美人投票125年史
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「美人コンテスト」の歴史
あるいはグラビアアイドルの誕生
産経新聞が主催した「ミス・ユニバース」
1900年(明治43年)6月4日、『万朝報』という新聞の「はなしのたね」欄に、秋田に住む金魚マニアの話が掲載されました。この人物が、飼っている7匹の金魚にこんな名前を付けたというのです。赤いのが「栄龍」、緋と白が交じっているのが「小桃」、緋に黒い斑のあるのが「老松」、白に緋の斑が「和子」、尾の長いのが「さよ子」、白黒赤の交りが「おえん」、全体が白くて腹にちょっと緋の斑のあるのが「小初」。
小初(国会図書館『日本名妓花く良』第1集より)
この不思議な名前がどこから来たのかというと、当時、話題を集めていた新橋の芸者7人組の源氏名です。
7人は、当代一の芸者として、お大尽の後援で生まれたグループで、着物や帯、傘から財布まで揃え、注目を集めていたのです。
現在、アイドルグループの人気娘を「神7」などと言いますが、その始まりは、この「新橋七人組」でした。
なかでも一番人気は、この年、正月にお披露目されたばかりの栄龍(14)です。本名は伊藤りの。明治29年、名古屋で生まれました。
栄龍は、三越呉服店のモデルとなり、多くのポスターや広告に登場しました。明治44年には『日曜画報』が選んだ「全国新百美人」にも選ばれています。
栄龍だと思われる三越のポスター
この「全国新百美人」に大阪から選ばれたのが、富田屋八千代。大阪では富士山と並ぶ美しさと言われ、絵葉書(ブロマイド)界のスターとして、また化粧品の広告などで活躍しました。ちなみに、1915年、アメリカから帰国した野口英世の宴席についたのが八千代で、野口英世が母シカの世話を熱心にするのを見て、感涙。この話が新聞に載って芝居にもなりました。
富田屋八千代
「西の富田屋八千代」と対比されるのが、「東のぽん太」です。斎藤茂吉は、
《ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃く影(うつ)っているのもあった。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった》(『三筋町界隈』)
と絶賛しています。ぽん太はその後、豪商の息子でカメラマンの鹿島清兵衛に身請けされました。
ぽん太
いい悪いは別にして、昔から女性は「美人かどうか」で判断されてきました。
たとえば『栄花物語』では、賀茂祭で行列する童女を、藤原道長が「どこに仕える者か」と呼び止め、美人だと目を細め、そうでないと笑い物にするという描写があります(第8巻「はつはな」)。
いい女を愛でるという文化は、近代になって、美人コンテストに発展していきます。
●1891年の美人投票
では、日本初の美人コンテントはいったいいつ開催されたのか。
昔から『吉原細見』などの風俗嬢ガイドがあり、おそらく美人投票のようなものも昔からあったはずですが、正式なコンテストは、1891年(明治24年)の浅草でおこなわれました。
当時、浅草には地上12階建て(高さ52m)の
凌雲閣
というタワーがありました。日本初の電動式エレベーターが導入されたものの、機械の不調で使用禁止に。階段の途中には「世界の文化」を紹介する店などが並んでいましたが、閑古鳥が鳴く始末です。
凌雲閣百美人の「あづま」(wikimediaより)
そこで、次なるイベントとして美人コンテスト「凌雲閣百美人」が企画されます。4階から7階に芸者100人の写真が飾られ、投票で日本一を決めました。入場すれば投票できたわけで、まさに現在のAKB48の総選挙にそっくりです。
コンテストの上位5人は、以下の通り。
・新橋 あづま(本名・中岡せい)17歳
・新橋 小と代(本名・辻とよ)19歳
・新橋 桃太郎(本名・谷はな)19歳
・新橋 玉菊(本名・川口しよふ)17歳
・柳橋 小つる(本名・藤井りき)28歳
このうち玉菊は、すぐに1500円で官僚に身請けされ、世の男たちを悔しがらせたと記録されています。
玉菊(wikimediaより)
なお、このとき飾られた写真は、平等を期すため、同じ背景で撮影されていました。その写真を見た竹下夢二は、
《当時の女性にはどこかしら白菊の閑雅と清艶が見られる。頭は多く水髪で、前髪を細くとって、鬢(びん=頭の横)も髱(たぼ=頭の後ろ)も、きりっと引きつめて、銀の簪(かんざし)を前の方へさしている。襟はゆるやかに帯の近くまで開けた着物も、肩から縞目の曲がらぬ滝のようにふわりと着、さて、帯はたがいちがいに腰の上できりきりと締めつけ、当今のように箱枕のような帯揚げはつけず、しゃんと結んで、たれは流してははねて、矢でも鉄砲でも来いという意気を見せ、むりにかき合わせずに、素直に流した裾さばき、手袋を用いない爪外れの美しさ》(『日本一』1921年1月号)
と評価しています。
洗い髪のお妻
ちなみに、このとき、髪を洗ったままの姿で登場した「洗髪のお妻」がコンテストに参加しています。お妻の証言は以下の通り。
《家を出るときにはまだ干(ひ)ぬ濡羽髪(ぬれはがみ)も途(みち)で渇き切って、サバサバ、後ろに吹き散らして行きました。
私の気のみがもう十二階へ行ってるわ、ようようの事で間に合いまして、前髪処(どこ)の2、3本の長い毛を剪(き)って形をととのえて、散(ちら)しで撮影(うつ)してしまいましたが、100人の美人が掲げられたところを見ると、みんながみんな、大(おお)コテの厚化粧、仲の町の手古舞姿もある。
新橋連中はグット高尚に構えて、たいていは小紋という扮装(いでたち)でしょう。
そのなかにはさまって私一人がその洗髪姿ですもの、お金をかけての高点は取れませんでしたが、少しは縹緻(きりょう)が落ちたって眼に立つはずでしょう。
それからというものは洗い髪のお妻お妻と人様にいわれた》(己黒子『洗髪のお妻』1910年、現代表記に修正)
●1908年のミスコン
1907年(明治40年)秋、アメリカの新聞社シカゴ・トリビューンが世界一の美人を決めようとイベントを企画、日本の時事新報社が協力を打診されます。大阪時事など全国22の地方新聞社が協力し、日本初の全国ミスコンが開催されました。
1908年、高村光雲、中村芝翫(しかん)らが審査員となって、7000人のなかから日本一の美女が発表されます。
1等 末弘ヒロ子(16歳)
2等 金田ケン子(19歳)
3等 土屋ノブ子(19歳)
本サイトが所有している『日本美人帖』から、末弘ヒロ子の写真を公開しておきましょう。
ともに末弘ヒロ子
ところで、末弘ヒロ子は当時、学習院中等科の生徒で、院長だった乃木希典は「はしたない」と激怒、結局、退学の憂き目に遭います。
ただし、さすがに気の毒に思ったのか、乃木院長はヒロ子に結婚相手を斡旋し、自ら仲人になりました。お相手は野津道貫(陸軍元帥)の息子、野津鎮之助。
ちなみに、ヒロ子の孫娘が後に滋賀県の正田家に嫁いでいます。その義姉が正田美智子さん、つまり現皇后なのです(井上章一『美人コンテスト百年史』による)。
●1950年のミス日本
『美人コンテスト百年史』によれば、戦後初めて「ミス日本」の肩書が使われたのは1947年(昭和22年)7月。全国キャバレー連絡協議会が後楽園球場にホステスやダンサーなどを集めて開催されました。同年8月、鎌倉カーニバルが復活して、「ミス・カーニバル」誕生。
地域の美人「ミス・カーニバル」誕生
1950年3月23日、読売新聞に「ミス・日本を選定 アメリカへ派遣」という社告が掲載されました。応募資格は「高女または新制女子高校卒業以上の未婚者、身長5尺(約152cm)から5尺4寸(約164cm)まで、年齢満26歳まで」。
目的は、かつての交戦国アメリカを表敬訪問する日米親善使節を選ぶことでした。
アメリカは、1946年から民間の援助品「ララ物資」を日本に送っていました。「ララ」とは送り手のアジア救済公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia)の頭文字をとったもの。ほとんどが食料品で、脱脂粉乳、小麦、牛、缶詰、さらに洋服や医薬品、文房具までありました。
このお礼をするため、ミス・日本を選定し、日米親善使節とする計画です。
コンテストは12大都市の市役所が窓口になって各都市のミスを選出。1950年4月22日、12人の代表が東京の目黒雅叙園に集まって、ミス日本が決定しました。
審査員は、小説家の久米正雄、美人画の伊東深水、松竹創立者の大谷竹次郎など。こうして、第1回ミス日本に選ばれたのが女優の山本富士子です。
『時事世界』の表紙を飾ったミス日本
(左から田村淑子、山本富士子、三村恵子)
1951年6月、山本富士子(当時19歳)と準ミスの2人は、吉田茂首相への挨拶を終えてから渡米。シアトル、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィア、ミネアポリスなど全米を2カ月かけて回りました。
一行はヤンキースのジョー・ディマジオ選手、ルーズベルト大統領夫人、湯川秀樹などへ挨拶を重ねますが、非常に多忙だったと山本富士子が証言しています。
《2か月間の旅行中、外に出る時は和服でした。各地の訪問では、必ず州知事と市長にお会いして、地 元の新聞社やテレビ局も回る。ホテルに帰ると、足袋と半襟の洗濯、アイロン掛けが日課です。
サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを渡るのを私たちは楽しみにしていたのですが、疲れ果てて3人とも車の中で眠ってしまって。目が覚めたら渡り終わっていました。
一度だけ、「デパートで買い物をしてもいい」と言われました。お化粧の小箱のようなものがあって、「あっ、すてき」と思ったのですが、ふっと裏返したら「メイド・イン・ジャパン」。日本の品がもう来ているんだと驚き、誇らしく思ったものでした》(読売新聞2002年1月9日より省略引用)
アメリカ独立記念日の7月4日、一行はフィラデルフィアのララ救済物資本部を訪れます。山本は、州知事に1枚の色紙を手渡しました。色紙には、香淳皇后(昭和天皇の妻)が詠んだ、ララ物資への感謝の歌が書かれていました。
「ララの品(しな) つまれたる見て 外国(とつくに)の あつき心に涙こぼしつ」
●1953年と1959年のミス・ユニバース
対日講和条約が発効(=日本が独立)する直前の1952年3月29日、産経新聞に「ミス・ユニバース日本代表募集」という社告が掲載されました。「ミス・ユニバース」は前年、カリフォルニア州で始まりました。そこで、第2回に日本人も参加することになったのです。
このとき、当時21歳だった日本代表・伊東絹子が3位になりました。「キヌコ・イトー、ジャパン!」と発表された瞬間、客席にいた日系人たちが一斉にバンザイと叫んだと言われています。伊東絹子は、「八頭身美人」としてもてはやされました。
それから6年後の1959年7月24日、やはりミス・ユニバース世界大会で、日本代表の児島明子(当時22歳)が「世界一の美女」になりました。児島は1953年の日本大会で伊東絹子に次ぐ第2位で、その雪辱を果たした形になりました。児島は後に、俳優・宝田明と結婚しています。
1953年のミス・ユニバース
(『時事世界』1953年8月号より。左から児島明子、伊東絹子、脇川あき)
前述のとおり、戦後初のミスコンがおこなわれたのは1947年。このときは敗戦直後だけに、衣料配給制が実施されるなど、まだまだおしゃれする時代ではありませんでした。そして、1952年、和江商事(のちのワコール)が日本で初めての下着ショウを大阪・阪急百貨店で開催。日本女性がようやくおしゃれに目覚め、同時に、日本が高度成長に入った頃、世界に通じる「日本美人」が誕生したのです。
制作:2016年7月10日
<おまけ>
明治時代に人気を博した新橋芸者「ぽん太」は、鹿島清兵衛の妻となり、遊び人の夫を献身的に支えます。森鷗外は夫婦をモデルに小説『百物語』を書きました。
《この男の傍(そば)には、少し背後(うしろ)へ下がって、一人の女が附き添っている。
これも支度が極(ごく)地味な好みで、その頃流行はやった紋織お召の単物も、帯も、帯止も、ひたすら目立たないようにと心掛けているらしく、薄い鼠が根調をなしていて、二十(はたち)になるかならぬ女の装飾としては、殆(ほとんど)異様に思われる程である。中肉中背で、可哀らしい円顔をしている。銀杏返(いちょうがえ)しに結って、体中で外にない赤い色をしている六分珠(ろくぶだま)の金釵(きんかん)を挿(さ)した、たっぷりある髪の、鬢(びん)のおくれ毛が、俯向(うつむ)いている片頬に掛かっている。
好い女ではあるが、どこと云って鋭い、際立った線もなく、凄いような処もない。僕は一寸見た時から、この男の傍にこの女のいるのを、只何となく病人に看護婦が附いているように感じたのである》
絶世の美女と言われた名妓も、結婚して質素な見かけに変わりました。そして、夫の死後まもなく、ぽん太はこの世を去るのでした。
1955年の「ミス・ギンザ」。同時に脚線美コンテストを開催し、見世物色が濃厚に