仁徳天皇の大阪改造計画
ヤマト政権と前方後円墳の誕生
大仙陵古墳
一寸法師は、摂津の国「難波の里」の老夫婦が住吉大社に祈願して授かった約3センチの子供です。大人になり、「住吉の浦」から出発して京に上りました(『御伽草子』による)。現在、住吉大社は内陸部にありますが、かつてはここが港だったことがうかがえます。
ここで国土地理院の「1:25,000デジタル標高地形図」を転載しておきます。中央の茶色が上町台地で、その北の端にあるのが大阪城です。まさに大阪のほとんどが水没していたのです。上町台地の左手に小さな湾がありますが、この湾の入口に住吉大社があります。
大阪の標高地形図
ここから海に向かって地面は下がっていくのですが、この様子がはっきりわかる場所があります。下の写真は、住吉大社の境内摂社である大海神社への階段です。高台からかつての砂浜に下りていく様子がはっきりわかります。
大海神社への階段
住吉大社にある種貸社が一寸法師の発祥の地ですが、日本神話では、少彦名命など小さな神が重要な存在となっており、一寸法師も水神との深い関係が伺えます。
種貸社
もう少し大阪の地形について触れておきます。
大阪のことを「難波(なにわ/なんば)」といいますが、この名前はいったいどこから来たのか。
神武天皇が日向より東征して大阪に来たとき、『日本書紀』では《難波之碕に到る》と書かれています。『古事記』では《浪速之渡》となっていますが、いずれも「波が速くて船での移動が難しい」という意味になります。
古墳時代の前期まで、大阪平野には「河内湖」と呼ばれる巨大な湾がありました。上の図、大阪城の右側がすべて河内湖です。淀川はこの湾に流れ込んでいましたが、海への出口が狭かったため、干潮時には潮流がきわめて速くなりました。そして大雨が降れば川は氾濫し、低地の水田や家はすぐに水没しました。
大阪城の北西1kmほどにある大阪天満宮に「神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑」がありますが、「難波之碕」はこのあたりだと思われます。その後、神武天皇は「青雲の白肩津(しらかたのつ)」に行きますが、これは現在の大阪市日下町〜石切町あたりだとされます。つまり、ここまで海が広がっていたのです。
参考までに、石切には大和建国を命じられた饒速日尊を祀った石切劔箭神社があります。
石切劔箭神社
さて、当時の大阪近辺の様子を『古事記』『日本書紀』から転載しておきます。
崇神天皇(第10代)62年、こんな詔勅が出ました。
《農(なりわい)は天下の大本なり。民の恃(たの)みて生く所なり。今し、河内の狭山の埴田(はにた)水少し。是を以ちて、其の国の百姓、農の事に怠る。其れ多に池・溝(うなて)を開(ほ)りて、民の業を寛(ひろ)めよ》(『日本書紀』)
土地が狭く、淡水が少なかったことで、農業がうまくいきません。そのため、崇神天皇は「依網池」「酒折池」といった溜池を作ります。さらに垂仁天皇(第11代)は「血沼池」「狭山池」「高津池」を作ります。このとき、石上神宮に河上部(かわかみべ)という刀剣の製造技術者たちを集めたことも記録されています(『古事記』)。
石上神宮の拝殿(1911年頃)
大阪の地に最初に置かれた都は、応神天皇(第15代)の大隅宮です。さらに仁徳天皇(第16代)は高津宮を設置し、87年間も治めました。仁徳天皇は、治水に努めたことで知られています。
高津宮跡
仁徳11年、天皇は群臣を集めこう語りました。
「この国を見ると、野や沢が広いが、田畑は少ない。川の水は正しく流れず、少しでも長雨になれば、潮が逆流して、村は船に乗ったように浸水し、道路も泥土となる。これをよく見て、水を海に流し、田や家が水に浸らないようにせよ」(『日本書紀』)
こうして、大規模な治水工事が始まります。
高津宮の北部の野原を掘削して、「南の水を西の海(大阪湾)」に流し込みました。この水路は「堀江」と呼ばれます。また、北の川の洪水を防ぐため「茨田堤(まんだのつつみ)」が築かれました。
仁徳12年には、山背の栗隈(くるくま)県に大溝が掘られ、田に水を引き、これによって農民は毎年豊かになりました。
茨田堤(国会図書館『河内名所図会』)
仁徳13年には「和珥(わに)池」を作り、横野堤を築きました。さらに仁徳14年、大溝を感玖(こむく)に掘り、石川(大和川の支流)の水を引いたところ、4カ所の野原が広大な田んぼになり、飢饉が消えました。
このように、仁徳天皇は大河をコントロールすることで、食料の増産や国力の増進に努めたのです。
石川と大和川の合流地点(手前は応神天皇陵)
さて、仁徳天皇は石川の水を引いたとありますが、これは非常に大規模な運河計画だとされています。
『和名類聚抄』によると「感玖(こむく)」は河内国石川郡紺口だとされ、現在の南河内郡河南町あたり。大阪芸大の南のエリアです。ここから石川を大阪湾に流したのです。
現在、石川が流れ込む大和川は東から西へ流れ、大阪湾に抜けます。しかし、当時の大和川は南から北に流れ、淀川に合流して、大阪城の北から大阪湾に流れていました。
つまり、石川の水を引っ張るには、東西方向の運河が新たに必要だったのです。
この運河はいったいどこか。
大歳神社わきの運河
ここで、先の国土地理院の「デジタル標高地形図」を再び見てみます。住吉大社の東南に「依網池」がありました。前述のとおり、「依網池」は崇神天皇が作りましたが、仁徳天皇も作ったことになっているので、おそらく拡張工事が行われたのだと推測されます。
つまり、住吉大社〜依網池〜石川という水路です。
住吉大社は古代から航海の神・港の神として知られていますが、ここは外洋への出口だったわけで、崇められるのも当然の話です。
住吉大社
そして、住吉大社は、住吉造という独自の建築様式で知られています。
実は、住吉大社の本殿とそっくりの埴輪が近年、発掘されています。「導水施設形埴輪」というもので、兵庫県加古川市の行者塚古墳、三重県松阪市の宝塚1号墳、大阪府八尾市の心合寺山(しおんじやま)古墳などで出土しています。これは天皇や豪族による「水の祭祀場」だったという説が有力です。
これらの古墳は、みな5世紀前半の大型前方後円墳。いずれも地域豪族の墓とみられています。
心合寺山古墳の導水施設形埴輪(説明板より)
仁徳天皇陵といえば、誰もが知っている日本最大の前方後円墳です。現在は大仙陵古墳(大山古墳)と呼ばれています。
前方後円墳は、北海道、北東北を除き全国にありますが、大阪周辺の「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」が有名です。大仙陵古墳は百舌鳥古墳群に含まれています。
最古級の前方後円墳は、卑弥呼の墓ともいわれる奈良県の「箸墓古墳」です。これは三輪山の北西一帯にある「纒向遺跡(まきむくいせき)」に含まれていて、3世紀のものです。それが5世紀になって、百舌鳥古墳群と古市古墳群という巨大な前方後円墳につながります。
古市古墳群
いったい、なぜ前方後円墳は巨大化したのか。
これを説明するには、当時の東アジア情勢を理解する必要があります。
396年、高句麗の第19代・好太王は兵を率いて百済を攻撃。百済は降伏して高句麗への服従を誓います。しかし399年、百済は倭と同盟を組みます。倭は半島南部の新羅も攻撃したため、高句麗は新羅を助けるため南下を開始。
朝鮮半島で打ち負かされれば、その先は日本本土への攻撃です。
こうした時代背景のなか、朝鮮半島からさまざまな技術が日本にやってきました。特に、戦争用の鉄具や軍馬の技術が流入したことは大きく、奈良の前方後円墳(3世紀)では祭祀用の遺物が多いのに対し、大阪の前方後円墳(5世紀)からは鉄具や武具が大量出土しています。
衝角付冑型埴輪(いたすけ古墳出土)
5世紀になると、倭の五王らは中国の宋に朝貢し、冊封を受けて高句麗の南進に対抗しましたが、宋は479年に滅亡したため、日本は新羅・唐の連合軍に敗北。高句麗も滅び、アジア情勢は緊迫します。このとき、大陸の騎馬民族が海を渡って倭を征服したという説が、江上波夫の「騎馬民族征服説」です。学界の支持は得てませんが、これなら大阪の前方後円墳から鉄具や馬具が大量に出るのも納得できます。
こうした前方後円墳の最大のものが、仁徳天皇陵です。古墳の最大長840メートル、最大幅654メートル、後円部の高さ35.8メートルになります。
仁徳天皇陵の古墳拝所
先の「デジタル標高地形図」を見ればわかりますが、仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群は、海のそばにあります。これは、朝鮮からの使者を驚かすためだったとされます。使者は、川で奈良に近づくと、今度は古市古墳群を見て、再び驚く仕組みです。
仁徳天皇陵は人工の丘陵(1933年ごろ)
前方後円墳には設計図がありました。たとえば、応神天皇陵と墓山古墳、ニサンザイ古墳と白鳥陵古墳は完全に相似形になっています。これは地方の前方後円墳も同様で、仲津山古墳(大阪)と女狭穂塚古墳(宮崎)も完全な相似形です。これは、大和政権の権力が全国に波及したことを意味します。
ニサンザイ古墳
『日本書記』によれば、仁徳天皇43年、百済でよく見られるという珍しい鳥が献上されました。それは鷹で、このとき初めて鷹匠の技術が生まれました。仁徳天皇はあるエリアで鷹を放ち、数十のキジを獲ったと伝えられます。この場所こそ「百舌鳥野」という場所で、その後、仁徳天皇陵が造られた場所です。巨大な仁徳天皇陵の築造には、一説には20年以上かかったとも伝えられています。
仁徳天皇陵を空撮
●治水工事の歴史
制作:2019年7月9日
<おまけ1>
応神天皇陵がある古市古墳群のそばに「土師ノ里駅」という駅があります。この土師(はし)氏こそ、古墳の造営や葬送・祭祀に関与していた一族です。
卑弥呼の墓ともいわれる「箸(はし)墓古墳」は、もともと「土師(はし)墓」から転訛したという説もあります。しかし、巨大古墳の時代が終わると、必然的に仕事がなくなってしまいます。やむなく、土師氏は「秋篠」「大江」「菅原」などに改名していきました。この「菅原」から出たのが、菅原道真です。応神天皇陵のすぐそばに道明寺天満宮があるのは、そういう理由です。
<おまけ2>
氾濫と洪水で人民を苦しめた大和川の付け替え工事は、788年、和気清麻呂によって工事が始まります。大和川を今の天王寺公園近辺から大阪湾へ流そうとしましたが、完成せず。
江戸時代には、河村瑞賢が大和川の浚渫で洪水を防ごうとしますが、これも失敗。
元禄16年(1703年)、幕府は大和川付け替えを正式決定し、工事は8カ月で終了。こうして大和川は東西に流れる川となり、洪水は格段に減ることになるのです。
大和川築留古図(国会図書館『河内名所図会』)