リンドバーグの見た世界
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翼にかけた夢
リンドバーグの風景
《上空から見る下界は、人間の目にはあまりにも美しく、あまりにもすばらしく、あまりにも遠いように見え、たとえるならば、死に臨んで橋をかける人生の終わりの幻想のようでもある》(『翼よ、あれがパリの灯だ』より)
1927年5月20日、ルーズベルト飛行場にて(出発直前)
1927年(昭和2年)5月21日、アメリカのチャールズ・リンドバーグが「スピリット・オブ・セントルイス」号で、
ニューヨーク
—パリ間5809キロの大西洋単独無着陸横断飛行に成功しました。
空から見たニューヨーク(1927年)
所要時間33時間30分。携行した食料はサンドイッチ5個と水1リットルのみで、睡魔と冷気と戦いながらの飛行でした。
最初に見えた陸地はアイルランドのディングル近辺で、そこからプリマス〜シェルブールのルートで英仏海峡を経てパリへ。
空から見た英仏海峡(イギリス側・1923年)
着陸したパリ近郊のル・ブールジェ空港は、英雄をひと目見ようとする10万人の群衆であふれ大混乱。だから、リンドバーグの最初の言葉は「誰か英語を話せる人いませんか?」でした。
ちなみに『翼よ、あれがパリの灯だ』には、
《パリ! パリの夜! パリの今宵ーーまるでおとぎ話のようだ》
とあります。
パリ(1923年)
さて、リンドバーグがニューヨークに凱旋すると、これまた大狂乱のきわみで、400万人が集まった凱旋パレードでは、なんと1800トンもの紙吹雪が舞ったといいます。第1次世界大戦の凱旋パレードの紙吹雪が155トン、アメリカ人初の宇宙飛行士ジョン・グレンのパレードで1000トンなので、1800トンという記録は、まさに史上最高です。
これが1800トンの紙吹雪だ!
実はこの「ニューヨークーパリ無着陸初飛行」には、ニューヨークのホテルオーナー・レイモンド・オーティグが2万5000ドル(現在の価値で2億円)の賞金をかけていて、それまで一介の郵便飛行士だったリンドバーグは、一躍大金持ちになったのです。
で、2年後にメキシコ駐在大使の娘アン・モローと結婚しますが、その3年後(1932年)には2歳前の愛児が誘拐され、殺害されるという悲劇に見舞われます。
第2次世界大戦が始まると、軍顧問として日本軍とも戦いました。日本兵から金歯を抜いたり、記念に骨を持ち帰るアメリカ兵に対し、嫌悪感を持ったリンドバーグは、当時の日記にこう書いてます。
《われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが、太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う》
誘拐のせいか極度の人間嫌いになり、ハワイのマウイ島で自然と生きることを目指したリンドバーグ。彼は、1970年、2度目の来日で(1度目は1931年)こんな発言をし、人々を驚かせるのでした。
《日本は2大捕鯨国の1つ。鯨の専門家もそろっている。今後、捕鯨船団に国際組織の看視人を置いて、捕獲量を確かめねば……》
(朝日新聞1970年4月28日)
まさに日本の捕鯨バッシングの先駆けでした。
恐るべしリンドバーグ、ですな。
Charles Augustus Lindbergh 1902-1974
制作:2003年8月3日
※念のため書いておきますが、大西洋無着陸飛行はリンドバーグが世界初ではありません。リンドバーグは「単独世界初」であって、チームでは1919年2月にアルコックとブラウンによって成し遂げられています。でも、こちらは全然話題にもなってませんね。なんというか、物事にはタイミングとかって重要なんですよね。