浅草十二階
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浅草・凌雲閣へ行く
小村雪岱が描いた浅草十二階
凌雲閣(浅草十二階)
明治23年(1890)11月、浅草に赤煉瓦づくりの凌雲閣(通称・浅草十二階)が建てられました。高さ52mという、当時としては驚異的な高さを誇る八角形の高塔です。
12階のうち8階までは日本最初のエレベーターが設置されていました(あまりに故障が多く、翌年には使用中止となってしまいましたが)。当然、ここからの眺望は抜群で、多くの作家がこの十二階の魅力にとりつかれました。
そこで、この塔に遊びに行ってみましょう。
建築中の写真
まず入場料は大人8銭、子供4銭。チケットには、「江湖(こうこ)の諸君、暇のある毎(ごと)にこの高塔の雲の中に一日の快を得給え」と書いてありました。
開業時の広告(東京日日新聞、1890年11月5日)
田山花袋『浅草十二階の眺望』によれば、昼の眺めはこんな感じ。
《十二階から見た山の眺めは、日本にもたんとない眺望の一つであるということを言うのに私は躊躇しない。
それには秋の晴れた日に限る。十一月の末から十二月の初旬頃が殊に好い。東京では十一月はまだ秋の気分が残っていて、ところどころに紅葉などがあり、晴れた日には、一天雲霧をとどめずと言ったような好晴がつづくことから、殊に一日の行楽としては、その時分が最も適している。
十二階の上で見ると、左は伊豆の火山群から富士、丹沢、多摩、甲信、上毛、日光をぐるりと細かに指点することが出来る。
第一に目に着くのは富士である。東海の帝王、実際屹然(きつぜん)として群を抜いている。その下にやや左に偏って、足柄群山が見える。二子山、駒ヶ岳、神山、矢倉岳の右に飛離れているのもそれと指さされる……》
しかしながら、この眺めを見るためには、歩いて上らねばなりません。なにせ、エレベーターが動かないんだから。当初、この階段には「東京百美人」の写真が展示してあって、人気投票が行われていました。日本最初期の
美人コンテスト
です。
内部構造
ところが、時代が下ると、この階段はずいぶんと暗くなってしまったようです。江戸川乱歩『押絵と旅する男』には、
《陰気な石の段々が、カタツムリの殻みたいに、上へ上へと際限もなくつづいて》
いたとあるほどです。
この階段を駆け上がった石川啄木は、
浅草の凌雲閣にかけのぼり息がきれしに飛び下りかねき
と飛び降り自殺しかねない表現で詠んでますが、まさにそれくらいの魔力を持った高塔だったんでしょう。
実際のところ、十二階というのは魔窟みたいなもんでした。浅草の六区には見せ物小屋が立ち並び、吹き矢店、玉乗り、人形芝居、女軽業、ジオラマ、花屋敷、富士山といった遊び場があったんですが、これは昼の姿。夜はといえば……。
夜の凌雲閣
芥川龍之介は、『本所両国』でこう書いてます。
《僕は浅草千束町(せんぞくまち)にまだ私娼の多かつた頃の夜の景色を覚えてゐる。それは窓ごとに火(ほ)かげのさした十二階の聳えてゐる為に殆ど荘厳な気のするものだつた。が、この往来はどちらへ抜けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違ひない。たとひデカダンスの詩人だつたとしても、僕は決してかう云ふ町裏を徘徊(はいかい)する気にはならなかつたであらう》
レトリックが難しいですな。室生犀星によれば、こんな感じ。
《十二階下の巣窟も一時はすっかり途絶えたようであったが、ふしぎにも絵葉書屋や造花屋、煙草屋とも小間物屋ともつかない怪しげな店ができて、そこから影のような女が出たり入ったりしていたが、もうこの頃になってから、とぐろを巻いたような小路と小路、ありとあらゆる裏町が変な、うすくらいような家に何者かが潜んでいるとのことであった。
誰でも実際はそうひどくなくとも、あの界隈の溝や下水やマッチ箱のような長屋やシナ料理屋やおでん屋などをみると、ふしぎに其処にこの都会の底の底を溜めたおりがあるような気がする。
夜も昼もない青白い夢や、季節はずれの虫の音、またはどこからどう掘り出して来るかとも思われる十六、七の、やっと肉づきが堅(し)まってひと息ついたように思われる娘が、ふらふらと、小路や裏通りから白い犬のように出てくるのだ。
それがみな半分田舎めいて半分都会めいた姿で、鍍金(メッキ)の紅い指輪や八十銭ほどの半襟やちかちか光る貝細工の束髪ピンなどでからだをかためている。それが三月か四月のあいだに何処から何処へゆくのか、朝鮮かシナへでも行ったように姿を漸次に掻き消してしまうのだ》(『公園小品』)
手前はひょうたん池
花屋敷
このように多くの作家を虜にした十二階ですが、大正12年の関東大震災で倒壊、爆破されてしまうのでした。
《震災後復興の第一歩として行なわれた浅草凌雲閣の爆破を見物に行った。工兵が数人かかって塔のねもとにコツコツ穴をうがっていた。その穴に爆薬を仕掛けて一度に倒壊させるのであったが、倒れる方向を定めるために、その倒そうとする方向の側面に穴の数を多くしていた。
準備が整って予定の時刻が迫ると、見物人らは一定の距離に画した非常線の外まで退去を命ぜられたので、自分らも花屋敷の鉄檻(てつおり)の裏手の焼け跡へ行って、合図のラッパの鳴るのを待っていた。その時、一匹の小さなのら犬がトボトボと、人間には許されぬ警戒線を越えて、今にも倒壊する塔のほうへ、そんなことも知らずにうそうそひもじそうに焼け跡の土をかぎながら近寄って行くのが見えた。
ぱっと塔のねもとからまっかな雲が八方にほとばしりわき上がったと思うと、塔の十二階は三四片に折れ曲がった折れ線になり、次の瞬間には粉々にもみ砕かれたようになって、そうして目に見えぬ漏斗から紅殻色(べんがらいろ)の灰でも落とすようにずるずると直下に堆積した。
ステッキを倒すように倒れるものと皆そう考えていたのであった。
塔の一方の壁がサーベルを立てたような形になってくずれ残ったのを、もう一度の弱い爆発できれいにもみ砕いてしまった》(寺田寅彦『LIBER STUDIORUM』)
残骸の爆破の瞬間
明治・大正を彩った東京の「文化のメルクマール」の終焉でした。
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凌雲閣の崩壊写真
更新:2004年10月11日