創業した「鍵屋」が、徳川家宣の命令で実現させたのです。
 1732年、江戸では大飢饉とコレラが発生し、多くの死者が出ます。そこで、翌年、徳川吉宗が鎮魂のため水神祭を催し、このとき、20発ほどの花火が打ち上げられました。これが「両国の川開き」の始まりで、後の隅田川花火大会の起源です。

 1808年、鍵屋からのれん分けして「玉屋」が誕生。両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ち、交互に花火を打ち上げました。
 江戸時代の花火は、オレンジの単色でした。当時は黒色火薬しかなく、なかに含まれる木炭が燃えるとオレンジ色を発したからです。
 花火がカラフルになったのは、明治になって炎色剤が伝わってからの話です。

 日本人が最初に火器を見たのは、ご存じ、元寇時の「てつはう」で、1274年のことです。
 そして、鉄砲伝来は1543年。種子島に2人のポルトガル人が漂着、ヨーロッパ式の火縄銃2丁が持ち込まれました。その間270年も、火器がなかったとは考えにくいと思いませんか? 実際のところ、種子島以前から、中国式の銃は日本に来ていました。

『蒙古襲来絵詞』に描かれた「てつはう」
『蒙古襲来絵詞』に描かれた「てつはう」


 林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』によれば、元寇以降で日本人が火器を体験した記録は1409年までさかのぼれます。

●『李朝実録』
 1409年と1419年、日本の使節が対馬で小銅銃による礼砲を見聞した
(小銅銃は明の統一の武器で、1356年、倭寇対策として朝鮮に伝来)

●『蔭凉軒日録』(おんりょうけんにちろく)
 1466年、琉球の使いが幕府に入貢して退出するとき、総門の外で「鉄炮一両声」をはなち、人々を驚かせた

●『碧山日録』(へきざんにちろく)
 1468年、応仁の乱のさなか、和州之匠(わしゅうのしょう)が営中に来て、「発石木」(はっせきぼく)で石を飛ばし、当たったところをことごとく破壊。
 東軍・細川勝元の陣には「串楼(かんろう)・層櫓(そうろ)、飛砲(ひほう)・火槍、戦攻之具」が完全に装備されていた

●『北条五代記』
 小田原の玉滝坊という山伏が、1510年に渡来した鉄砲を堺で見て、これを関東に持ち帰り、屋形氏綱に献上した

●『甲陽軍艦』
 村上義清が上杉謙信に「1510年に渡来した鉄砲を50人に持たせ、1人に3発の玉薬をあてがった…しかし、武田晴信との戦には負けた」と語っている


鉄砲玉薬
鉄砲の玉薬(名古屋城)


 初期の火器のどこまでが鉄砲といえるかは難しいところですが、日本に中国式の鉄砲が渡来したのは1510年(永正7年)だと判断してもいいと思われます。
 ただし、村上義清が語っているとおり、中国式の鉄砲は威力が弱く、やはりヨーロッパ式の鉄砲が伝来して、初めて社会に大きな影響を与えていくのです。

 種子島に伝来した2丁の銃のうち1丁は、和歌山県の根来(ねごろ)に持ち込まれ、根来は鉄砲の一大生産地となりました。伝来の2年後には、堺の商人・橘屋又三郎が早くも鉄砲生産を開始。堺は日本最大の鉄砲産地となり、戦国大名に鉄砲を売りさばき、大きな利益を上げました。
 さらに滋賀県の国友村にも鉄砲の生産地は広がります。

堺の鉄砲製造
堺の鉄砲製造(国会図書館『和泉名所図会』より)


 ちなみに、堺には仁徳天皇陵(大仙古墳)など44基の古墳がありますが、この町には昔から古墳築造のため、鍛冶屋や鋳物師がたくさん住んでいました。
 また、国友村は旧坂田郡であり、ここは昔話に出てくる金太郎(坂田金時)の生まれ故郷との伝説もあります。金太郎のまさかりを作れるような渡来人の技術集団がこの地にいたことがわかります。当時の鉄砲は簡単な構造で、日本の刀鍛冶にとって、製造は容易だったのです。

 問題は、火薬の製造でした。

 日本の火薬は長らく黒色火薬のみでした。これは木炭と硫黄、硝酸カリウム(硝石)の混合物ですが、日本では硝酸カリウムが採れないのです。
 ただし、大貿易港だった堺は硝石の輸入が可能でした。つまり、火薬は堺でしか作れず、これが戦国時代の堺の自治を支えました。

硫黄
硫黄(秋田大学鉱業博物館)


 その後、硝石を「国産化」する技術が広がります。原料は意外なところにありました。トイレです。バクテリアがアンモニアを分解すると、硝酸ができることを利用するのです。

 まず、人糞や厩肥に、ヨモギ、麻、サクなどの雑草を混ぜ合わせ、そこに尿を掛け、何度もかき混ぜる。すると分解が促進され、硝酸塩ができる。これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムに変化。これを灰汁(炭酸カリウム)で煮詰め、結晶化させると硝石となるのです。

 硝石も火薬も、当時は「焔硝(塩硝)」と呼ばれていました。この焔硝製造は、秘中の秘です。
 では、いったい日本のどこで製造されていたのか。

焔硝
焔硝と、和田家の鑑札(製造許可書)


 最も有名なのが、富山県の五箇山(ごかやま)と岐阜県の白川郷です。ともに合掌造り集落として、世界遺産に登録されています。合掌造りの特徴は、大家族制。つまり、大きな家に多くの家族が住み、そこから出る大量の糞尿で、火薬を製造していたのです。

 白川郷は幕府直轄の天領でした。そして、五箇山は加賀藩に含まれます。加賀藩は幕府にも火薬を献上しますが、加賀100万石の力の源泉は、この火薬製造だったわけです。

白川郷
世界遺産・白川郷は火薬製造の町だった


 江戸時代、日本には20万丁とも言われる鉄砲がありました。しかし、平和が長く続き、火薬は花火として浪費されるようになります。

 ところがペリー来航以後、各藩は武装強化を強いられ、全国で硝石製造がさかんになります。大産地は南部藩と加賀藩。幕府は江戸防衛のため東京湾に台場を築きますが、ここに蓄えられた火薬はほぼすべて南部藩の硝石だったといわれます。

 そんな硝石製造ですが、明治になってチリから大量の「チリ硝石」が輸入されると、国産硝石の製造はあっさり壊滅してしまうのです。


 さて、1543年に伝来した鉄砲は、一気に日本に広まります。
 文献上、最初に登場する鉄砲の実戦投入は、伝来から7年後の1550年。細川晴元の鉄砲隊が三好長慶の兵士を射殺したことだとされています。

 1554年には、島津貴久に仕えた伊集院忠朗が大々的に鉄砲を投入。この流れのなかで、1575年、織田信長が、武田勝頼を相手に3000人の鉄砲隊を導入し、圧勝するのです(長篠の合戦)。

火縄銃
遠方を狙うため、銃身が異常に長い火縄銃もありました(名古屋城)


 戦国時代は、言うまでもなく火縄銃が使われていました。火縄についた火が、口薬(起爆剤となる黒色火薬)を燃やし、その火が銃の奥の火薬を一気に燃やすことで弾丸を発射します。これが、「口火を切る」という言葉の語源です。
問題は、火縄銃が雨や湿気にきわめて弱いことでした。

 時代が下ると、雨の中でも使えるよう、火皿にカバーが付くなどの改良が行われましたが、やはり雨に弱いのは変わりません。ところが、1840年頃、日本に新しい起爆剤が入ってきます。「雷汞」(らいこう)という水銀を使った起爆剤で、これにより雨の中でも自由に鉄砲が使えるようになりました。

戊辰戦争
戊辰戦記絵巻

 
 そして、明治になってすぐの1868年、戊辰戦争が起こります。旧幕府軍と明治新政府軍はともに大量の銃器を海外から購入します。一説には70万丁もの銃が輸入されたといわれますが、メーカーや口径がバラバラで、せっかくの銃がまったく使えないこともしばしばでした。
 こうして、明治政府は「兵器の規格統一」という概念を理解するのです。

小筒調練双六
小筒調練双六


 明治政府は、1876年、近代火薬の国産化を目指し、板橋の旧加賀藩邸内に陸軍管理の火薬製造所を建造します。1880年には増産のため、高崎市の岩鼻にも工場を建設。
 一方、海軍は1885年、目黒に火薬工場を作りますが、1893年、日清戦争を前にここは陸軍管理とされます。

火薬製造工場
火薬製造工場(綿を使った火薬の硝化作業)


 下の写真は、八甲田山の雪中行軍をした福島泰蔵の板橋火薬製造所の見学記ですが、「硝石75%、硫黄10%、黒炭15%で混合したものを水車の力で圧縮する」とあります。火薬製造所のそばに大きな川があるのは、こうした理由です。

板橋火薬製造所の見学記
板橋火薬製造所の見学記


 1894年、日清戦争が勃発。
 政府は大量の兵器を輸入しますが、この時点では、まだ日本は外国から大規模に兵器を買う能力がありませんでした。結果として、外国の商社を使うことになります。

 旧横浜居留地には、モリソン商会(イギリス)・イリス商会(ドイツ)、コッキング商会(イギリス)などがありました。

 たとえばコッキング商会は、機械、薬品、カメラなどを輸入し、ハッカや百合根を輸出していました。1884年ごろ、江ノ島の頂上の最高の場所に、植物園(現在のサムエル・コッキング苑)を開園します。
 証拠はありませんが、ここを中心に、アームストロング砲などを闇取引していたと言われます(私家版『江ノ島植物園とサムエル・コッキング』による)。

 日清戦争の影には、死の商人が暗躍していたわけですね。

サムエル・コッキング苑
関東大震災で崩落した江ノ島のサムエル・コッキング苑


 1899年、海軍は技師の下瀬雅允が実用化した「下瀬火薬」の製造工場を滝野川に建造します。この火薬はピクリン酸を成分とする爆薬で、非常に威力が大きく、日露戦争で大きな貢献をします。1905年5月27日の日本海海戦では、この下瀬火薬のおかげでロシアのバルチック艦隊を撃破できたのです。

 1910年、日本では「銃砲火薬類取締法」が作られますが、終戦まで猟銃の所持は自由、拳銃は許可制ですが、街で普通に市販されていました。
 戦争が身近だった戦前の日本人にとって、当たり前ですが、銃も身近な存在だったのです。

日露戦争・日本海海戦
日露戦争・日本海海戦(東城鉦太郎)


制作:2014年11月10日

<おまけ>

 かつて日本最大の鉄砲製造の町だった堺。
 自慢の鉄の加工技術は、「堺打刃物」(さかいうちはもの)という刃物や、自転車の製造につながりました。堺は今も自転車の街として知られています。

 このほか、円筒を作る技術は望遠鏡などの精密加工に、起爆装置である雷管技術は、制御機械に発展しました。硝石は医薬品でもあり、ここから化学系、医学系に発展した技術も多いのです。ちなみに、ネジも鉄砲の銃身の尾栓(びせん)として伝来しています。

 日本の産業の基礎は、鉄砲によって花開いた部分が大きいのですな。

 なお、板橋火薬製造所は、現在、加賀西公園となっており、そこには円盤状のモニュメントが残されています。これは当時の工場で使用していた圧磨機そのものです。
 目黒火薬製造所は、海軍技術研究所を経て、現在は防衛研究所になっています。
 下瀬火薬製造所は、東京外国語大学のキャンパスとなり、現在は公園に。
 岩鼻火薬製造所は、1905年に日本で初めてダイナマイトを製造し、現在は火薬メーカー日本化薬の工場になっています。
堺の自転車製造
堺の自転車製造

<おまけ2>
 福島泰蔵の板橋火薬製造所の見学記をすべて公開しておきます。

福島泰蔵の板橋火薬製造所の見学記
福島泰蔵の板橋火薬製造所の見学記
福島泰蔵の板橋火薬製造所の見学記
福島泰蔵の板橋火薬製造所の見学記
福島泰蔵の板橋火薬製造所の見学記
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