「媽祖」が守る海上安全
東シナ海を制覇した航海の女神

マカオの媽閣廟
マカオの媽閣廟


 ポルトガル人が初めて「澳門」に来航したとき、「ここは何という場所だ?」と地元民に聞きました。ちょうど目の前には、15世紀に作られた媽閣廟という寺院があり、地元民はこの寺の名前かと勘違いし、広東語でMa Kwoと答えました。こうして、この地はポルトガル人によって「マカオ」と名付けられたとされます。

マカオの媽閣廟
マカオの媽閣廟内部


 媽閣廟は、おそらくマカオでいちばん有名な観光地ですが、ここには媽祖(まそ)、阿媽(あま)、天后、天妃、天上聖母など複数の名前で呼ばれる道教の女神が祀られています。

 この女神は、数は少ないですが、日本でも祀られています。沖縄県、長崎県、茨城県など。茨城は、水戸光圀の知り合いである東皐心越が伝えたとされます。また、青森県下北半島の大間には水戸藩から遷座された媽祖が祀られています。東京や横浜にも巨大な廟がありますが、こちらは2000年代に入ってから作られた観光用です。

原爆で焼失した長崎の福済寺
原爆で焼失した長崎の媽祖廟(福済寺、1930年頃)


 媽祖は日本ではマイナーですが、東シナ海一帯では超有名な女神です。実は、マカオ以外に、もうひとつ、媽祖の名前が地名になった場所があります。それが、中国・福建省沖の馬祖島(ばそとう)です。

 媽祖は、960年、福建省の地方長官・林家の6番目の娘として福建省沖の湄州(びしゅう)島に生まれました。生まれたとき、一筋の光が西北の空から差し込み、あたりにはいい香りが漂ったといわれています。

 媽祖は生まれて数カ月経っても泣かないので、「黙娘」と名づけられました。その賢さは有名で、8歳ですらすらと本を読み、13歳で師匠の玄通道士から「玄微秘法」を授かり、あらゆる書物の内容を理解するようになりました。16歳で井戸から護符を取り出し、雲に乗って空を飛ぶように。家で機織りをしているとき、父が海で溺れそうになっていることに気づき、これを救助したこともあります。
 そして、28歳で島にある山から、白昼、芳香漂うなか昇天しました。987年のことです。
 ただし、海で遭難死(入水自殺?)したとも伝えられ、遺体が流れ着いた南竿島には、その遺体を納めたという石棺が残っています。こうして、周囲の諸島をまとめて「馬祖島」と命名されました。

馬祖島の馬祖天后宮
馬祖島の馬祖天后宮(1930年頃)


 この神通力を持った女性が神格化され、東アジア一帯に航海安全の神として広まっていきました。明代の大航海家、鄭和もこの石棺を参拝しています。媽祖は、ときには戦争の神ともされましたが、現在では万能神として多くの人の信仰を集めています。一説によると、全世界に5000の廟があり、世界22カ国に2億人の信者がいるといいます。特に台湾では信仰が篤く、800とも2000ともいわれる廟があり、1400万人の信者がいるそうです。

 では、いったいなぜ媽祖信仰はここまで広がったのか。
 この信仰を広めたのは、実は海賊でした。

 たとえば、台湾を占拠して「反清復明(清を倒し明を復活させる)」を狙った鄭成功(国姓爺)の父親は、鄭芝龍という人物です。鄭芝龍は長崎県平戸市に住んでいた貿易商ですが、海賊の側面も強かったのです。平戸にある媽祖像は、鄭芝龍によって持ち込まれた可能性が高く(『平戸史談』第6号)、さらに各地に媽祖廟を広めたとされます。

長崎の崇福寺
1930年頃の長崎の媽祖廟(崇福寺、現存)


 また、香港では超有名な海賊・張保仔もいます。鄭一という海賊に拉致され、その後、跡目を継いだ人物で、200隻で数万人の大規模船団を組んだことで知られます。張保仔は信心深く、各地に媽祖廟を建立しました。

 媽祖の伝統は根強く、多くの伝説が現在まで伝わっています。
 清朝の時代、暴風雨で漁民が遭難しかけたところ、前述した石棺から火の玉が出現し、漁民を導いて無事帰還させました。
 1963年には、石棺をタイルで覆ったところ、翌日、石棺上のタイルだけ壊れていました。2001年には、石棺を掘りだそうとしたところ、ドリルが折れたりしました。いずれのケースも、島民が占術で媽祖にたずねると、「触れてはならぬ」とのお告げがあったといいます(「読売新聞」2013年1月11日)。


 海上の安全を守る女神となった媽祖は、たいていの場合、遠くを眺める「千里眼」と耳に手を当てた「順風耳」を従えています。千里眼は、どんな遠くの出来事も見通すことができ、順風耳は、どんな遠くの小さな声も聞くことができます。この2匹の鬼神がレーダーとなって、海の安全を守るのです。

 清時代に建てられた台北最古の寺・龍山寺にも媽祖が祀られています。その手前には、緑と赤のコンビである「千里眼」と「順風耳」がいます。

龍山寺
龍山寺

龍山寺の媽祖
龍山寺の媽祖


 かつて台北にあった最大の媽祖廟「天后宮」は、日本統治時代の1908年、台湾総督府により潰され、台湾博物館となっています。そのため、台湾では、媽祖の総本山は北港の朝天宮(雲林県)、新港の奉天宮(嘉義県)、台南の大天后宮などとされます。

台南の大天后宮
台南の大天后宮(1930年頃)


 そして、媽祖の誕生日前後には、各地の媽祖像が大廟に里帰りし、再び戻っていく大行列のお祭りが開かれます。往復で数百キロを1週間ほどかけて練り歩くのです。

台北と北港を結ぶ媽祖行列
台北と北港を結ぶ行列(1930年頃)


 ちなみに、この媽祖行列は、日本の長崎でも「菩薩(ぼさ)乗せ」という名前で行われています。「菩薩揚げ」で唐人屋敷の天后堂を旅立った媽祖像を、「菩薩乗せ」で唐人屋敷まで戻すのです。

 なぜ日本では、媽祖のことを菩薩と呼んだのか。
 これは、なぜ日本では媽祖信仰が広がらなかったのか、と同じ質問と言えます。

 海に囲まれた日本では、古くから海上安全を願う伝統がありました。最古の記録は『魏志倭人伝』に登場する「持衰(じさい)」です。

《其の行来・渡海、中国に詣るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、きしつ(虫)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食さず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰と為す。若(も)し行く者吉善(きちぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧(こ)し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す》

 つまり、ボサボサ髪でアカだらけの男を一人乗せ、肉と女を与えずに航海し、無事目的地につければ財物を与え、事故が起きれば、その人間を人身御供として殺したのです。

 神社でいえば、住吉神社(福岡市)や金刀比羅宮(香川県)など有力な船の守護神がいて、たいていの船内には神棚があります。そして、安全を祈願する船絵馬も膨大な数が作られました。

青函連絡船に祀られた金刀比羅さま
青函連絡船「摩周丸」に祀られた金刀比羅さま


 さらに船玉(船霊)信仰があり、女の髪の毛、男女一対の人形、銭12文、サイコロ2個、五穀などをご神体として、船柱の下部などに安置しました。
 船霊は女神で、西洋のフィギュアヘッド(船首像)と呼ばれる女神像と同じ意味合いを持ちます。こうした信仰があったため、日本では媽祖は普及しなかったのです。

船首像
フィギュアヘッド(船の科学館)


 船玉信仰をもう少し説明しておきます。
『和漢船用集』という船の百科全書のような書物があるのですが、ここには聖徳太子が描いたという「船観音」の絵が掲載されています。以下、その説明文。

《船玉神は、釈迦如来とも大日如来とも深位如来ともいう。諸神諸仏は船に坐す。
 艫(へ=船首)には観世音菩薩、舳(とも=船尾)には大日覚者、笭(とこ=床)は不動明王、檣(ほばしら)は胎蔵界、柁(かち=舵)は文殊菩薩、六本立(船尾寄りの高くなった部分)は六地蔵をかたどる。
 帆は神の御旗ともいい、マンダラで表す。いずれも、その徳を比したものだ。
 一説には、船玉神は、正観音ともいう。聖徳太子が描いた舟乗観音は如意輪観音である》(「船玉神之事」を意訳)

 要は、船のすべての部分が神仏だと見なされているのです。これが、媽祖信仰が広まらず、同時に媽祖が菩薩扱いされた理由です。

聖徳太子「船観音」
聖徳太子が描いたという「船観音」(『和漢船用集』)


 もうひとつ有名な航海安全マニュアルに『廻船安乗録』があり、ここには船には12神いて、その10番目が天照大神だとされています。
 媽祖が天照大神と習合し、その女神を祀ったのが、日本統治時代の台湾に生まれた新興宗教「天母教」です。中治稔郎が1925年に創立し、台湾の民間宗教を取り込んで広まりました。

 御神体の媽祖像は、台北北部の天母神社に安置されました。台北近郊には北投温泉という有名な温泉があり、天母神社はそこから5kmほどしか離れていません。そこで、天母教は、温泉と高級住宅地を同時に開発したのです。
 戦後、この天母一帯はすべて国民党に接収され、現在も名うての高級住宅街として知られています。

北投温泉
北投温泉

 また、馬祖島は、1949年の中国-台湾の分裂後、天然の要塞として整備され、長らく最重要の軍事拠点となっていました。台湾は李登輝時代の1992年に同島の戦時体制を解除し、現在は観光地化が進んでいます。平和の象徴として、2009年に高さ30mの巨大な媽祖像が立てられました。


制作:2017年6月9日


<おまけ>
 台湾は九州よりやや小さい程度なので、軍港は、北部の基隆、南部の左営、高雄、そして東部の蘇澳くらいしかありません。台湾の東側は断崖絶壁が続くので、巨大な港を作ることができず、昔から蘇澳は重要な港でした。ここには、海軍媽祖と呼ばれる廟があり、媽祖が軍神だったことがわかります。

 ちなみに、蘇澳には西郷隆盛がスパイとして訪れ、この地で子供を作ったとの伝説が残されています。元ネタは作家の入江暁風が1935年に書いた「西郷南洲翁、基隆、蘇澳を偵察し『寛永四年南方澳に子孫を遺せし物語』」という長いタイトルの本。西郷隆盛は、1851年、薩摩藩主・島津斉彬の密命で台湾の偵察に来たというのですが……。

 蘇澳には大きな媽祖廟が複数あり、もしこの話が本当なら、当然、西郷隆盛も媽祖廟を見たはずです。そして、西郷の滞在から20年以上経った1874年、明治政府は台湾に出兵するのでした。
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