「世界一周」飛行の夢
「ニッポン号」5万キロの飛行記録

ニッポン号「世界一周」飛行
海上を飛ぶ「ニッポン号」


 1939年(昭和14年)10月20日。羽田飛行場には十数万人の人があふれ、手に手に日の丸を振っていました。
 午後1時40分、空からゆっくり双発機が降りてきます。全国中継されたラジオでは「芝生、芝生、人々、青い空、歓呼、歓呼、おおニッポンは帰ってきました……」とNHKアナウンサーの和田信賢が名調子で訴えます。
 大阪毎日新聞と東京日日新聞(現・毎日新聞)が送り出した航空機「ニッポン号」が世界一周から帰着した瞬間です。
 55日間、飛行時間194時間、飛行距離5万2860kmの偉業でした。

ニッポン号「世界一周」飛行
羽田に到着したニッポン号


 当時、大阪朝日新聞と大阪毎日新聞は熾烈な部数競争を繰り広げていました。1935年に羽田飛行場が開業し、ようやく日本にも航空機が普及し始める時代。両社は航空機によるイベントで部数のかさ上げに乗り出します。

 まず、1937年に朝日が「神風号」で東京ーロンドンの連絡飛行に成功。1938年には東京帝国大学の実験機「航研機」が長距離飛行の世界記録を樹立。
 ここで、大阪毎日新聞は世界一周飛行を発案します。

 当時、世界一周は1929年のツェッペリン飛行船によるものを除けば、7つの記録がありました。

 ●1924年 
  アメリカ陸軍のスミス中尉が、ダグラス複葉機で実現。航続距離4万6560km、175日、飛行333時間
  ルートはシカゴ→シアトル→ダッチハーバー(アラスカ)→霞ヶ浦→上海→カラチ→ロンドン→アイスランド→グリーンランド→シカゴ

 ●1928年〜30年
  オーストラリアのキングスフォード・スミスが、フォッカーで実現。太平洋横断を皮切りに3年がかりで

 ●1931年
  アメリカのウィリー・ポストとゲッティが、ロッキードのヴェガで実現。航続距離2万5910km、8日15時間51分、飛行125時間
  ルートはニューヨーク→ベルリン→モスクワ→ニューヨーク

 ●1931年 
  アメリカのパングボーンとハーンドンが、ベランカ機で実現。81日間
  ルートはニューヨーク→ロンドン→ベルリン→モスクワ→ハバロフスク→東京→青森県淋代海岸→ウェナチー(アメリカ)→ニューヨーク

 ●1932年
    ドイツのフォングロナウが、ドルニエワール飛行艇で実現。111日
  ルートはトラーヴェミュンデ(ドイツ)→アイスランド→グリーンランド→オタワ→ダッチハーバー→霞ヶ浦→以下、フィリピン、マラッカ、インド、イラン、キプロスなど各地を経由

 ●1933年
    アメリカのポストがロッキードのヴェガで実現。初の「単独」世界一周飛行。航続距離2万4957km、7日18時間49分、飛行114時間
  ルートはニューヨーク→ベルリン→モスクワ→イルクーツク→ハバロフスク→フェアバンクス→エドモントン→ニューヨーク

 ●1938年
  アメリカのハワード・ヒューズ、ロッキード単葉機で実現。2万3488km、3日19時間17分
  ルートはニューヨーク→パリ→モスクワ→オムスク(シベリア)→ヤクーツク→フェアバンクス→ミネアポリス→ニューヨーク



 これらの業績を上回るためには、少なくとも航続距離5万キロを超す必要がありました。そこで、当初の計画では6万キロを目指します。

ニッポン号「世界一周」飛行
当初の飛行ルート


 飛行機は、当時信頼性の高かった三菱重工製の海軍九六式陸攻の機体を改造した双発輸送機。全幅25m、全長16m、全高3.7mで、巡航時速は260キロ。三菱の「金星」発動機が、成功に大きく寄与しました。

 メンバーは、親善使節を務める大原武夫(新聞社航空部長)、操縦士・機長の中尾純利以下、操縦士・吉田重雄、機関士兼通信士・八百川長作、機関士・下川一、技術員・佐伯弘、通信士・佐藤信貞の7人。
「ニッポン」の機名は全国公募で決まり、「世界一周大飛行の歌」も作られました。そして、読者のために「太平洋横断時間」の懸賞も大きく謳われました。

ニッポン号「世界一周」飛行
1等賞金は1名に1000円


 中尾機長は当時、満州航空に所属しており、日本海の無着陸横断やバンコクー東京夜間飛行、東京一奉天夜間飛行などの業績で高い信頼を集めていました。
 東回りを選んだ「ニッポン号」は、1939年8月26日、羽田を飛び立ち、札幌に向かいます。翌日、アラスカのノームへ。高度3700mを巡航していたところ、午前1時、操縦席のガラスが凍結したため、6000mまで上昇。これで全員酸素不足で悩まされます。

ニッポン号「世界一周」飛行
羽田空港を離陸する直前

ニッポン号「世界一周」飛行
札幌に到着


 困ったのはアラスカで、一行は出発前にできる限りの航空地図を入手していましたが、アラスカは完全な地図がありませんでした。地図に山が書いてあるところに山はなく、平地と書いてあるところに巨大な山が出現します。不安定な気流とあわせ、非常に難儀しました。

 太平洋横断は酸素不足に悩まされましたが、もっとも大変だったのは、荒天の続く南米アンデス越えでした。
「アンデスは雲が多いが視界は十分。徐々に快晴に向かっている」との気象情報を得て、9月27日午前9時27分、サンチャゴ飛行場を飛び立ちます。しかし、南米最高峰のアコンカグアを越えるあたりで、ものすごい突風が吹き荒れ、墜落の危機に瀕します。

 ペルーでは、分厚い雲に悩まされました。高度3000mより上は好天なのに、それより下は2500mもの厚さの雲が広がります。雲の底は地上200mなので、着陸は容易ではありませんでした。
 そもそもニッポン号にはワイパーがついておらず、雨天時の飛行はかなり危険でした。
 
 飛行中の9月1日、ドイツが突如ポーランドに侵攻。これに対しイギリスとフランスが3日に宣戦したことで、第2次世界大戦が勃発します。やむなく、ヨーロッパ・ルートは大幅な変更を余儀なくされます。
 結局、ベルリンもロンドンもパリも行けず、着陸予定のダカールでも、フランス領なので戒厳令が敷かれている有り様。何度となく交渉を重ね、「飛行禁止区域の尊重」を条件として、やっとフランス参謀本部から着陸許可が下りました。

ニッポン号「世界一周」飛行
シカゴ到着


 戦争の始まったヨーロッパはともかく、ニッポン号はどこでも大歓迎を受けました。それは、対日感情が悪化していたアメリカでも同様です。
 ニューヨークでは、歓迎会でマンハッタンの5番街が交通規制されました。オートバイに乗った護衛の警官はこう言ったそうですよ。

「五番街を交通止めにした日本人は、君らが最初で最後だろう」

 真珠湾攻撃の2年前の話です。


制作:2012年11月12日


<おまけ>

 ニッポン号の帰還中継をしたNKHの和田信賢アナウンサーは、1939年、大相撲1月場所で双葉山の69連勝ストップの中継をしたことで有名です。連敗が止まると、「双葉敗る!双葉敗る!双葉敗る! 時、昭和14年1月15日、旭日昇天、まさに69連勝。70勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安芸ノ海に屈す!双葉70勝ならず」と叫びました。
 そして1945年8月15日には、終戦放送で全国に向けて「終戦の詔勅」を朗読しています。

<おまけ2>
 ニッポン号以降の、世界一周飛行についてまとめておきます。

●1949年 アメリカ空軍が世界初の「無着陸」世界一周飛行
●1957年 ターボジェット機による初の無着陸世界一周
●1964年 アメリカの女性パイロット・ジョーン・メリアム=スミスが単独で世界一周
●1983年 オーストラリアのディック・スミスがヘリコプターによる初の単独世界一周
●1986年 バート・ルータン設計のボイジャーが世界初の「無着陸」「無給油」世界一周
●1999年 スイスのベルトラン・ピカールが、熱気球で初の無着陸世界一周
●2005年 スティーブ・フォセットが「無着陸」「無給油」「単独」世界一周


<おまけ3>
 ニッポン号の実際の飛行ルートをまとめておきます。
8・26 東京→札幌
8・27 札幌→ノーム
8・29 ノーム→フェアバンクス
8・30 フェアバンクス→ホワイトホース
8・31 ホワイトホース→シアトル
9・02 シアトル→オークランド
9・03 オークランド→ロサンゼルス
9・07 ロサンゼルス→アルバカーキ
9・08 アルバカーキ→シカゴ
9・09 シカゴ→ニューヨーク
9・16 ニューヨーク→ワシントン
9・18 ワシントン→マイアミ→サンサルバドルアルバカーキ(米国)→シカゴ
9・19 マイアミ→サンサルバドル
9・22 サンサルバドル→サンティアゴ・デ・カリ(コロンビア)
9・23 カリ→リマ
9・24 リマ→アリカ
9・25 アリカ→サンティアゴ
9・27 サンティアゴ→ブエノスアイレス
9・29 ブエノスアイレス→サントス(ブラジル)
10・1 サントス→リオデジャネイロ
10・4 リオデジャネイロ→ナタール
10・5 ナタール→大西洋→ダカール
10・6 ダカール→アガディール(モロッコ)→カサブランカ
10・8 カサブランカ→セビリア(スペイン)
10・9 セビリア→ローマ
10・12 ローマ→ロドス島(ギリシャ)
10・13 ロドス島(ギリシャ)→バスラ(イラク)
10・14 バスラ→カラチ
10・16 カラチ→コルカタ(インド)
10・17 コルコタ→バンコク
10・19 バンコク→台北
10・20 台北→羽田

 クイズとなった太平洋横断は、当初、根室→ノームが予定されていましたが、悪天候のため、札幌→ノームに変更となりました。距離は4340km、時間は15時間48分でした。

<おまけ4>
 朝日新聞による世界一周企画は、昭和6年(1931)、飛行機と鉄道、船による「早回り旅行クイズ」として行われました。東廻りを新宮寿天丸(大阪朝日)、西回りを福馬謙造(東京朝日)が担当し、どちらが早いか、早いほうの所要時間を当てるクイズでした。ちなみに東回りは大阪市長、西回りは東京市長のメッセージが託され、各地域に伝達する役目も担っていました。
朝日新聞の世界一周懸賞
朝日新聞「世界一周航空競争」のビラより。こちらも1等賞金は1名に1000円
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