那須・幻の大運河
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東京ー那須「幻の大運河」計画
あるいは「元勲の洋館」めぐり
現在の那須疎水
東京には、日露戦争の司令官・
乃木希典
を祀った乃木神社があります。そして、ほとんど知られていませんが、栃木県の那須塩原市にも乃木神社があるんですね。その理由は簡単で、乃木は1891年(明治24年)に別荘を作り、長らくこの地で農業に従事してからです。
那須の乃木神社
しかし、那須がすごいのはそれだけではありません。松方正義から山県有朋まで、明治の元勲と呼ばれる人たちの別荘が数多く建ち並んでいるんです。それはなぜなのか? 今回は、広大な荒野だった那須地方の開発物語です。
その歴史を振り返るために、まずは平安時代にまでさかのぼります。
和風の乃木別邸。敷地内には広い池が
さて、『平家物語』で最も有名なシーンの1つに、「屋島の戦い」があります。
対峙する源平両軍が休戦中、平氏から小舟がやってきて、美女が「扇の的を射よ」と源氏を挑発します。源義経の命を受けた那須与一が矢を放ったところ、矢は見事に扇の柄を射抜いた……というやつです。
この功績もあり、那須与一は、源頼朝から丹波や信濃など5カ国の荘園をもらい、那須一族繁栄の基礎を作りました。屋島の戦いがあったのが1185年。その4〜5年後に那須与一は死に、さらに数年たった1193年、頼朝は那須までやってきて大規模な狩りを行いました。
『吾妻鏡』では
《将軍家、下野国那須野・信濃国三原等の狩倉を覧む為に、今日進発し給ふ……》
と記録されているんですが、兵士10万人が来て、なんと2300頭もの野獣を狩ったというのです。
いくら中世とはいえ、これではあまりに田舎すぎる気がしますが、実際のところ、当時の那須地方は箸にも棒にもかからない広大な荒れ地だったのです。
江戸時代になって、奥州街道ができ、ようやく那須の開墾が始まりますが、結局ほとんど手つかずのままでした。どうしてかというと、この大原野にはまったくといっていいほど水がなかったからです。
那珂川など一部を除くと川も湖もなく、地下水も深い場所にしか流れていません。その結果、土地は痩せ、まともな植物は育ちませんでした。
役立たずの原野は、火をつけ、翌年、草が生えると馬のえさにする程度の使い道しかありませんでした。実際は30〜40年かければ赤松が生え、良材を得ることは可能でしたが、誰もそんな面倒なことはしませんでした。ごく一部の植林はありましたが、何年かに一度、野火が起こると、火は強風に煽られ、あたり一面を焼き尽くし、また翌年、馬のえさになって終わりでした。
大山巌の別邸
1869年(明治2年)、地元・大田原藩でも版籍奉還がおこなわれました。その後、那須野開拓に関する申請書が民部省に提出されています。計画によると農民100人を入植させ、1人に30両を貸与。3年目以降、藩が4割の年貢を取り立てるものでした。版籍奉還にもかかわらず、再び年貢を取り立てるという魂胆でしたが、計画は実行されず、やはり開拓は進みませんでした。
殖産興業の時代のなかで、初代栃木県令となった鍋島幹は、那須野の開拓にも強い関心を持ち始めます。
1871年(明治4年)、政府が那須原野を調査し、1875年(明治8年)には国営牧場の好適地を選ぶ調査もおこなわれました。
1876年(明治9年)10月29日、鍋島幹が進行中の
地租改正
の説明のため、大田原にやってきます。このとき、地元の人間と初めて那須野の開拓構想が盛り上がり、大運河計画に発展します。このとき、何とか水利を、と懇願した地元の印南丈作と矢板武に対し、鍋島はこう言ったのです。
《帝都を距ること僅かに40里、この原野が自分の管下にあって、捨てて顧みないということは国家に対して相済まぬと思っていた。而して水利については、余に一案がある。それは那須野が原の北端には、那珂川が流れている。この川は、水量も相当あるのに、未だこれを利用しているところがない。これは当方にとっては寧(むし)ろ幸である。この河流を引き入れて、那須平野を横断し、それを鬼怒川に注ぎ、舟運の便を開けば、那須地方の農林産物を、直接東京市場に搬出することができて、その利益莫大なものがあろう。それのみならず、奥羽地方の貨物もまたこれによって東京に送られることになろう。而して灌漑時期には、これを田用水に用ゆることとすれば、那須野が原は日ならずして美田と化するであろう》(田島董『那須疏水』)
当時、鉄道はまだ開通しておらず、貨物は主に馬の背で運ばれていました。しかしこれはあまりに不便で、水路がある場所は必ず舟で荷物を運んでいました。そういう意味では、那珂川と箒川と鬼怒川を結び、東京まで水路を引っ張るのは理にかなった構想でした。それにしても、かなり壮大なプロジェクトです。
大運河の絵地図
1877年(明治10年)1月から、那珂川上流で実地調査が始まりました。翌年8月には精密な測量も始めています。
測量の結果、東京までの水路に必要なのは約45キロの掘削でした。
水路の延長 11里16町51間5尺
高低差 1165尺
河川横断 5カ所
水門 52カ所
橋梁 61カ所
工費 16万6000円
測量結果は14冊の冊子にまとめられた。しかし、総工費は膨大で、とても民間だけで実現はできません。
そこで、鍋島は1879年(明治12年)6月28日に「那須原水路開鑿之儀上申」を政府に提出し、国の協力を求めます。この請願を受け、明治12年11月には伊藤博文、松方正義が那須野を巡覧していますが、結局、工事の許可はおりませんでした。
どうしてかというと、同じ頃、福島県で安積疎水が開削中で、資金の余裕がなかったからです。
運河の計画が思うように進まないなか、明治13年には肇耕社(後の三島農場)や那須開墾社などいくつかの大農場が発足しました。開拓事業にはもちろん水が必要なので、大運河は後まわしにして、まずは入植者の生活用水や牛馬の飲用に足りるだけの疏水を開削することになりました。
この申請は「那須原水路開鑿之儀付願」というもので、起業公債資金から2万2707円の下付が認められ、1882年(明治15年)11月14日に竣工式を迎えました。
那須原水路開鑿之儀付願(那須野が原博物館)
《此(この)原野たる、往古より、犁鋤(りじょ)加へず、
民舎建たず、空しく荒蕪(こうぶ)に委する……》
飲用水路は開通しましたが、印南丈作と矢板武らは、さらに大運河開削の運動を続けます。しかし、度重なる請願も空しく、結局、大運河構想は実現に至りませんでした。ただし、灌漑用大水路は太政大臣の許可を受けており、明治18年9月15日、大水路の竣工式が行われるのでした。
こうして完成したものが、今日「那須疏水」と呼ばれる大水路群です。安積疏水、
琵琶湖疏水
とともに日本三大疏水の1つと言われています。開通式には北白川宮親王、山県有朋、三島通庸ら大物が参列するほどの大事業でした。
現在の那須疎水取水口
こうした苦労の末、那須の荒野は開拓されました。那須の農業の特徴は、旧来の日本的な小規模農業ではなく、大農場制が敷かれたことです。これは、当時、盛んに言われた「大農論」という考え(欧州並みの大農場経営こそ殖産興業の基本)を元にしたものです。
そして、これら大農場の経営には華族などが当たりました。もちろん、当時すでに
土地の私有
が認められている以上、華族といえども、勝手に土地を手に入れることはできません。
では、華族はどうやって土地を買い占めることができたのか。
青木周蔵の別邸
江戸時代に特権階級だった領主、公卿(華族)、武士たちは、明治になってほぼすべての特権を失ってしまいました。具体的には廃藩置県、地租改正、秩禄処分、徴兵制により、仕事や地位や収入のすべてが消滅してしまったのです。
そこで、なんとか経済基盤を安定させる必要に迫られました。
ひとつは、華族や士族に与えられていた「家禄」が債券化(「金禄公債」)されたのを受け、それをそのまま原資にして会社のオーナーになる方法。 これは1877年(明治10年)、岩倉具視の呼びかけで、徳川慶勝・山内豊範・黒田長知・池田章政ら華族が発起人となり、第十五国立銀行が開業したことで実現しました。
十五銀行は通称「華族銀行」と呼ばれ、絶大な信用と強大な資金力をバックに、産業への投資を拡大させます。特筆すべきは鉄道で、日本最初の私鉄である「日本鉄道株式会社」を設立、この会社が現在の東北本線、高崎線、常磐線など大動脈を建設しました。
もうひとつは、西南戦争で疲弊した士族を救うため(「士族授産」)に進められた「大農場の開拓」に参加する方法。屯田兵制度による
北海道開発
がメインですね。
旧士族による北海道の開墾は、
明治11年(1878) 旧尾張藩主・徳川慶勝
明治14年(1881) 旧長州藩主・毛利元徳
旧肥前藩主・鍋島直大
明治16年(1883) 旧加賀藩主・前田利嗣
などが有名です。
那須にある山県有朋の別荘(設計は伊藤忠太)
一方、那須では旧士族による開拓ではなく、政府上層部の政治家(新華族)や華族らが中心となって大農場経営を始めました。
具体的には、
明治13年 子爵・三島通庸の肇耕社
明治14年 侯爵・西郷従道、公爵・大山巌、子爵・青木周蔵
明治16年 子爵・品川弥二郎
明治17年 公爵・山県有朋
明治18年 子爵・毛利元敏
あたりが有名です。ほかにも伯爵・山田顕義、伯爵・佐野常民あたりがいますが、一番広大な面積を押さえたのが、士族授産の中心となった公爵・松方正義でした。
生活資金の確保という差し迫った事情があったとはいえ、結果的に明治の元勲や旧華族たちに優先的に土地の払い下げが行われました。まぁ、日本最初期の土地利権と言ってもいいかもしれませんね。
松方正義別邸(萬歳閣)
華族、新華族が優遇された大きな理由は、明治政府の権力のよりどころとも言える皇室の強化がありました。
明治11年、那須に御料牧場が創設され、明治17年、北海道の新冠牧馬場、明治18年に千葉の下総種畜場(現在の成田空港)が御料牧場になり、さらに佐渡金山や生野銀山が皇室財産に編入されました。そして、明治23年の
国会開設
が近づくと、議会制による皇室の弱体化を防ぐため、皇室財産はさらに拡充されました。
この流れのなかで、皇室を支える華族、新華族にも広大な土地が優先的に与えられていったのです。
そんなわけで、那須に、歴史の教科書に出てくる有名人たちの別荘が立ち並ぶことになったのです。
制作:2012年12月28日
<おまけ>
当時の鉄道はどれほどショボかったのか。1908年(明治41年)から1921年(大正10年)頃まで、那須には「那須人車軌道」と呼ばれる鉄道がありました。西那須野と大田原を結んでいた人力鉄道ですが、8人乗りの客車を車夫2人で押すだけのものでした。当然、営業成績は振るいません。
その後、動力を馬に変更したものの、並走する東野鉄道(蒸気機関車)や東毛自動車(車)に押され(当たり前・笑)、営業停止に追い込まれるのでした。
那須人車軌道(那須野が原博物館)