ラジオ放送開始

ラジオ放送
ラジオが家にやってきた


 1925(大正14年)3月22日、日本で最初のラジオ放送が行われました(実験放送は3月1日から)。 この日は連休2日目の日曜日。午前9時30分、「こんにち、ただいまより放送を開始いたします」という京田武男アナウンサーの呼びかけから放送が始まりました。

 その後、海軍軍楽隊が演奏する「カルメン」が流れ、午前10時、後藤新平(東京放送局総裁)がこんな祝辞を述べます。

「現代の科学文明の成果である無線電話(=ラジオ)なしに将来の文化生活を想像することはできない」

 このとき、後藤新平はラジオの効能を「文化の機会均等」「家庭生活の革新」「教育の社会化」「経済機能の敏活」の4つだと述べました。
 
 さらに読売、東京日日、東京毎夕など各新聞社が抽選で順番を決めたニュース、ソプラノ独唱などが流れ、最後が20時55分の天気予報でした。当たり前ですが、レコード以外はすべて生放送です。


ラジオ収録風景
ラジオ収録風景


 初めて聴いたラジオの感想を、詩人・萩原朔太郎は「壊れた機械で傷だらけのレコードをかける時にそっくり」などと揶揄していますが、一般人にとって、その驚きぶりはいかほどのものだったか。

無線電話
かつてラジオは「無線電話」と呼ばれました


 アメリカで世界初のラジオ放送が流れたのが1920年1月17日。これを受け、まず1922年7月、東京日日新聞がラジオの試験放送を実施。逓信省もラジオ研究に乗り出しますが、こうした研究は1923年の関東大震災ですべて水の泡と化しました。
 雑誌では「無線電話」の記事が長く掲載されていましたが、庶民が初めてラジオを見たのは、1924年、上野で開かれた「発明品博覧会」でのことです。


ラジオ体操
1929年に全国放送が始まったラジオ体操


 その後、日本の多くの新聞社が実験放送に乗り出します。逓信省は予算難だったので、ラジオを民営で行う予定でした。新聞社を中心にたくさんの申請が出て、東京と名古屋では新放送局の認可がまとまりを見せます。ところが、証券会社からの申請が多かった大阪では誰も身を引かず、収拾がつかなくなりました。

 そのうち、「電話協会」という出願者が「放送は公共事業であり営利目的はダメだ」と言い出すと、これに朝日新聞と東京日日新聞が同調、結局、公共放送に決まります。

 こうして、東京放送局、名古屋放送局、大阪放送局の3局が創設されます。
 東京放送局(JOAK)は、芝浦の東京高等工芸学校に作られ、スタジオはわずか16坪。設備はマイク1つだけでした。


NHK
芝浦の仮放送局の平面図
(NHK広報誌「ネットワークNHK」1971年3月号より)


 4カ月後の1925年7月、東京放送局は愛宕山に移転します。移転後の初放送は以下の通り。

「J、O、A、K……こちらは東京放送局であります。いよいよ、芝・愛宕山の新局に引っ越しまして、今日の日曜日から、出カ1キロワットで本放送を開始いたします。今度の愛宕山の放送室は、2階3室に分かれ、邦楽部の部屋は青畳が敷いてあります。
 窓は二重になっているので廊下の声は一切入りません。3室の中央にはコントロール・ルームがあって、至れり尽せりであります。
 また、地下の電気室にはモーター十数台がすえられて、決して市内の停電で放送がポツンと切れるようなことはありません。J、O、A、K……東京放送局の引っ越しの一番、これをもって終わります」


NHK愛宕
愛宕のNHK


 ラジオ開始時の聴取者は5500人とされています。当時は有料制(1カ月1台あたり1円)だったので、それなりに利益が上がりました。放送開始から5カ月後の8月、3放送局は合併し、日本放送協会が設立されます。このときすでに東京放送局は借金を完済していたことからも、放送が儲かることがうかがえます。


ラジオ収録風景JOBK
ラジオ収録風景(JOBK=大阪放送局)


 関東大震災で不安を覚えた人が多かったせいか、ラジオの加入者は飛躍的に増え、放送開始半年で10万、1年で20万を突破しました。
 とはいえ、その後は不況もあり、あまり聴取者数は増えませんでした。放送の拡大とともに投資も拡大し、経営はなかなか安定しませんでした。そこで、解約を申し込む聴取者には、

《当局としましてはラヂオを出来るだけ広く普及して国民の文化発展のために貢献致し度い考から》放送の充実と改善に努めていますし、聴取者相談所を増設して故障機器の無料診察などあらゆる御相談に応じていますし、だいたい2重放送の実施でお好みの番組が御随意に御選択出来るようになったというのに解約とは、当局との間になにか意志の疎通に欠ける点があったのではありませんか。《折角受信機もおありになることでありますから引続き御聴取下さいます様……》

 と、ひたすら低姿勢な「継続のお願い」を出すのでした(上のお願いは1934年のもの)。


NHKの宣伝ポスター
NHKの宣伝ポスター


 日本放送協会の初代総裁は後藤新平です。後藤新平は「大風呂敷」で有名な人物ですが、こんな大風呂敷のエピソードが残されています。東京放送局常任理事だった新名直和氏の証言です。

《それは大正15年の正月でしたね。15年度の放送局の予算を編成する時期になって、その時分にラジオ放送研究所の計画をつくって、持って行った。そしたら「これは何だ」とおっぽりだす。そうするのは後藤さんのくせでしてね。
「もっと大きなことを考えろ」というんです。こっちはよっぽど進んだつもりで、後藤さんは調査好きですから、ラジオ放送研究所というのは、これはいいことを考えたとでも言ってくれそうなものですが「だめだ」という。そこで結局後藤さんの真意というものを話されたんです。
 それは、シナ大陸の中央に大電力の放送所をつくって……。
 東亜全体がそれが聞こえるような大きなものをつくれ。それには収入があてにならんから、日本の放送から生ずる利益でそれをやれというわけです》(『放送文化』1967年1月号)


 ラジオの国際放送を中国全土で行う……当時の日本の政治家は、こんな壮大な野望を持っていたのです。


携帯ラジオ
1926年には携帯ラジオが登場


更新:2016年12月30日


<おまけ>

 日本初の女性アナウンサーは、翠川秋子という名前です。後藤新平の推薦を受け、東京放送局に入局しました(名古屋は加藤綾子、大阪は巽恭子)。
 なぜ女性アナウンサーが誕生したのかというと、男のアナウンサーが料理番組で「塩ひとつまみ」を「塩ひとつかみ」と間違えるなど、ミスが多発したからです。
 余談ながら、翠川秋子はわずか1年で退社し、9年後、年下男性と心中しています。女子アナのスキャンダルは、昔からなのでした。

翠川秋子
翠川秋子

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NHKが報じた日米開戦と終戦
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