韓国が米軍に捧げた従軍慰安婦

韓国軍の従軍慰安婦
ニューヨークタイムズに登場した、米兵向け韓国人慰安婦



 2013年5月13日、橋下徹大阪市長は、戦時中の旧日本軍の慰安婦について「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」と述べました。

 この発言に対し、従軍慰安婦に対して特に厳しい韓国から激しい批判が巻き起こりました。
 しかし、実は当の韓国軍にも、朝鮮戦争時代に慰安婦制度(「特殊慰安隊」)があったことがわかっています。

 これは、2002年2月23日、立命館大学で開かれた「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会で明らかになったものです。

 発表したのは韓国・慶南大の金貴玉客員教授です。
 教授は「慰安所を利用した」「軍に拉致されて慰安婦にされかかった」という男女8人の証言を聞き取りし、さらに韓国の陸軍本部が1956年にまとめた公文書『後方戦史(人事編)』に「89人の慰安婦が1952年だけで20万4560回の慰安を行った」という記録を見つけたのです。

 このシンポジウムは朝日新聞の後援だったため、翌日の朝日新聞にも記事が掲載されています。

 金貴玉教授の調査結果は、『軍隊と性暴力−−朝鮮半島の20世紀』(現代史料出版、2010)にまとめられています。そこで、以下、この本の第7章「朝鮮戦争時の韓国軍『慰安婦』制度について」より概要をまとめておきます。

●設置目的
『後方戦史(人事編)』によれば、設置の表向きの目的は以下の3つ。
 (1)軍人たちの士気高揚
 (2)戦争による避けがたい弊害に対する予防措置
 (3)性的抑制に伴う欲求不満や性格変化に対する予防

●設置運営時期
 1951年夏ごろ、戦線が現在の休戦ライン付近で膠着状態に入ってからと思われる。閉鎖されたのは1954年3月。

●設置場所と規模
 ソウルは中区忠武路4街148番地など3カ所。ほかに江陵地区、春川、原州、束草など。
『後方戦史』によれば、「慰安隊」は小隊形式で編成されていた。「当時わが陸軍は士気を振い立たせるため60余名を一個中隊とする慰安部隊を3、4個運営していた」という証言があるので、慰安婦はおよそ180〜240名と考えられる。
 特殊慰安隊は軍内部で「第五種補給品」と呼ばれたことから、軍が積極的に関与していたことがわかる。

●実績統計
 利用はチケット制で、誰でも買えるわけではなかった。
 ソウル第1部隊には19人の慰安婦がおり、1年間で4万4240回おこなわれたことから、1人1日平均6.4回「慰安」を提供した計算。
 一方、部隊に出張して慰安を提供する「出動慰安婦」の場合は、1日20〜30回「慰安」したとみられる。

●衛生検査
 慰安婦は週に2回性病検査を受けるなど、徹底的に対策が施された。これは日本軍の性病対策と同じことから、日本の制度を参考にした可能性が高い。
 
 なお、金教授の聞き取り調査によれば、「ある女性は10代後半の未婚女性で、ある日、韓国軍情報機関員、いわゆる北派工作員たちにより拉致され、一日で韓国軍慰安婦へと転落した」とあることから、強制連行があったことがわかります。


 韓国の慰安婦に関する日本語文献は非常に少ないんですが、『大韓民国の物語』(李榮薫、文藝春秋、2009)にも同じ資料から韓国軍慰安婦のことが記載されています。この本には「春川の昭陽江の川辺にはいくつもの天幕が張られており、兵士たちがずらっと列をなして順番を待っていた」との証言が書かれています。

 同書によると、1959年9月、当時の保健社会省が性病の実態調査を公表したところ、接待婦の15.6%、私娼の11.7%、慰安婦の4.5%、ダンサーの4.4%が羅患していました。このなかの「慰安婦」は米軍の慰安婦を意味しています(「洋パン」または「洋姫」と呼んでいた)。1962年段階で、2万人以上の慰安婦が、6万5000人の米兵相手に性的サービスを提供したそうです。

 米軍相手の韓国人売春婦の証言は、当のアメリカでも報道されています。
 たとえば2009年1月7日付の『ニューヨークタイムズ』は、元売春婦らにインタビューして次のように語らせています。

「韓国政府は米軍相手の大手売春あっせん業者でした。政府はGI相手にできるだけたくさん商売するよう熱心に奨励し、私たちを『ドルを稼ぐ愛国者』として賞賛したのです」

 こうした韓国人の元売春婦グループが、「虐待を受けた」ことから、韓国政府を告発したのです。


 1950年代、韓国では『エレナになった順伊(スニ)』という歌が流行りました。これは洋パンになった農村娘の悲話を歌にしたもので、以下のような詞です(『大韓民国の物語』による)。

 あの日の夜、劇場前で、あの駅前のキャバレーで
 見かけたという噂が聞こえてきた順伊
 石油ランプの下で夜をあかし
 糸巻きしていた順伊が、紅色スカートの順伊が
 名前すらエレナに変わった順伊、順伊
 今晩もパーティーで踊るらしい
 あの色あでやかなドレスに、あの宝石のイヤリングに
 喉をつまらせて港で泣いたという順伊
 お嫁に行く19の夢を見ながら
 歌を唄っていた順伊が、避難民としてやってきた順伊が
 声も変わってしまった順伊、順伊
 今晩もパーティーで笑っているらしい


 戦争と性の悲劇はいつまでも終わらないのですね。

制作:2013年6月16日

<おまけ>

 敗戦後、日本の内務省は、即座に「米兵から良家の子女を守るため」に、特殊慰安施設協会(RAA)を組織しました。要は国家管理の売春機関です。大蔵省の融資を受けて、東京大森に第1号店がオープンしたのが8月27日。朝日新聞などに出た募集広告に応じて、戦争未亡人など千数百人の女性が集まりました。
RAAについて
従軍慰安婦博物館に行ってみた
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