観光都市「京都」誕生
平安神宮と岡崎公園の桜
明治2年(1869)に東京へ都が移ると、京都は人口が急減し、産業も衰退の一途をたどってしまいました。
そこで、京都復興の手段として考案されたのが、博覧会の開催でした。明治4年(1871)に開かれた日本初の博覧会は好評で、翌年には、「第1回京都博覧会」としてさらに大がかりのものが開催されたのです。当時のビラにはこう書いてありました。
《西洋諸国に博覧会とて、新発明の機械古代の器物等を普(あまね)く諸人に見せ、智識を開かせ、新機器を造り、専売の利を得さしむる良法に倣ひ、一会を張らんと、御庁に奉願、和漢古器を書院に陳列し、広く貴覧に供せんことを思ふ……》(原文カタカナ)
西本願寺で開催された博覧会(明治4年)
入口部分の拡大写真
この後も京都ではしばしば博覧会が開催されますが、特筆すべきは、明治28年(1895)の第4回内国勧業博覧会でした。第1回から第3回まで東京・上野公園で開かれましたが、第4回目にしてようやく京都で開催されることに。
なんで京都で開催したかというと、明治27年は1894年。平安京遷都1100年のお祝いだったからです。その準備で「平安奠都千百年紀年祭趣意書」が作成され、これに基づいて勧業博覧会が誘致されたのです。
第4回内国勧業博覧会
(右が平安神宮、下部は現在の岡崎公園)
博覧会とともに造営されたのが、朱色が美しい平安神宮。だからここの祭神は、平安京を造った桓武天皇なのです。そして、京都三大祭の1つである「時代祭」も、実はこのとき創始されています。
平安神宮大極殿
時代祭
明治26年から始まった工事は、明治28年に無事終了し、大々的なイベントがめでたく開催されました。このときの入場者は約114万人で、空前の成功となりました。
当時、オープニング直前に配られた内部資料には、こんなことが書いてあります。
《市中には電気鉄道の布設あり、七条停車場より直に博覧会場に至るべく、又、伏水にも走るべし。人力車の如きは特に車夫の注意を密にし、田舎の人と雖(いえど)も掛念無からんことを期し、賃銭亦定規ありて漫(みだ)りに多く貪るを得ず。
宿屋の如きも其(その)接待上、懇切を旨とし毫(ごう)も射利のこと無きを期し、特に衛生上の注意至らさる無く、室内の掃除、飲食の調理、其他必要の事項各其当業者に深く注意を諭しあれば、人々些(いささか)の顧慮を要せず》
要は田舎者でも人力車は料金をぼらないように、ホテルも衛生的にして暴利を取らないように、ということです。観光都市としては重要なポイントです。
では、当時の外国人観光客はどうだったのか?
考えてみてほしいのですけど、京都はなんといっても新選組のお膝元。明治時代になっても「尊皇攘夷」の雰囲気は強かったのです。そんな危険な町に、わざわざ外国人が来るはずもありませんでした。
そもそも明治3年には「在留外国人遊歩規定」が出され、居留地から10里以内までしか旅行できませんでした。もちろん例外はありましたが、なかなか京都まで行くことはありません。
それでも徐々に規制は緩和されていき、特に博覧会の期間は規制がゆるんだようです。そんななか、外国人も安心して泊まれるホテルとして、明治23年4月に完成したのが京都ホテルでした。
京都ホテル
さて、前述した博覧会開催直前に配られた内部資料をもう1度見てほしいのですけど、冒頭に出てくる「電気鉄道」というのは、日本初の路面電車です。まさに博覧会のために敷設したのですが、この電気はどこからやってきたのか? 実はこちらも、日本初の水力発電によるものでした(日本初の発電所は正確には足尾銅山)。
右が日本初の路面電車。さて左は何だ?
当たり前の話ですが、遷都で活気のなくなった町が、博覧会だけで復活するわけもありません。それで、当時の北垣国道知事らが京都復興の手段として考えたのが、琵琶湖の水を利用した水力発電でした。
工事を担当したのは田邊朔郎。当時、東京工部大学校(現・東大工学部)を卒業したばかりの23歳でした。
明治18年から始まった第1疏水(大津ー鴨川)の工事は明治23年に完成。翌年には日本初の水力発電所が蹴上に設置されました。この水力発電が、西陣織をはじめ、京都の産業を一気に近代化したのです。
で、上の写真、左部分にあるのが、インクライン。傾斜鉄道と呼ばれるもので、船を貨車に乗っけて移動させるものです。
現役時代のインクライン
さらに時代が下ると、明治45年(1912)に第2疎水が完成、蹴上浄水場から京都市への給水が始まりました。
京都は、まさに近代化とともに、世界に冠たる観光都市となっていったのでした。
というわけで、こちらが2005年の疎水&インクラインです。
南禅寺の水路閣
デザインがすべて異なる疎水のトンネル
朽ち果てた船も、その後、リニューアルされています
●東京初の博覧会
制作:2005年4月17日