日本最高の社交場
芝・紅葉館に行こう!
東京・芝の紅葉館(明治40年頃)
明治30年(1897)の元旦、読売新聞で尾崎紅葉の『金色夜叉』の連載が始まりました。徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』と並ぶ新小説の代表作ですが、もはやこの話を知らない人も多いと思うので。
超簡単にこの物語を要約すると、許婚の鴫沢宮(しぎさわみや)を資産家の富山唯継(とみやまただつぐ)に奪われた主人公・間貫一(はざまかんいち)が、その恨みから鬼の高利貸しとなる……という未完小説です。
別離の場面
昭和に入ってからも大人気が続いたこの小説のハイライトは、熱海の海岸で貫一とお宮が別れる場面。以下、青空文庫から引用です。
「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処(どこ)でこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後(のち)の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
すがりつくお宮を貫一は足蹴にすると、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹(いつぴき)はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了(しま)ふのだ。学問も何ももう廃(やめ)だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖(くら)つて遣る覚悟だ」
と激高するのでした。
で、話はここから。この足蹴にする場面は、作者・尾崎紅葉の実体験だったとされています。
尾崎紅葉が自分のペンネームに使った芝・紅葉山にあった超高級料亭「紅葉館」。そこの女中「お須磨」と、文人仲間の巌谷小波は恋に落ちますが、お須磨は当時の大出版社・博文館オーナーの大橋新太郎に心変わりしてしまいます。
これに怒ったのが尾崎紅葉で、彼はこの料亭の2階廊下でお須磨を激しく詰問し、足蹴にしたのです。このときの体験が『金色夜叉』につながったわけですな。
そんなわけで、今回はその「紅葉館」に行ってみることにしたよ。
紅葉館は、明治14年(1881年)、芝の紅葉山に開業した純和風の高級サロンです。開業当初は300名限定の会員制(1人10円の出資)だったため、ごく一部の上流階級の人間しか会員になれませんでした。
明治16年には鹿鳴館が開業しますが、こちらは西洋風でダンスが主流だったため、たった7年で消滅してしまいます。その結果、外国人の接待や政財界の集まりでは、しばしばここ芝・紅葉館が使用されることになります。
明治25年以降、一般人も使用できるようになりましたが、それでも敷居は非常に高い場所でした。
入口に「雑輩入るべからず」と書かれていた紅葉館
(『日本名所図絵』より)
ちなみに明治22年に刊行されたガイドブック『日本名所図絵・第3巻』では、紅葉館について次のように説明されています。
《紅葉館は倶楽部にて、数屋の客室(ざしき)壮麗に、園裏に草木花卉を栽(うえ)、庭中遠く富士を視る。また能舞台の設(もうけ)有り、愛媛(べっぴん)常に弦歌を弄し、紳士・紳商此(ここ)に会し、遊宴日々に盛(さかり)なり》
明治30年の『新撰東京名所図絵・第6編(風俗画報別冊)』ではこんな感じ。
《美姫、酌人、給士、舞妓として50余人の美姫を抱置き、客来とあらば花の如く衣飾らせて坐敷に列べ、其服装もわざと御守殿粧(ごしゅでんつくり)にして、縮緬(ちりめん)の小袖に紅葉の裾模様、帯の織出しは白茶地に色紙短冊を乱して、紅葉の秀歌名句を書きたり、絹足袋の摺足、目八分の通い、給仕は三指にて厳かなるこというべからす》
玄関に人力車で横付けすると、豪華絢爛に着飾った十数人の美女が額ずいて出迎えてくれるわけで、これはもう最高のご接待。選ばれた人間以外はこの場所を利用できないという希少性と併せ、人気を集めたのは当然といえますな(後年、予約がないときに1人10銭で内部の見学は可能になりました)。
では一体どんな人がここを使ったのか?
紅葉館に関するほぼ唯一の研究書『料亭 東京芝・紅葉館』によれば、以下のような政治家、軍人、財界人、文化人ら、そうそうたるメンツがここに来ています。
紅葉館でアメリカの貴賓を歓迎する
●明治14年、洋学者の追遠会に福沢諭吉、加藤弘之(東大初代総長)
●明治14年、日本鉄道株式会社(日本初の私鉄)の設立祝宴会
●明治15年、晩餐会に出席したE.Sモ−ス
●明治18年、アメリカ出張送別会の高橋是清
●明治22年、読売新聞創刊15周年祝賀会の尾崎紅葉
(紅葉館設立発起人・子安峻が読売新聞初代社長だった関係で、巌谷小波ら硯友社連中が会員に)
●明治24年、アメリカからの帰国船親睦会の新渡戸稲造
●明治24年、日本初の国語辞典『言海』完成祝賀会の大槻文彦、伊藤博文、勝海舟
(伊藤博文は「もう鹿鳴館の時代ではない」と挨拶)
●明治25年、日本銀行定礎の祝宴に安田善次郎、松方正義
●明治26年、陸奥宗光主催の懇親会に板垣退助、榎本武揚、原敬
●明治30年、博文館10周年
●明治31年、日本美術院創立披露宴に岡倉天心、横山大観
●明治33年、政友会結党で伊藤博文、西園寺公望
●明治36年、陸海軍首脳会談で大山巌大将、伊藤祐亨大将
(紅葉館近くに海軍の水交社があったため、海軍は頻繁に利用)
●明治40年、雨声会の西園寺公望、田山花袋、幸田露伴、島崎藤村、国木田独歩、泉鏡花
●昭和8年、藤田嗣治来日で、東郷青児、正宗白鳥
●昭和9年、野球のベイブルース来日
このように、まさに日本の近現代を目撃してきた紅葉館ですが、残念ながら昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失してしまいました。
その後、4610坪という広大な敷地が日本電波塔株式会社に売却され、昭和33年12月23日、この場所に「東京タワー」が完成したのでした。
制作:2006年10月10日
<おまけ>
紅葉館は庭園も有名で、樹齢数百年の大木に囲まれた閑静な庭だったようです。現在、東京タワーの裏手の芝公園には紅葉谷という渓流と10mの滝がありますが、おそらくは昔の紅葉館の庭もそんな感じだったんでしょう。
なお、誤解ないように書いておきますが、紅葉館では下半身接待はありませんでした。ですが、女中と名士との色恋は巌谷小波以外にもかなり多くあったようです(高田早苗・早大総長の愛人とか。ただし原敬の妻が紅葉館出身というのは間違い)。川上音二郎の勧めで女優になった「お絹」も紅葉館出身だし、女中の質の高さは自ずとわかりますね。