イラク・ヨルダン 独立への道
追跡! アラビアのローレンス
ヨルダンの首都・アンマン
現在、バグダッド空港はアメリカ軍の基地になっているため、一般人は空路でイラクに入ることができません。そこで、通常は隣国ヨルダンから陸路で入国することになります。
ヨルダンの首都アンマンからバグダッドまでは高速道路ができており、みんな車をチャーターして危険地帯を突っ走るわけです。ルートがこれしかない以上、イスラム過激派が外国人を襲うのは、とっても簡単なことです。
で、冒頭の写真がアンマンです。手前に見えるのは、市内随一の観光スポットであるローマ劇場。イラクへ行く人間は、まず間違いなくここを見てから入国するはずです。
さて、その昔アンマンはオスマン・トルコ領でした。しかし、なにせ時代は帝国主義。イギリスはトルコを攻撃して、なんとか自分たちの支配地を拡大しようとしました。
そこで登場するのが、トーマス・エドワード・ローレンス、いわゆるアラビアのローレンスですな。アラブ人を支え、対トルコ工作を行い、アラブを独立に導いた英雄です。
(とされていますが、アラブ人側からの評価は必ずしも高くありません)。
ローレンスはアンマン攻撃に際し、遺跡の破壊を真剣に悩んでいます。自伝『知恵の七柱』では、“the puzzle of these ruins added to my care”と「puzzle」という単語を使っており、かなり悩んでいた様子がうかがえます。実はローレンスはもともと考古学者だったので、遺跡の重要性は心の底から認識していたのです。
アンマン攻略は自伝のなかではおまけ扱いで、大きく取り上げられているのは、ヨルダン南部のアカバ港攻撃(1917年)です。アカバは紅海でトルコ側に残された唯一の港で、スエズ運河にもヘジァズ鉄道にも近接している要衝でした。
これがアカバの写真。
紅海に面したアカバ港(対岸はイスラエル)
貧乏国家ヨルダンへの嫌がらせとしか思えない夜景に注目!
アカバ攻略に対し、フランスのブレモン大佐が共闘を申し出ます。以下、自伝よりお互いの本音部分について書かれた部分を引用しときます。
《ブレモンは、彼の真意をいわなかった。だが私は知っていた。アカバへ連合軍を上陸させたがっているのは、フランスのアラビア侵入への基礎をきずくと同時に、英仏連合軍をひきいれた大シェリフにたいする疑惑をアラブ人のあいだに生ぜしめ、彼らの結束の永続をさまたげるという目的があるからなのだ。
私のほうでも自分の本心をいいはしなかったが、ブレモンのほうで、ちゃんと知っていたはずだ。私が彼の計画を粉砕して、アラブ軍を(トルコ領の)ダマスクスまでおし進める決心でいることを。
私はふと、子供じみた競争意識がかかる大問題をおたがいにこじらせていることに思いおよんで、心中苦笑を禁じえなかった》(『砂漠の反乱』中公文庫)
さて、イギリスの工作は現在のイラク側でも行われました。その代表が南部の要衝バスラ港の攻略です。1914年、第一次世界大戦が始まってすぐのことです。イギリスはあっという間にバスラを手中に収め、ペルシャ湾の出口を押さえることに成功しました。
バスラ上陸の写真(この作戦にはローレンスは不参加)
こうしたさまざまな策略の末、イギリスはイラクとヨルダンを委任統治領にすることに成功しました。
イギリスはハシム家(イスラム教の創始者ムハンマドの直系とされる名家)の太守フセインの次男アブドラにヨルダンを、三男ファイサルにイラクを統治させます。ファイサルは、ローレンスが「アラブの反乱に栄光をもたらす完全な指導者」と絶賛した人物でした。
ローレンスはその後、植民地省のアラブ問題顧問になりますが、政府の帝国主義政策に疑問を感じ、辞任します。
本人は、たしかにアラブの真の独立を夢見ていたのかも知れません。しかし、結局のところ、ローレンスは政府に利用され、帝国主義の推進に一役買っただけでした。アラブ世界でいまいち評価が低いのは、当然といえば当然な話です。
ローレンスは、ヨルダン南部にあるワディ・ラムの夕日が大好きでした。ワディとは「枯れ谷」のことで、赤いごつごつとした岩山がどこまでも続いています。
ワディ・ラム
再び自伝によれば、
《この偉大な山容を前にして、われわれは粛然として立ちつくし、微小きわまる自身をかえりみて、恐ろしいような、恥ずかしいような気持ちになったものである》
政治に翻弄された自身の気持ちは、ある部分ではこんな気分でもあったことでしょう。
その後、イラクは1932年に独立を果たしますが、事実上、イギリスの実効支配は続きました。一方のヨルダンは1946年になって、ようやく独立を果たします。ローレンスは1935年に事故死しているので、アラブの真の独立を見ることはかないませんでした。
制作:2004年4月12日
●日本人が初めて見たイラクは
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●日本が建造したイラク慰霊碑は
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