1940年、幻の日本万国博覧会

幻の日本万国博覧会
幻の日本万国博覧会のランドマーク


 ペリーが浦賀に来航する2年前の1851年、ロンドンで第1回万国博覧会が開かれました。当時は産業革命後で、ヨーロッパ全土に鉄道が次々と敷設されていました。
 誰も万博を見たことがないにもかかわらず、約40カ国が参加、入場者は600万人に上りました。これは当時のイギリス総人口の3分の1に相当します。

 この成功を受け、ニューヨーク(1853年)、パリ(1855年)などで万博が開かれます。
 1862年のロンドン万博には、駐日英国公使ラザフォード・オールコックが、自身の日本コレクションを展示。開会式には文久遣欧使節の一行が参加し、日本人が初めて万博を体験しました。

日本人初の万博
1862年、ロンドン万博を見学する日本人一行


 この使節団に参加していた福沢諭吉は「exposition」を「博覧会」と訳し、《西洋の大都会には、数年毎(ごと)に産物の大会を設け、世界中に布告して各々其国の名産、便利の器械、古物奇物を集め、万国の人に示すことあり。之(これ)を博覧会と称す》と『西洋事情』に記録しています。

 1867年のパリ万博では、徳川幕府、薩摩藩、佐賀藩が出品します。薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」と日本政府の代表を名乗ったため、幕府側と非常に険悪になったと伝えられています。

 続く1873年(明治6年)、ウィーン万博には明治政府が参加。名古屋城の金のシャチホコ、大仏などが展示され、ジャポニスム・ブームを生みました。

ウィーン万博の日本館
1873年、ウィーン万博の日本館(左上にシャチホコ)


 1900年のパリ万博には、法隆寺金堂を模した日本館を建設。このときは、川上音二郎・貞奴の一座が評判となりました。

 日本政府はいつか万国を開催したいと考えますが、まだ国力は追いついていません。
 そこで、まずは小規模な博覧会から始め、まもなく大規模な「内国勧業博覧会」を開きます。

 第1回は1877年(明治10年)、第2回は1881年、ともに東京・上野公園で開催。
 第3回は1885年に開催予定でしたが、予算の都合もあり、これを延期。その後、万国博覧会として大規模に開催しようという気運が起こります。
 熱心だったのは西郷隆盛の弟・西郷従道で、1890年(明治23年)の「亜細亜大博覧会」として実施が決定します。

幻の日本万国博覧会
亜細亜大博覧会の決定(国立公文書館)


 なぜ1890年だったかというと、当時、日本の暦は神武天皇の即位(紀元前660年の建国)を始まりとした紀元(皇紀)が使われていました。西暦1890年は紀元2550年であり、ちょうどキリがよかったからです。

 しかし、予算難から計画は縮小され、第3回内国勧業博覧会(1890年、上野)となりました。
 その後、第4回内国勧業博覧会(1895年、京都)、第5回内国勧業博覧会(1903年、大阪)と続きます。

内国勧業博覧会
第5回内国勧業博覧会の農業館


 1905年、日露戦争に勝利した日本は、ふたたび万博の夢を追い始めます。
 1906年、「万国博覧会開設に関する決議」が衆議院で可決され、1912年、東京・青山での「日本大博覧会」開催が決定します。

青山練兵場
青山練兵場の日露戦争観兵式(1906年4月30日)


 青山には練兵場があり、ほとんど国有地でしたが、一部の私有地は「土地収用法」を使って強制的に買収しました。この場所が、現在の明治神宮と明治神宮外苑に当たります。
 日本大博覧会にはアメリカが率先して参加を表明しましたが、結局、財政難で延期が決まります。

幻の日本万国博覧会
土地の強制収容(国立公文書館)


 1928年、国際博覧会条約が結ばれ、パリに博覧会国際事務局(BIE)が設置、国際的な博覧会の枠組みが成立します。

 日本では、1930年に設置された「万国博覧会協議会」が万博の開催を提言。1934年、官庁や自治体が加わった「日本万国博覧会協会」が結成され、1940年に「日本万国博覧会」を開催することが公表されます。1936年には東京オリンピックの開催が決まり、日本は「紀元2600年」にあたる1940年に東京五輪と万博を同時開催することが決まりました。

幻の日本万国博覧会
『紀元二千六百年記念日本万国博覧会概要』


 1938年に発行された『紀元二千六百年記念日本万国博覧会概要』には、開催趣旨が以下のように記されています。

《悠遠の過去を有する我国の絢爛(けんらん)たる文化活動の成果を政治、教育、学芸、交通、財政、経済等各般の分野に亘(わた)り、之(これ)を最も進歩した形態に於(おい)て展示し、以(もっ)て光輝ある紀元二千六百年を奉祝記念せんとする》

幻の日本万国博覧会
会場予想図

幻の日本万国博覧会
別の会場予想図


 万博のメイン会場は、東京・月島沖の埋め立て地「4号地」「5号地」で、現在の晴海と豊洲です。さらに横浜の山下公園なども会場に含まれることになり、敷地は計160万平方メートルと広大になりました。
 1940年の東京五輪の総予算は約3100万円ですが、万博の総予算は約4450万円。期日は3月15日から8月31日の170日間。4500万人の入場を見込みます。

勝鬨橋
会場の入口となる勝鬨橋


 では、会場に行ってみましょう。会場への入口は、中央部分が跳ね上がる開閉式の「勝鬨橋」(全長246m、全幅26.6m)です。橋を渡ると尖塔仕立ての入場門があり、その先に左右に五重塔がついた極彩色の正門が現れます。
 中に入ると商店街が広がり、その奥にメインパビリオンの「肇国(ちょうこく)記念館」が見えます。

幻の日本万国博覧会
肇国記念館の当初案

幻の日本万国博覧会
肇国記念館


 万国旗や幟の立つ道を歩いて記念館に入ると、なかには日本の歴史にまつわる展示があり、2000人収容できる会議室もありました。

 肇国記念館は美しい回廊で囲まれており、左右には生活館、文芸館、経済館、科学発明館、通信交通館、鉱山館などが並んでいます。その回廊は、館の後ろに回り込めば、厳島神社のような海に飛び出たものになっていることに気づくでしょう。

幻の日本万国博覧会
海上に浮かぶ夜の万博


 第1会場の晴海は日本をテーマにしています。そこから巨大な木造橋を渡って第2会場に入ると、農業館、林業館、紡績館、機械館を経て、右手には航空館、最奥部にはスタジアムまでありました。第2会場の半分は外国館のため、ここに「国際都市」が実現するのです。

 豊洲会場の中央には高さ250尺(76m)の塔があり、昇ると眼下に東京市が広がります。そして房総半島から富士山まで見渡せる……。
 これが、30以上のパビリオンが並ぶ万博の予想図でした。

幻の日本万国博覧会
万博ポスター

幻の日本万国博覧会
万博ポスター応募作品


 万博を盛り上げるため、テーマ曲「万博行進曲」も作られています。
 歌詞は一般公募し、北原白秋、西条八十、菊池寛らが選考委員となりました。1938年4月、日比谷公会堂で行われた秩父宮親王の万博総裁奉戴式で大々的に披露されています。
 行進曲はその後、藤山一郎ら当代一の歌手が歌い、レコード会社6社から発売されました。

 1938年には懸賞つきの前売券が発売され、肇国記念館の地鎮祭も行われます。地鎮祭では、双葉山ら4横綱が土俵入りしています。

幻の日本万国博覧会
懸賞つきの前売券


 しかし、万博の準備は順調には行きませんでした。
 前年に日中戦争が始まっており、継続が危ぶまれるなか、ついに1938年7月、政府は「現下挙国一致物心両方面の総動員を行い聖戦目的の達成に邁進しつつある情勢に鑑(かんが)み、万国博の開設はこれを延期せしめる」という声明を出し、東京五輪ともども返上することになります。

幻の日本万国博覧会/南京陥落
南京陥落の提灯行列


 結局、万博がらみで完成した唯一の建物は、晴海の万博事務局のみ。これは、戦時中、傷病兵のための病院として使われ、戦後、取り壊されました。

 紀元2600年を彩る東京五輪と万博では、実はテレビ中継も計画されていました。1926年12月25日、世界で初めてブラウン管に「イ」の映像を映した高柳健次郎がNHKに出向し、実験を進めていました。カメラや編集機器はもちろん、電波を送る100m鉄塔も1939年4月には完成しています。
 試験放送は成功しますが、こちらも戦争で研究は中断。テレビ本放送が実現したのは1953年でした。

 そして、日本で念願の万博が開かれるのは、1970年の大阪万博まで待つことになります。

幻の万博
日本万博博覧会のネオン広告


制作:2017年10月16日


<おまけ>

 大阪万博の概要は1968年秋にはほぼ完成していますが、その直前の夢想的な予想図を公開しておきます。
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