幻の開戦指令「西の風、晴」
NHKは日米開戦と終戦をどう伝えたのか

NHK愛宕山
愛宕山の放送所からの眺望


 昭和16年(1941年)12月早々、NHKの国際部長だった頼母木真六氏は、軍人たちと忘年会を開きました。すると、一人の少佐が「いよいよやるぞ」と発言します。意味がわからなかった頼母木氏は、「何をやるんだ」と聞くと、「アメリカと戦争をする」と言うではありませんか。
 長くアメリカにいた頼母木氏は、日本の実力を二流だと思っていたため、きつい言葉で言い返します。

「よかろう、勝っても負けても日本は得をする。勝てば勝ったでいいし、負けても損はない。一等国ではない日本が、負けてはじめてド根性を出して、反省するのもいい」

 すると、同席していた軍人の一人が「負けるとは何だ!」と激昂し、刀を抜いて襲いかかってきました。頼母木氏も「斬るなら斬れ」と言い返し、大激論が始まりました。

 御前会議で対米英蘭戦が正式決定したのは12月1日。国のトップレベルでも開戦を知らない人がほとんどだったときに、頼母木氏は日米開戦を知っていたのです。


御前会議で対米英蘭開戦が正式決定
御前会議で対米英蘭開戦が正式決定


 昭和16年12月8日午前7時、ラジオは臨時ニュースで開戦を報じます。

《大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり》

 NHKは、このトップシークレットだった開戦をどうやって放送したのか。かつて日本放送出版協会が刊行していた雑誌『放送文化』が、当事者たちの回顧録を掲載しているので、これらの資料をもとに再現します。


NHK愛宕山
NHK(愛宕山)


 昭和11年(1936年)、二・二六事件が起こります。不穏な時代を背景に、このころ内閣に「情報委員会」が設立されました。陸軍、海軍、外務省、逓信省から出向者が集まり、情報戦略を練り始めます。

 昭和12年9月、情報委員会は「内閣情報部」に改組されました。これは各省庁間の連絡や調整、情報収集、啓発宣伝に関する事務担当です。当時、テレビはなく、ラジオしか存在していませんでしたが、このラジオの影響力は絶大でした。そこで、政府の意向を国民に伝える「政策放送」は、情報部、逓信省、NHKが協議して流すことになりました。

 昭和14年5月、NHKは愛宕山から内幸町に移転。地下1階・地上6階で、東洋一の放送局と呼ばれるようになりました。


NHK放送会館
NHK放送会館(内幸町)


 昭和14年7月、情報部はNHKに働きかけ、「時局放送企画協議会」を立ち上げさせます。従来、番組編成はNHK独自の「放送編成会議」で決めていましたが、これ以降、情報部が主導したこの協議会で編成が決まることになりました。

 政策放送は、昭和4年8月28日、時の浜口雄幸首相が「経済難局の打開について」を演説したのが始まりだとされます(『日本放送史』による)。
 その後、新首相は組閣が終わると「大命を拝して」という就任演説をするのが通例となりました。昭和14年1月の平沼騏一郎、同8月の阿部信行、15年1月の米内光政、いずれも同じタイトルで国民に語りかけています。

 こうした放送は首相官邸から行われましたが、当時、放送機材を運び込むのは大変でした。そこで、昭和15年6月、ついに首相官邸内に放送室が完成します。この放送室が最初に使われたのは、翌月、第2次近衛内閣ができて「大命を拝して」を放送したときです。


首相官邸
首相官邸


 第2次近衛内閣は、情報の一元管理を徹底します。当時、陸軍、海軍、外務省、内務省はバラバラに情報を出しており、その矛盾やトラブルが多発していました。そこで、各省庁の報道部門をすべて統合し、内閣の下に「情報局」が設立されました。昭和15年12月のことで、当初の庁舎は接収した帝国劇場でした。

 情報局は、新聞、出版、放送、映画、レコードなど、各メディアに対して指導・監督を行ないます。組織は以下のようになっていました。

 第一部 全体の方針を決める「企画」
 第二部 新聞、放送、出版などの「報道」
 第三部 外務省の「対外」宣伝
 第四部 内務省警保局検閲課と同等の「検閲」
 第五部 内務省関連の演芸、音楽など「文化」

帝国劇場
帝国劇場


 昭和16年1月、NHKの業務局編成部は「企画部」と改称し、放送全般の編成を扱うことになりました。ちょうど4月からの大規模な改編期を迎えており、準戦時体制下における全面改定となりました。そして、2月以降、「政府の時間」「ラジオ時局読本」などの国策番組が次々と流され始めます。

 昭和16年3月7日、「国防保安法」が公布、5月10日から施行されました。これは政治的な機密保護を目的としたもので、スパイ行為などを行えば死刑となる厳しい法律でした。この結果、事実上、政府の発表以外は報道することができなくなりました。

 陸軍・海軍はもともと「情報局」に非協力的で、検閲も内務省が主担当、そのうえ「国防保安法」が施行されたことで、情報局の仕事は見る間に減っていきました。当時、情報局の放送課長だった宮本吉夫氏の証言が残されています。

《私たちは、その時分はかん口令をしかれて何もできないんだ。例としては(昭和16年)5月27日の海軍記念日に、その日のいい講演者が出てこない。大事なことは言えないんだからね。それでぼくは「平出(英夫)大佐(=大本営海軍部報道課長)に出てもらったら……」と言って、平出大佐が出たんだが、その晩に、あれは歴史的な放送ですよ。びっくりしてみんな腰をぬかしちゃったんだ。彼が大放送をやった。武蔵のことでしょう。「大戦艦の用意あり、いくらでも戦争をする」という。それが翌日の朝日を除いた新聞に全部出たんですよ》(『放送文化』1967年12月号)


国防保安法
国防保安法(国立公文書館、右下に公布日)


 昭和16年12月2日ごろ、海軍からの依頼で、NHKは「雲か、山か、呉か、越か」という頼山陽の詩を放送し、その間に暗号を送りました。NHK側は中味がわからないまま放送しますが、おそらくこれが最初の開戦指令だったとされています。

 昭和16年12月5日、政府は「国内放送非常態勢要項」を定めます。国内放送は「人心の安定と国民志気の昂揚をはかり、臨機適確にして統一ある報道宣伝」を行なうとしたうえで、事態が緊迫した場合、放送を一元化して第2放送を中止、首相官邸に放送要員を配置、天気予報をやめるなどのルールを策定します。

 昭和16年12月6日、海軍から予定稿として「西の風、晴れ」を渡されます。NHKは「これは開戦通知かも」と思いますが、もちろん軍部は戦争だとは認めません。
 そこで、NHKは幹部を集め、「いざというとき」の対処を会議で決めていきます。この会議で、大本営発表のニュースにつけるマーチを、海軍は『軍艦マーチ』、陸軍は『分列行進曲』(『抜刀隊』)、陸海協同の場合は『敵は幾万』にすることが決まりました。


NHK放送会館
NHK放送会館内のレコード室


 昭和16年12月7日、この日は日曜日ですが、宮本放送課長は総理官邸へ呼び出されます。これはいよいよかと思って、あわてて官邸に出向いたところ、予想外にひっそりとしていました。書記官長の星野直樹氏はテニスをやっていて、宮本氏の姿を見ると「いよいよ戦争だ」と言ってきました。

 この段階では、まだ閣議も枢密顧問会議も開かれていませんが、すでに「開戦の詔勅」はできていました。宮本氏はその詔書を読む用意をしておけ、と言われますが「これは内閣書記官長が読むものですよ」と断ります。
 星野氏は「こんな長いものが俺に読めるか」と言うので、宮本氏はやむなく二・二六事件の「兵に告ぐ」のアナウンスを担当した中村茂氏を指名しました。


開戦の詔勅
「開戦の詔勅」第4稿(冒頭の「天佑を保有し」が「天佑を保全し」に)


 昭和16年12月8日午前4時、海外向け放送が「西の風、晴」を放送します。当時、宿直だった舘野守男アナウンサーが回想します。

《7日の夜、宿直であった私と海野アナウンサーは当時の報道部長から「あすは重要発表があるから待機せよ」と言い渡された。内容についての説明は一言もなかった。
 8日午前1時すぎ、起こされて放送室へ行ってみると、一枚の紙切れがあり、これを午前2時の海外放送全部に特別天気予報として3回くり返してくれという命令であった。渡された紙には「西の風、晴」と書いてある。そこで担当の海野アナが2時直前になって読むばかりにしていると、突然午前4時まで延期せよと命令が変った。
 ……こうして、今度は大本営から「陸海軍部8日午前6時発表……」の電話。私は無我夢中で読んだ。伴奏するマーチのリズムの中に溺れて、押し流されそうな気持であった》(『放送文化』1963年3月号)


「西の風、晴」こそ、在外公館に向かって送られた開戦を伝える暗号でした。



 この日、重要な放送がまだ残っていました。東條英機首相による開戦放送です。再び宮本氏の証言。

《出勤して行って、一番青くなったのは、詔勅の長いやつを中村氏に読んでおいてもらわなければならん。探したらない。その日の朝閣議、枢密顧問会議を開いて、詔勅の案をかけた。そのあと、ちょうどいまの稲田(周一)侍従次長が当時の総務課長で、先生が金庫へその詔勅を封じ込んじゃって鍵を持っている。もうしょうがないから「大事なニュースがあるからスイッチを入れておいて下さい」という放送をしてもらったんですよ。そのうち宮内庁から電話がかかってきて、東条が官邸に帰りしだいすぐ開戦の放送をするというんだ。満州事変やシナ事変と違うんだから(自分で)やるというんだ。こっちは読んでないのが気になってしょうがない。やっとこさ稲田さんをつかまえ、詔勅を早く出してもらわなければたいへんなんだといって、中村君に渡した。中村氏はパッと見て全然読み違えをしなかったんだな、さすがですよ》(『放送文化』1967年12月号より省略引用)

 その後、すぐに東條英機が「大詔を拝し奉りて」を読み上げました。
 当時、NHK企画部員として首相官邸に派遣されていた春日由三氏の証言です。

《緊張の一日も暮れて午後7時、「天佑を保有し万世一系の皇祖を祚める……」にはじまる宣戦の詔書や、東条英機首相の「大詔を拝し奉りて」を再生放送したあと、ホッとする間もなく奥村喜和男情報局次長の「国民に塑(うった)う」という講演放送を、この(官邸)放送室から出すことになりました。たまたま「どこまで続くぬかるみぞ——」の「討匪行」の作者、八木沼丈夫さんが、情報局に打電してきた和歌「たたかいは勝つべきものぞ身をつくし国をつくしても勝たんとぞ思う」という朗詠を、奥村さんの放送のあとにくみ込み、劇的な効果をあげました。講演放送における“演出”のはじまりだったかも知れません》(春日由三『体験的放送論』)

 この和歌は詩吟で放送されますが、すでに時間は夜8時を過ぎています。首相官邸では、豪華な食事が出ていました。中華料理がメインで、鯉の丸焼きなど山海の珍味があふれ、陸・海軍の軍人たちが乾杯していました。

首相官邸
首相官邸の玄関


 開戦3日後の12月11日、放送司令部ができ、「戦時放送業務処理要領」に基づいた管理放送が始まります。海外放送は電波管制され、北海道や樺太ではラジオが聞こえなくなりました。これは、ラジオの電波によって敵機が誘導されることを危惧したからです。技術的にはあり得ませんが、当時はここまで慎重だったのです。

 その後、特に空襲もなかったことから、昭和17年2月11日の紀元節から管制を緩めることになりました。
 しかし、それ以降、戦局は悪化、ウソばかりの大本営発表が垂れ流されることになります。

 昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受託後、「終戦の詔書」の放送(=玉音放送)をもって戦争が終結します。


終戦の詔書
「終戦の詔書」原本(国立公文書館)


 しかし、徹底抗戦派はこの放送を妨害すべく「玉音放送録音盤事件」を引き起こします。要は、録音レコードの奪取です。
 内幸町にあったNHKの放送会館は、15日午前4時から7時まで、近衛歩兵第一連隊の一個中隊によって完全に占拠され、スタッフは全員スタジオに監禁されています。

 幸いなことに、玉音放送の録音盤は宮内省に保管してあり、またNHKが放送会館からの放送線を切断するなど抵抗したことから、無事、放送の手筈が整います。

 午前7時20分、和田信賢アナウンサーによる玉音放送の予告が流されます。

「つつしんでお伝えいたします。かしこきあたりにおかせられましては、このたび、詔書を渙発あらせられます。
 かしこくも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずからご放送あそばされます。まことに恐れ多ききわみでございます。国民はひとり残らずつつしんで玉音を拝しますように。
 なお昼間送電のない地方にも、正午の報道の時間には特別に送電いたします。
 ありがたき放送は正午でございます」


玉音放送
玉音放送を聞く人々


 8月17日、東久邇宮内閣ができ、「大命を拝して」の放送後、実に2年半ぶりに「天気予報」が放送されたのです。


制作:2016年12月11日


<おまけ>

 NHKの海外放送「ラジオジャパン」は、昭和10年6月、ハワイ向けに流されたのが始まりです。その後、拡充が続き、太平洋戦争直前には、世界各地に向け16カ国語で放送されていました。
 海外放送は、開戦とともにプロパガンダ工作の強力な武器となり、大本営陸海軍部、外務省、逓信省、情報局、同盟通信社、NHKによる「海外放送連絡協議会」を中心に、即応体制が整えられました。

 ところが、対外向けの放送は充実する一方、海外の放送を受信する仕組みはまったくありませんでした。陸海軍も、海外放送にはまったく注意を払っていませんでした。そこで、情報局の宮本放送課長が中心となり、NHKの旧放送所だった愛宕山に巨大な受信設備を構築。この唯一の情報網が完成したのは、開戦の1週間ほど前です。この受信網は、終戦のときにようやく役立ったと宮本氏は証言しています。

<おまけ2>

 開戦当日のNHKの番組表を公開しておきます。(R)はレコードによる録音放送を指しています。

午前
 6:20 ニュース(香港に総動員令)
 6:30 音楽(R) 
 6:40 武士道の話
 7:00 時報、臨時ニュース(開戦発表)
 7:04 ラジオ体操
 7:18 臨時ニュース(開戦発表)
 7:20 朝のことば(仙台)
 7:41 ニュース、音楽(R)
 7:50 (大阪)仕事と共に
 8:30 臨時ニュース(開戦発表、臨時閣議)
 8:50 ラジオ体操
 9:00 国民学校放送朝礼訓話
 9:12 音楽(R)
 9:20 経済市況
 9:30 臨時ニュース(開戦、日米交渉の経過と対米通告の内容)
 10:05 音楽(R)
 10:20 家庭婦人の時間
 10:40 吹奏楽(R)
 11:00 臨時ニュース
 11:09 音楽(R)
 11:30 臨時ニュース(英砲艦1隻撃沈、ハワイ奇襲作戦成功、シンガポールほか爆撃)、音楽(R)
 11:40 経済市況

 正午 時報、詔書奉読、大詔を拝し奉りて(東條総理大臣)、愛国行進曲

午後
 0:16 大本営陸海軍部発表
 0:17 吹奏楽
 0:30 政府声明朗読
 0:37 ニュース(マレー半島奇襲上陸の成功、香港攻撃)
 0:59 ニュース、音楽(R)
 1:09 ニュース、音楽(R)
 1:26 ニュース、音楽(R)
 1:45 経済市況
 2:00 臨時ニュース(防空実施下令)、音楽(R)
 3:00 臨時ニュース(同)
 3:08 職場への放送、音楽(R)、ラジオ体操、音楽(R)
 3:30 ニュース(防空実施下令、臨時議会招集、非常時金融対策について蔵相談話)、音楽(R)
 4:40 経済通信
 5:00 臨時ニュース(フィリピン、香港空襲)
 5:14 合唱、音楽(R)
 5:50 番組予告
 6:00 ラジオの前にお集り下さい
 6:04 少国民のシンブン、音楽(R)
 6:30 合唱と管弦楽
 7:00 時報、君が代、詔書奉読、大詔を拝し奉りて(録音)
 7:13 ニュース(ハワイ、マレー、フィリピン、香港の戦況)
 7:30 宣戦の布告に当りて国民に愬(うった)ふ(奥村情報局次長)
 8:01 朗吟(詩吟)
 8:04 金融の非常対策
 8:15 吹奏楽
 8:24 ニュース、歌謡
 8:30 全国民に告ぐ
 8:40 吹奏楽
 9:00 ニュース(ハワイ空襲の戦果、戦艦2隻撃沈、戦艦・大型巡洋艦各4隻大破など、タイ進駐)、音楽
 10:00 時報、今日の戦況とニュース
 11:00 ニュース(真珠湾で米戦艦ウェストバージニア、オクラホマなど撃沈)
 12:00 ニュース(ホノルル大混乱のもよう)

マイクの前に立つ昭和天皇
録音マイクの前に立つ昭和天皇(昭和21年)
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