戦艦「陸奥」爆沈
知られざる「引き上げ争奪戦」の行方

戦艦「陸奥」
海洋学者の佐々木忠義は、1952年、日本初の学術調査向け潜水艇「くろしお」で山口県岩国市・柱島沖の深海を調査しました。
ここには、戦時中に大爆発を起こして沈没した戦艦「陸奥」が眠っています。
11月19日午前10時から潜水夫が潜って海底の様子を調べますが、たえず潮流の向きが変わるため、なかなか「くろしお」を下ろせません。午後3時になって、やっと下ろすことができました。
水深18メートルで船体がぼんやりと見え始め、20メートルで潜水艇が「陸奥」のわき腹にぶつかりました。
《ぼんやりと白い山脈のように、艦は腹を上にして、海底によこたわっている。(中略)
無数のプランクトンや、海の雪の向うに、鉄板の継ぎ目が、どこまでも続いている。ウグイス色というのか、黄色がかった灰色というのか、鉄板の上には、海のほこりがいっぱいつもっている。ところどころフジツボという小さなスリ鉢型の貝が、ぴったりくっついている。その上にも、やわらかい海のほこりがフワフワとついている。(中略)
潜水夫の話によると、沈没の原因になった爆発のあったあたりは、ギザギザの鉄くずが網の目のようにいりくんでいて、潜水夫は、あぶなくて歩けないけれども、魚の巣には、もってこいなのか、メバル、カワハギ、アブラメ、オコゼ、タイなどが沢山およいでいる》(『海底図観』)
「陸奥」の脇腹には、縦60cm、横1メートルもある大きな穴があいていました。これが爆発の跡かと思いきや、実は沈没後、なかで死んでいる兵士をひき出すため、潜水夫があけた穴だと判明します。佐々木は、《この穴の奥には、まだ、そのままになっている白骨が、沢山あるはず》と思うのです。
いったい、この穴は誰があけたのか。そして、遺体はどうして残されたのか。
今回は、戦艦「陸奥」の引き上げ争奪戦をまとめます。

周防大島の沖合4.5kmに沈む戦艦「陸奥」
1943年(昭和18年)6月8日。山口県岩国市にある柱島付近は、朝から降っていた霧雨がやみ、昼すぎには深い霧が立ち込めていました。
あたりの海域は「柱島泊地」と呼ばれ、日本海軍の最大の根拠地です。この日、周囲には「陸奥」に加え、姉妹艦「長門」、戦艦「扶桑」、重巡「最上」などが停泊していました。
昼食が終わり、休憩時間だった12時15分ごろ、「陸奥」は突然3番砲塔付近から煙をあげて大爆発を起こしました。三番砲塔下には巨大な火薬庫があり、船体は後部甲板から2つに折れ、右舷に傾いたまま転覆し、船首を上に、ほぼ垂直のまま沈没していきました。乗員1474人のうち、生存者はわずか353人、死者1121人の大惨事となりました。

戦艦「陸奥」沈没状況図(陸奥記念館)
当時、「陸奥」に乗船していた予科練艦務実習生・中川要氏が、爆発と沈没の瞬間を証言しています。
《「グワーン」と物凄い音がしてはらわたがちぎれたかと思うような振動がした。私はおもわず「アッ」と腹をおさえたほどだった。天井の塗料がパラパラとはげておち、ボルトまでがゆるんでカタカタと落ち、一瞬艦内の電燈が消えた。主砲でも撃ったんだなと思いながら、舷窓から外をみると、艦尾の方から物凄い火柱が海面にふき出していた。》(『今日の話題』第16集「戦艦陸奥の爆沈」より)
海軍は生き残った乗組員を全員拘束し、およそ3カ月間、遺体の捜索と火葬作業に従事させました。火葬は、柱島のそばにある続島という無人島で、ひっそりおこなわれました。荼毘に付されたのは165人で、残りの956人は海上で戦死したとして、遺族には桐の小箱が送られました。

旧海軍兵学校に展示されている「陸奥」主砲旧第4砲塔
「陸奥」は、1921年(大正10年)建造で、全長225メートル、幅35メートル。「大和」と「武蔵」が建造されるまで、世界最大級の戦艦とされ、長らく連合艦隊の旗艦を務めました。主砲は砲身の長さが19メートル(内径41センチ)もある当時世界最大のもので、これを8門備えました。
40センチ砲を搭載した戦艦は世界に7隻しかなく、「世界の7大戦艦の1つ」と称されています。姉妹艦「長門」とともに、国民なら誰でも知っているような艦でした。
そのため、海軍は機密保持のため、「陸奥」爆沈の事実を隠蔽しようとします。生き残った兵は上陸が許されず、まもなく南方の激戦地に送られました。戦後、無事戻れたのは、60人ほどだったとされます。

「陸奥」の主砲を製造した日本製鋼所室蘭製作所(現・日本製鋼所M&E)
「陸奥」の沈没原因については、当時からさまざまな噂が広がりました。「帰艦が遅れて軍法会議にかけられることになった主計大尉が自決するために火薬庫に飛び込んだ」「共産主義かぶれの水兵が、上官に殴られたのを遺恨に思って放火した」「敵国のスパイが紛れ込んでいた」などありとあらゆる噂が広がりましたが、真相は現在でも確定していません。
ただ、一般的には、火薬庫の自然発火だとされています。実は、主砲から打ち出した瞬間に散弾をばらまく対空砲弾「三式通常弾」が1943年初頭に開発され、それを新兵器として「陸奥」に積んだところ、不幸にも自然発火したという説もあります(現在では否定されている)。

大和ミュージアムに展示されている三式弾(左から2番目)
いずれにせよ、「陸奥」は瀬戸内海に沈みました。
所有権は当然、国にあるのですが、意外な展開が起きました。「陸奥」の沈没を隠蔽する過程で、いつのまにか「陸奥」の名前が船籍簿から消えていたのです。そのため、戦後、日本が「沈没艦」の一覧を連合軍に提出したときも、「陸奥」の名前が記載されていませんでした。こうして、形式上、国は「陸奥」の所有権を放棄したことになっていました。
所有者のいない動産を自分のものにすることを「無主物先占(むしゅぶつせんせん)」といい、これは民法239条で認められています。つまり、最初に「陸奥」を引き上げた者が総取りできるわけです。
ここに目をつけたのが、西日本海事工業です。あちこちの海域に潜水夫を潜らせ、1947年9月、ついに沈没場所を特定し、山口県に引き上げ許可を申請しました。ところが、当時は米軍占領下で、これが大騒動につながります。米軍は、米国の潜水艦が「陸奥」を撃沈したと想定しており、引き上げによりそれが断定される可能性を危惧したのかもしれません。ともあれ、米軍、(経済復興を担う)中央経済調査庁、建設省、山口県が議論を重ね、1949年(昭和24年)6月、山口県は西日本海事工業と引き上げ契約を結びます。
当時、「陸奥」の艦体は鉄だけで50億円の鋼材になるとされました。しかも、高品質の装甲板(アーマー)はいくら金を出しても買えないほどの価値があります。敗戦国・日本は外貨を持っているわけでもなく、ドルを工面して鉄を買うより、海底の鉄を引き上げたほうが日本の復興につながると考えられたのです。

戦艦「陸奥」の主砲(船の科学館、現在は横須賀に移設)
西日本海事工業は、684の遺体(重複があるので実際にはもっと少ないはず)に加え、多くの遺品を引き上げました。冒頭で触れた船体の穴は、このときのものでしょう。とはいえ、当時の技術では、なかなか船体を引き上げることはできませんでした。
時間がたつにつれ、西日本海事工業の利益独占を妬む勢力も出てきました。そのうち、引き上げ契約には「鉄の払い下げ」条項がないと囁かれはじめます。そこで、警察は同社の社長を「窃盗」で立件しようと考えました。ところが、山口県の引き上げ担当職員が「鉄の払い下げ」を明記した部分を書類から抹消していたことがわかりました。これでは窃盗で起訴できず、結局、社長は「横領」で起訴されることになるのです。もちろん、会社側は「無主物先占」をたてに無罪を主張します。こうして、長く裁判が続き、引き上げ作業は停滞してしまいます(『日本週報』405号「戦艦陸奥爆沈と50億円の謎」による)。
朝鮮戦争が起きると、鉄の値段は高騰します。「金へん景気」という言葉が広まり、マンホールの蓋だけでなく、家々の戸口のレールまで盗まれるようになります。当然、「陸奥」の引き上げを狙う勢力が出てきます。嘘かまことか、陸奥のスクリューが消えていた、など流言飛語も飛び交いました。一方で、陸奥は長く海中にあって、素晴らしい漁礁となっていることから、地元の漁民からは引き上げ反対の声も出始めます。

戦艦「陸奥」の14cm副砲(靖国神社遊就館)
遺族は戦後、「陸奥」の引き上げを求め続けます。海底に眠る遺骨を引き上げたいからです。
1960年(昭和35年)には、遺骨収集を担当する厚生省援護局が八幡製鉄と契約して、引き上げを決めたと報じられます。しかし、地元漁協への補償金交渉がまとまらず、話は立ち消えとなります。
次に登場するのが、神戸にある浜田物産です。社長の浜田悦三が、1966年、旧海軍の「伊号第363」潜水艦を引き上げたばかりの深田サルベージに依頼し、引き上げに挑むのです。そして、1968年、地元の漁協と合意文書が結ばれます。おもな内容は次の3点です。
(1)補償金は1億円とし、同意書交付と同時に1000万円、作業着手と同時に残り9000万円を深田サルベージが漁協側に払う
(2)大型ブロック魚礁8000個、並み型ブロック魚礁4000個を沈める。事業費1億200万円は国6割、県4割負担
(3)盛漁期の4〜6月は火薬を使わない
漁業補償の次の問題は、火薬の使用でした。火薬による漁業被害だけではありません。「陸奥」には2000トンの重油、800発の弾薬が残されていると思われ、大事故につながる可能性があったからです。

在りし日の戦艦「陸奥」
秋には10月25日、最新鋭の作業母船「周防丸」と潜水船「第一悦丸」を使って調査が始まりました。
《潜水夫がもぐって調べてみると、現場は上潮、中潮、底潮の3つの潮流が複雑にからみあって流れていた。さらにこの潮流は巨大な「陸奥」の艦体にぶつかって、ねじれたり、うずをまいたりしている。潜水夫4人が交替でもぐり、2つの作業灯をたよりに水中撮影や測量を試みたが、深度と速い潮流による砂ぼこりで視界は3メートルがやっとである。
作業時間は30分と限られ、予測以上に困難な仕事になった。艦内への侵入も潮の流れに阻まれて思うようにいかない。水深42メートルといっても、実際には65メートルをこえる深海作業と変わらない難所である》(『海市のかなた』)
調査の結果、引き上げは艦体を60数個(重さ約500トン)のブロックに水中で解体することになりました。引き上げ作業費に陸上解体費、漁業補償費を加えた総額が事業コストになります。深田サルベージは利益を求めなかったので、予想される約2万7000トンのスクラップの売上からコストを差し引いた残額が、大蔵省から払い下げられる「陸奥」の価格となる見通しでした。
結局、大蔵省は、費用7億7930万円、売上9億380万円、利益1億2450万円と算出。漁業補償費1億円を差し引き、2450万円で「陸奥」を払い下げることになりました。
こうして、陸奥の主要部は1970年7月から1971年3月にかけて引き上げられました。後に、深田サルベージの赤字は4億3560万円と判明しています。同社は、その後、石油ショックの影響を受け、辰巳商会に吸収されることになります。

在りし日の戦艦「陸奥」
さて、この引き上げられた陸奥の鉄は、その後、高値で取引されることになります。いわゆる「陸奥鉄」です。
戦後の溶融炉には、炉の劣化や壁の減り具合を測定するため、人工の放射性物質コバルト60が混ぜてあり、精錬後の鉄は微量の放射能を帯びています。また、1945年7月16日、世界で初めて核実験(トリニティ実験)がおこなわれ、以後、何度も核実験が実施されました。となると、戦後の鉄には、どうしても微量の人工放射性物質が含まれてしまいます。
これでは、放射線の測定、あるいは放射線測定装置の遮蔽物には使えません。そこで使われたのが、放射性物質の含まれていない「陸奥鉄」でした。これを「低バックグラウンド鋼」と呼んでいます。
たとえば、「陸奥」の40センチ主砲の一つは、静岡県御前崎市の浜岡原発で使われました。第3砲塔は、島根原発の放射能測定装置となりました。
現在では、測定の補正技術が進み、放射性物質の有無は関係なくなりました。しかし、需要は激減したものの、陸奥鉄はいまでも高く評価されているのです。

マンガン、銅、錫などの合金で作られた戦艦「陸奥」のスクリュー(陸奥記念館)
●戦艦「陸奥」撃沈の瞬間/乗員兵士の証言
制作:2026年11月25日
<おまけ>
赤城山の西麓にたたずむ群馬県渋川市の福増寺には、陸奥鉄の入った釣り鐘があります。もともと鐘は戦争で金属供出したのですが、1974年、新しい鐘が作られました。その鐘には、「陸奥」の砲の軸などに使われる「砲金」が使われました。砲金は錫(すず)を含む銅合金で、鐘はとてもいい音で鳴るそうです。

陸奥記念館の入口に置かれた「主錨」