乃木希典の生涯
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「乃木希典」の自刃現場を行く
乃木希典の第3軍、旅順入城!
(1905年1月)
その昔、六本木ヒルズが建ったばかりのころ、「あそこは墓地を潰してるから幽霊が出る」といった、まことしやかな噂が流れました。というか、いまでもライブドアやリーマン・ブラザーズ問題、回転ドアの事故などが起こるたびに「ヒルズの呪い」がささやかれますな。
しかし、ヒルズの土地はもともと墓地ではなく、長府藩の上屋敷がありました。
1849年11月11日、この場所で1人の男の子が生まれます。後に、日露戦争の旅順攻撃で名をはせ、明治天皇の死に殉じた陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)です。
国民の尊敬を集めた乃木は、殉死の翌年(1913)に「神」となり、自宅横に乃木神社が建立されました。毎年、命日である9月13日にはこの旧宅が公開されるんですが、なかなか機会がなく……しかし今年ついに見に行くことができたので、内部を公開です!
が、その前にまず、乃木希典の生涯をわずか12枚の絵でまとめてみたよ。
出典は昭和7年の『乃木将軍画帳』から。乃木の武士道は、戦前には修身(道徳)として盛んに教育されたのです。
嘉永2年(1849)、長府藩の藩士、乃木希次(のぎまれつぐ)・寿子の長男として誕生します。幼少期に事故で左目を失明。
子供のときから忠君をたたき込まれ、赤穂浪士の墓参りのため泉岳寺に通ったことも。冬に「寒い」などと言うと、裸にして水をかけるほど父親は厳格でした。子供の頃は貧乏で、米をつきながら学芸に励んだのです。
明治10年(1877)、小倉聯隊(歩兵第14聯隊)で西南戦争に参加。「天皇の分身」とされた軍旗を薩摩軍に奪われたことが、終生、乃木を苦しめます。
ちなみに、奪われた軍旗を取り返すために単身敵中に向かおうとしたことが、修身の教科書でよく使われる場面です。
明治27年(1884)、陸軍少将として日清戦争に参加。旅順要塞を1日で陥落させた。
明治28年(1895)、陸軍中将として台湾征討に参加し、翌年、台湾総督に就任。しかし、2年後に統治失敗の責任をとって辞職するため、このあたりの話は修身の教科書にはあまり登場しません。通常は
那須で開墾生活
に入る、と書かれます。
明治37年(1904)、日露戦争に第3軍司令官(大将)として参加。旅順攻撃を指揮、激戦の203高地で多大な死者を出したため、戦後、無能説が流されます。
ただし、当時は長男の勝典(金州南山を進軍中)、次男の保典(203高地を進軍中)がともに戦死しているため、日本軍人の鑑として大いに賞賛されました。
長男・勝典(左)と次男・保典の死亡
明治38年(1905)、旅順開城で水師営においてロシアのステッセル将軍と会見。
戦後は廃兵院を訪問したり、遺族に自腹で見舞金を渡したりしたことで、さらに国民の尊敬を集めることに。なお、自ら乃木式義手を設計し、配布も行っています。
明治40年には学習院院長になり、昭和天皇も教育。
大正元年(1912)9月13日、明治天皇大葬の夜に、妻静子とともに自刃。右写真は天皇崩御後、失意のうちに宮中を出る乃木
辞世の句は「うつし世を神さりましし大君の、みあとしたひて我はゆくなり」
右は自刃に使用した刀(下の短刀は妻が使ったもの)
さて、乃木夫妻が自刃したのは自宅の2階でした。これがその場所です。
2階の角部屋で、非常に明るい部屋。下写真中央に夫妻で亡くなっていました
乃木の家は当時としては非常に質素でした。このあたり、まさに武士道を感じますな。
左から愛用の机、小さな五右衛門風呂、トイレ
ステッセルにもらった馬「寿号(すごう)」と、家より丈夫な?レンガ造りの馬小屋
制作:2009年9月13日
<おまけ1>
乃木は10箇条にわたる遺言を残しています。
第1条は、
「自分此度(このたび)御跡を追ひ奉り、自殺候処(ところ)、恐入(おそれいり)候儀、其(その)罪は不軽(かるからず)存候、然る処、明治10年役(=西南戦争)に於いて軍旗を失ひ、其後、死処得度心掛候も、其機を得ず、皇恩の厚に浴し、今日迄、過分の御優遇を蒙(こうむ)り…」
とあり、軍旗を奪われたことを苦に自殺したことがはっきり書かれています。以下、自分はすでに老境に入り役に立たないので、今度の崩御で「覚悟相定め」たと書かれています。
第2条で「自宅は東京市(または区)に寄付しろ」となっていたため、乃木邸は東京市に寄贈されました(現在は港区の管理)。
また第6条で「書籍は学習院に寄付しろ」とあるので、邸宅に本は残っておらず、ほぼすべてが「乃木文庫」に収められています。
<おまけ2>
はたして乃木は無能だったのかどうか、これは現在でも判断が分かれるところです。ただ、乃木批判は陸軍嫌いの司馬遼太郎が戦後に作ったものであるのは間違いありません。
旅順を陥落させた第3回攻撃では日本軍1万7000人が死んでおり、たしかにひどい作戦でした。そもそも地形的に203高地をとっても、旅順は落ちないことは現地では誰でもわかっていました。それなのに大本営と海軍が203高地奪取にムリヤリ作戦変更させるのです。現地軍はこの命令を拒否しますが、最後は変更を余儀なくされます。
つまり、乃木が無能なのではなく、現場を知らない東京の陸軍官僚と、常に陸軍と対決する海軍が無能だったという見解が、乃木肯定論の核です。
その判断はここではしませんが、昭和天皇は最後まで乃木に心酔していたことは確かです。
昭和7年当時の家の全景。右は大正時代の乃木邸