熊本城の復興
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「熊本城」被災の歴史
あるいは日本赤十字社の誕生
焼失前の熊本城(1872年頃)
熊本市内で印刷業を営んでいた水島貫之は、ある真夏の夜半、寝苦しさに耐えられず、煙草に火をつけようとしました。
そのとき、西の方から轟音が響き、家がにわかに揺れはじめます。
明治22年(1889年)7月28日23時45分に起きた熊本地震。
水島は日記にこう書いています。
《家屋造作の大軸(しん)を動揺せしめ、殊(こと)に強く覚えしは天井を四方より揉み崩さんとするがごときの響きは実に凄まじかりき》(『熊本明治震災日記』)
人々は家に戻れず、外にムシロや畳を敷いて、夜が明けるのを待ちました。
当時、町には電気は来ておらず、誰もが行燈やランプ、提灯を持っていたため、市街はまるで火事かと思われるほど明るかったと記録しています。
熊本地震(国会図書館『熊本明治震災日記』より)
公的な記録では、死者20人、負傷者52人、家屋全壊228、地割れ8、堤防決壊45、橋梁壊落22などとなっています。
翌朝、熊本城を見ると、石垣に大きな被害が出ていました。
熊本城は、もともと文明年間(1480年頃)に、出田秀信が千葉城を築いたのが始まり。
その後、加藤清正が築城を開始し、1600年に天守閣が完成しました。いざというとき食べられるよう、畳を芋の茎で作ったり、大量の材木を堀に隠したりと、鉄壁の防禦を誇る城でした。
1632年、細川忠利が熊本城に入り、以後、熊本藩細川家の居城として拡張を続けます。
オリジナル熊本城(西南戦争後に描かれた絵)
維新後の1870年(明治3年)、藩の実権を進歩派が握ると、城主・細川護久から驚くべき提言が新政府に提出されました。熊本城は「無用のぜいたく品」で「戦国時代の余り物」である。藩内に「頭の固い風習」を育てるから、ぜひとも壊してほしいというのです。
焼失前の熊本城(1872年頃)
『太政官日誌38』より、全文を公開しておきましょう。
《熊本藩知事の上表写 臣護久、謹按(きんあん)するに、兵制一変、火器長をもっぱらにせしより、昔時の金城湯池、今すでに
無用の贅物
に属せり、加えて、今日各地の城郭あるは、応仁以来強族割拠、織田氏安土の築きあるに始まり、諸豪相傚(なら)い、務めて塁壁を高くするによる。
すなわち
戦国の余物
也。
今や王化洪流、三治一致の際、乱世の遺址なお方隅(かたすみ)に基峙するは、四海一家の宏謨に障礙あるに近し、熊本城は加藤清正の築く所、宏壮西陲(せいすい)の雄と称す、臣が家祖先以来、よって以て藩屏たり、豈(あ)に甘棠(かんとう)の念なからんや、しかりといえども維新の秋(とき)にあたり、建国の形跡を存し、かえって管内
固陋の民俗
を養い、以て辺土の旧習を一洗すべからず、願わくは天下の大体により、
熊本城を廃堕
し、以て臣民一心の微を致し、かつ以て無用を省き実像を尽さん、伏して乞う、速やかに明断を垂れよ、臣護久、誠惶頓首敬白。
庚午九月五日、熊本藩知事
〔弁官御中〕》
この提案は受理され、まさに壊されようとしたとき、工事は中止され、城の保存が決まります。
熊本県庁
明治4年、廃藩置県で熊本城周辺に県庁が置かれます。
同年、熊本城には鎮西鎮台が設置され、明治8年、二の丸を中心に第6師団(歩兵第13連隊など)が置かれます。
西南戦争で熊本城を攻撃
明治10年(1877年)、西南戦争が起きると、官軍は熊本城への籠城を決定。城の近くに人家があると作戦に支障が出るため、軍は周囲の人々に立ち退くよう指示を出します。お達しが出たのは2月18日。立ち退き期限は翌日で、正午に周辺を焼き払うとのこと。
人々は慌てて立ち退こうとしますが、引っ越しに雇う人力車は料金を2円50銭と設定、値引きは一切拒否します。多くの庶民がお金がなくて移動できないでいると、警官がやってきて、人力車の料金をすべて払ってくれたと報道されています。
《時刻は移るし運ぶに力なく、ほとんど困却の様子なりしが、巡査はこの体を見て貧民の立ち退きかねる者には、ことごとく車代を払い遣りて立ち退かせなどするうち、はや12時にもなれば30分を延し、人民はことごとく東西に退き払いしを見て、城内の櫓を焼き払い、一ケ所を残し、それより安政橋辺にて30軒ばかりと、坪井辺60軒ほどを焼き払いたるよし》(『東京日日新聞』明治10年3月6日)
こうして昼12時半すぎ、熊本城は「宇土櫓」を残して焼失、戦いの過程で熊本の中心部も焼き尽くされました。
焼失した熊本市街(熊本県庁から見た西南部、上野彦馬撮影)
焼失した熊本市街(熊本新町方面、富重利平撮影)
西南戦争では、たくさんの負傷兵が出ました。
これを知った元老院議員の佐野常民は、敵味方を区別することなく救護する組織を作ろうと、政府に「博愛社」の設立を願いでます。
西南戦争での博愛社の活動
そして、許可されたのが明治10年(1877年)5月3日。
博愛社は、熊本洋学校の外国人教師だったリロイ・ジェーンズの住宅に設置されました。これが日本赤十字社の誕生です。
ジェーンズ邸(明治4年に建てられた熊本最古の西洋建築)
熊本は、その後、順調な発展をとげます。
熊本唐人町(1930年頃)
しかし、1945年7月1日から2日にかけて、米軍の爆撃機B29が焼夷弾を投下、市内の約3割が焼失しました。死者469人にのぼる熊本大空襲です。
このとき、熊本県庁舎は焼失。
一方、熊本城には、前述のとおり第6師団がありましたが、空襲でも城は焼け残りました。
そして、1960年、大小天守が再建され、熊本城は観光地として有名になりました。
再建後の熊本城(2003年、左が宇土櫓)
そんな熊本を、2016年4月、大規模な
地震
が襲いました。
熊本城の石垣は大きく崩落し、東十八間櫓(やぐら)と北十八間櫓が倒壊。さらに、日本赤十字社の誕生地であるジェーンズ邸も倒壊。
同時に、熊本県阿蘇市では、阿蘇神社の楼門も拝殿も倒壊。これらすべて、県の重要文化財でした。
阿蘇神社の楼門
制作:2016年4月17日