日光・幻の宗教王国
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知られざる「裏」日光
「幻の宗教王国」と「砂防の歴史」
ご神体は山、ご神木は3本の杉の木
俺が持ってる膨大な歴史資料のなかに「名所図絵」と呼ばれるものがあります。写真が珍しい時代、木版画や石版画などで各地の名所や風景を描いたものです。
たとえば明治29年(1896)に刊行された『吾妻土産名所図画』は、その名の通り、関東地方の名所を20カ所選んでまとめたものです。関東地方とはいえ、16カ所は東京で、鎌倉が2カ所、日光が2カ所となっています。
日光東照宮
当たり前ですが、ここに出てくる名所は、浅草だの上野だの銀座だの、誰もが知ってる場所です。実際、鎌倉は江ノ島と鶴岡八幡宮で、やはりメジャーどころです。
一方、日光で描かれたものは「東照宮」と「一の滝」。東照宮はわかるんですが、「一の滝」ってよくわからないんですよ。明治22年の『内国旅行日本名所図絵』では羽黒の滝が「一の滝」だとしてるんですが、形がまったく違うし、どう考えても選り抜きの名所に当てはまるものではないんです。
謎の日光一之瀧
いったいこの「一の滝」はどの滝なのか、ずっと不明だったんですが、あるとき明治15年に出た『日光名所図絵』を見て、これが「白糸の滝」だと判明しました。
イラストがそっくりでしょ
日光と言えば華厳の滝、霧降の滝、竜頭の滝など多くの滝があることで有名ですが、でも白糸の滝ってかなりマイナーです。どうしてこれが一番目の滝なのか、今度は新たな疑問が出てきました。
そこで調べてみると、白糸の滝がある「滝尾(たきのお)神社」は、東照宮ができる前、日光の霊場の中心で、最も重要な場所だったとわかりました。
日光の開山は、もともと勝道(しょうどう)という坊さんが、782年に四本龍寺(現輪王寺)を建てたのが始まりです。そして、816年、日光山の3つの山の頂に三社権現の社を建立します。この3社というのは、
●男体山=新宮権現=二荒山神社=千手観音=大己貴命
●女峰山=瀧尾権現=滝尾神社=阿弥陀如来=田心姫命
●太郎山=本宮権現=本宮神社=馬頭観音=味耜高彦根命
(日光山という山はありません)
で、滝尾神社は820年になって弘法大師(空海)が創建したことになっています。
そんなわけで、滝尾神社に行ってみたよ。
滝尾神社の入口
東照宮から山の方へ登っていくと、まず見えるのが朱塗りの開山堂。勝道上人の霊をまつるところで、近くに墓もあります。
開山堂の裏側には、切り立った断崖があり、昔はここに仏に似た岩が並んでたそうですよ。今は地震で崩れ、くぼみに帝釈天、梵天、不動明王などの石仏が安置されています。
開山堂
その先、いろいろすっ飛ばし、大谷川の支流である稲荷川を登っていくと、ついに白糸の滝が。
弘法大師も、この滝で修行したそうです。
落差10mの小ぶりの瀧
滝を過ぎ、急な石造りの階段を登ると、右側一帯が別所跡と呼ばれる場所です。今は何もありませんが、昔はここに本殿や拝殿がありました。1509年、日光に来た連歌師・宗長の『東路のつと』に、「ここより谷々を見おろせば、院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」とあるそうで、往時の繁栄ぶりがわかります。
家康が死んで日光に改葬されるのは1617年なんで、東照宮ができる100年以上前から、日光には信じられないほど大規模な「宗教王国」があったわけです。
伝説では、その先、影向石(ようごうせき)のあたりで、美しい女神が空海の前に現れたとされています。これが820年で、滝尾神社設立のきっかけです。
つづいて、運試しの鳥居。鳥居上部に空いた穴に小石を3つ投げて、通った数で運を試します。
影向石と運試しの鳥居
その後、ようやく神社へ。「楼門」は総朱塗りで、その奥が「本殿」「唐門」。ご神体山・女峰山を遠くに拝めるよう、本殿の裏壁に扉がついています。ちなみに、神木は巨大な三本杉です(冒頭の写真)。
楼門と、本殿・唐門
さらにその奥にあるのが瀧尾稲荷神社で、ここも弘法大師の創設とされています。1966年、台風による沢の氾濫で流出、その後、再建されました。
奥が瀧尾稲荷神社、手前は空海が神に献上した酒の味がする湧き水「酒の泉」
実は弘法大師と日光は関係が深く、この地を日光と命名したのも弘法大師とされています。
「二荒(ふたら)」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てたわけですな。ちなみに「ふたら」は浄土を意味する「補陀洛山」(ふだらくさん)から来たという説もありますが、これは後付けみたいです。
明治15年、怪しさ満開の憾満ヶ淵(含満ヶ淵)
名所図絵を見て、ぜひ行ってみたいと思った場所が大谷川沿いの「憾満ヶ淵」(含満ヶ淵、かんまんがふち)です。
そして、ここにも空海の偉業として伝えられるものがありました。霊庇閣の対岸に、弘法の投げ筆によって、「かんまん」の梵字が描かれたのです。かつては不動明王が安置されていたそうですが、明治35年(1902)の洪水で流失してしまいました。
対岸に、不動明王の真言の最後の句「かんまん」が書かれてるはず
この洪水の被害は非常に大きいものでした。台風の大雨で男体山の東斜面が崩壊し、土砂が中禅寺湖に流れ込み、下流の神橋まで押し流しました。100軒もの家屋が流出し、死者も156名出たそうです。憾満ヶ淵には石地蔵が膨大に並んでいるんですが、この地にあった慈雲寺、そしてその先にある大日堂ともども、すべて洪水で流れ去りました。
並ぶ地蔵も、多くは川底から救出されたもの。右は今はなき大日堂
ほとんど知られていませんが、日光の歴史は、洪水や土砂崩れとの戦いの歴史でもありました。
たとえば、1683年の日光大地震でも大きな土砂災害が発生しています。男体山で大規模な「大薙崩れ」が起き、巨大な堰止め湖ができました。その後の1723年、台風でこのダム湖が決壊し、大きな被害をもたらしています。
明治11年(1878)、日光から新潟に抜ける旅行をしたイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは『日本奥地紀行』に次のように書いています。
《日光街道の杉の茂みがもっとも深いところで左にまがり、小川の川床のような路に入った。この道はやがてひどい悪路となり、大谷(だいや)川の粗い丸石の間をうねうねと通り、木の枝と土で蔽われた一時的な木の橋をしばしば渡るのである。日光山の末端の低い山を一つ越えてから、峡谷の中の曲り路を進んだ。険しい両側は、楓、樫、木蓮、楡、松、そして杉におおわれていた。それらには多くの藤が花綱となって絡みつき、つつじや、ばいかうつぎの花房で明るく輝いていた。どちらを見ても壮大な山が前方に立ちはだかり、滝は雷鳴のようにとどろき、渓流は樹木の間できらきら光りながら流れていた。》
この急峻な大地が、土砂崩れを何度となく引き起こしてきたわけです。
右が第7砂防堰堤、左が有形文化財の第6砂防堰堤(ともに1922年)
日光の砂防の歴史は、明治32年(1899)から始まりました。ところが県営の砂防事業で作った堰は次々と土石流で破壊されてしまいます。しかも、日露戦争の開戦もあり、1903年に事業は中止となりました。
その後、大正7年(1918)に稲荷川の砂防工事が国の直轄事業となり、数多くの砂防堰堤が築かれました。
かつて機械がない時代、堰堤の工事は、石工が1つ1つ石を切り出し、これを人馬で運び、手作業で組み上げました。そのため、1日1段くらいしか作れなかったと言われます。
この歴史的な技術が認められ、2002年と2003年、あわせて11基の砂防堰堤が国の「登録有形文化財」となりました。
日光に存在した幻の宗教王国の中心・滝尾神社。その横を流れる稲荷川沿いに残る砂防堰堤の数々は、土砂と戦ってきたこの地の隠された歴史を教えてくれるのです。
制作:2012年7月2日
<おまけ>
憾満ヶ淵を散歩していると、突然、小さな水力発電所が現れました。大谷川は発電に利用されるため、時期によっては水量は少ないんですが、豪雨になると大増水します。中禅寺湖も標高差が大きく、こちらも古くから水力発電に利用されてきました。
こうした豊富な電気を利用して、1906年に古河鉱業が設立され、銅精錬やアルミ精錬で日本の近代化に貢献してきました。その流れのなかで、足尾鉱毒事件が起きるのです。
大谷川の水力発電所
●東照宮「五重塔の秘密」は
こちら