日本大博覧会
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1912年、幻の「日本大博覧会」
吉武東里の設計図
1905年(明治38年)、日露戦争に勝利した日本は、一流国の証として万博の開催を目指します。予算は、ロシアから取れる見込みだった賠償金です。
しかし、残念ながらロシアから賠償金は取れませんでした。それでも、翌1906年には博覧会開設の決議が可決され、1912年4月から10月までの7カ月間、「日本大博覧会」を開催することが決定します。
1907年3月31日には、明治天皇が「日本大博覧会開設の勅令」を出しています。
《朕、日本大博覧開設の件を裁可し、茲(ここ)に之(これ)を公布せしむ》
そして、博覧会の総裁に伏見宮貞愛親王が就くことが決まりました。
日本大博覧会開設の勅令(国立公文書館)
この段階では場所は東京としか決まっていませんが、すでに予算案が提出されています。
国立公文書館に残された「次回開設すべき博覧会に関する件を決定す」という文書によれば、予算案は以下の通り。パビリオンとしては、「冷蔵庫」と「水族館」がメインだったとわかります。
●博覧会収入215万円
・入場料 100万円
・冷蔵庫入場料 20万円
・水族館入場料 20万円
・地代 33万円
・下足・手荷物預かり料 7万円
・陳列館地代 15万円
・印刷物販売 10万円
・独占業収入 7万円
・動力の供給 3万円
内容は不明ながら、このほかの収入も合わせると収入総額は1000万円とされています。
一方、支出は会場の設営費が300万円で、付帯設備を含めるとおよそ1000万円の予算です。もし不足が生じたら、国庫負担することになりました。
会場の候補地は、品川沖の埋立地、月島の埋立地、上野周辺、青山、丸の内など噴出しますが、結局、青山と代々木が選ばれます。この地には青山練兵場や代々木御料地など、広大な土地があったからです。大半は官有地でしたが、一部は民有地を強制的に買収し、土地を確保しました。
「日本大博覧会工事計画募集規程」
会場に関しては、日本大博覧会事務局が、工事計画を公募します。本サイトが入手した「日本大博覧会工事計画募集規定」によれば、建造する建物は次のようになっています。
●主要建造物
・教育および学芸館2000坪
・美術館1200坪
・農業館3000坪
・園芸館700坪
・家畜舎1500坪
・蚕業館700坪
・林業館1500坪
・水産館1500坪
・食料館1500坪
・冷蔵庫400坪
・鉱業館1200坪
・工業館1万5000坪
・機械および電気館7000坪(機械館4000坪、電気館3000坪)
・通運館2500坪
・陸海軍館500坪
・汽缶および原動力室1000坪
・式場(集会場)600坪
建物を併合することはOKですが、1つの建物は5000坪以下。工業館は3つ以上に分割し、青山と代々木に分置してもよいとされました。また、美術館・機械館・電気館は青山に、家畜舎は代々木に置くことが条件でした。
以上のほかに、「特殊建造物」も指定されました。
●特殊建造物
・余興場 3万坪
・外国特別館 3万坪
・内国特別館 1万5000坪
・競技場 1万5000坪
こちらにも条件があり、競技場以外の特殊建造物は2つ以上に分割し、青山と代々木に分置してもよいが、競技場は代々木に置くことが決められていました。
なお、正門は権田原町に置くのが条件です。現在の明治記念館のあたりです。
工事計画には賞金が出るんですが、それはこんな金額でした。
・1等賞(1人)3000円
・2等賞(2人)各2000円
・3等賞(3人)各1000円
計画が決まると、外務省は各国大公館を通じ、博覧会への参加を呼びかけます。
このとき、アメリカがいち早く反応し、セオドア・ルーズベルト大統領は博覧会へ150万ドル出資することを決定します。これは、役員の金子堅太郎が大統領と懇意だったことが理由とされますが、日露戦争後、満州の権益をめぐって険悪化した日米関係を良好化する意味もあったとされます。
万博会場マップ
設計計画は、1等が吉武東里、3等が杉山安四郎で、作品は『建築雑誌』301号、302号に掲載されています。
なお、吉武東里は、後に国会議事堂の設計・建設に携わっています。
吉武自身が、設計の解説をおこなっているので、簡単に紹介しときます。
吉武東里の設計図
●青山会場は人工的、都会的にし、幾何学的な道路で建物は西洋風にする。中央門と皇帝門があり、なかに入ると中央の庭に。庭は各建物で囲まれており、堀池をめぐらせ、5つの橋でつなげる
●庭の中心には300尺(91m)の高塔を設置し、エレベーターで昇降。頂上から強い光を発し、関東一円から遠望可能にする。塔の周りにはスフィンクスのような動物彫刻を置き、イルミネーションや噴水、巨大な滝を設置
●代々木会場は田園趣味にして、曲線道路で建物は東洋風に作る。現存する杉並木を中心にした森林公園に
●工業館は純日本式、園芸館はシャム式、林業館は支那式、農業館はインド式、蚕業館はアラビア式の建築にする
(『京都高等工芸学校初十年成績報告・附録』所収「明治五十年大博覧会敷地内配置懸賞計画一等当選図案及其説明」)
3等となった杉山の作品(建築雑誌302号)
1911年(明治44年)9月には博覧会協会が発足しますが、予算難は続きます。開催は5年延期され、1917年の「明治50年」を期した博覧会となりますが、結局、中止が決定します。これは、西園寺内閣から桂内閣への政権交代、明治天皇の崩御、第一次世界大戦の勃発などさまざまな原因がありました。
農商務大臣の牧野伸顕が「財政上の都合で中止」と伝える手紙
しかし、一部の工事がすでに始まっていたことで、その遺産は今に残っています。現在の明治神宮と神宮外苑は、このときの名残なのです。
2025年、大阪万博が開催されることが決まりましたが、どのようなものになるのか、期待したいところです。
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東京初の博覧会
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1940年、幻の日本万国博覧会
制作:2018年11月25日