「ニッポン飛行機研究」事始め

航研機
世界記録達成直前の「航研機」
(1938年5月10日)


 ライト兄弟が「ライトフライヤー号」で人類初の有人動力飛行に成功したのは、1903年12月17日のことでした。その後、1914年に勃発した第1次世界大戦を経て、世界各国が航空機開発に熱を入れ始めます。

 で、日本で本格的な航空研究がいつ始まったかというと、大正5年(1916)のことでした。この年、東大教授の田中館愛橘(たなかだてあいきつ)が委員長となって、東京帝国大学に航空学調査委員会が設置されました。

 この委員会は1918年4月1日、航空研究所となりました。業務は航空機、航空船、気球、航空用発動機、航空心理など、一連の研究です。工科大学(工学部)の附属だった航空研究所は、1918年7月に勅令第270号をもって学部と対等な東大の付属機関となり、深川区越中島(本所)に移転します。

航空研究所
関東大震災で焼失した航空研究所の全景

航空研究所
焼失した航空研究所の風洞実験室


 ところが大正12年(1923)9月1日、関東大震災が起き、ほとんどの建物が破壊されてしまいました。そのまま応急処置で研究は続けられましたが、昭和6年(1931)、研究所は駒場に移動します。現在、先端科学技術研究センター(先端研)があるあたりですな。

航空研究所
新・航空研究所(駒場)


 大正13年に発行された「東京帝国大学航空研究所事業一覧」によれば、本所には物理部、化学部、冶金部、材料部、風洞部、発動機部、飛行機部、測器部、航空心理部、中央工場部、図書部、事務部の12部がありました。

風洞実験機
震災後に作られた風洞実験機(本所)



 この航空研究所が、最も華々しい成果を上げたのが、「航研機」と呼ばれる長距離航空機でした。翼幅27.93m、全長15.06m、最大重量9トン。エンジンは液冷700馬力。

 航研機は1937年3月31日に完成、5月25日に初飛行を行いました。そして1938年5月13日から15日にかけて、木更津〜銚子〜太田〜平塚を結ぶルートを29周(1周約400km)し、航続距離1万1651.011kmを達成、世界記録を樹立します。飛行時間は62時間22分49秒。

 このとき、平均速度も1万kmコースの国際記録として認められていますが、この記録の正確な数字がよくわかりません(平凡社の百科事典では時速186.755km、小学館の百科事典では186.192kmとなっています)。

航研機
世界記録を報じる「写真特報・東京日々」
 

 その後、航空研究所では、A26という長距離機を設計し、1944年7月に満州国の新京(現長春)〜白城子〜ハルビンを結ぶコースで1万6435kmの周回飛行記録を作りました(ただし戦時中だったので非公認)。

航研機の復元模型
航研機の復元模型(青森県立三沢航空科学館)


 このように戦前の日本は、世界に冠たる飛行機王国でしたが、その秘密はどこにあったのか?
 答えは「人材」でした。

 当初、日本には航空に関する基礎学問がなかったので、造船や物理など割合近い分野から多くの学者が集められました。先の「東京帝国大学航空研究所事業一覧」によれば、当時の職員には、漱石の弟子・寺田寅彦をはじめ、

●斯波忠三郎 日本初の海底電線敷設船の設計者
●田丸卓郎 航空計測器機の第一人者
●富塚清 航空エンジンの第一人者。国産バイクの開発
●瀬藤象二 アルマイトの発明、電子顕微鏡の導入
●本多光太郎 世界最高の永久磁石「KS磁石鋼」を発明

 など人材の宝庫でした。ちなみに「航研機」の開発を指導した和田小六は、木戸孝允の孫だったりして、血統も良し。


 なかでも一番すごい人物が、田中館愛橘です。岩手生まれの物理学者なんですが、主な業績として、

軍用気球の研究→航空研設立
・重力測定、地磁気測定、緯度測定→水沢に緯度観測所を設立
・濃尾地震で根尾谷断層を発見→・地震研究の誕生
メートル法の普及
・日本式ローマ字の普及→日本語の分かち書き完成

 などなど様々な業績を残しました。やっぱ技術って人間に属するもんなんですねぇ。


 さて戦後、日本は航空禁止令によって、あらゆる航空研究が禁止されます。1952年、サンフランシスコ講和条約で研究が再び可能になると、航空研究所は復活を果たします。

 そしてここから、日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げた玉木章夫や、初の国産旅客機YS-11の開発を指揮した木村秀政、戦後のグッドデザイン運動を推進した渡辺力など、そうそうたるメンバーが輩出したのでした。

 なお、航空研究所は、1964年に宇宙航空研究所に改組され、現在はJAXA=宇宙航空研究開発機構になっています。

制作:2007年4月1日

<おまけ>
 スーパー物理学者・田中館愛橘ですが、彼は熱心なローマ字論者でした。明治18年(1885)に羅馬字会がヘボン式を制定しますが、同年、田中館が対抗して提案したのが日本式。その後、両者が歩み寄って1937年に訓令式が制定されました。

・ヘボン式(タ行 ta chi tsu te to ダ行 da ji zu de do)
・日本式 (タ行 ta ti tu te to   ダ行 da di du de do)
・訓令式 (タ行 ta ti tu te to   ダ行 da zi zu de do)

 現在のローマ字の混乱はこのあたりにあるんですな。
 あと、最後に田中館の最高の業績を1つ。彼が還暦祝いの会合で退職を発表したことで、日本に60歳定年制が普及しました。
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