無線電信の誕生
真珠湾攻撃を打電するまで

フローラルガーデンよさみ
フローラルガーデンよさみ


 かつて、中山競馬場(千葉県船橋市)の近くに巨大な電波施設がありました。どれほど巨大かというと、200メートルの主塔を中心に、60メートルの副塔18基が直径約800mの円形に置かれていました。これは、競馬場とほとんど同じくらいの大きさです。現在、この無線施設は消滅して一部が公園になっていますが、上空から見るとはっきり円形だとわかります。これが、電波塔の並んだ跡です。

中山競馬場と旧船橋送信所
中山競馬場(左)と旧船橋送信所(グーグルアース)

 
 この場所は、海軍無線電信所の跡地です。当時の無線は、波長の非常に長い電波(長波)を使ったため、巨大すぎる設備となったのです。土地だけでなく、莫大な量の電気も必要でした。当初、この場所で送受信をおこなっていましたが、後に霞ヶ関の海軍省に電波受信所が置かれたため、名称が「船橋送信所」に変更されています。

中山競馬場と船橋送信所
中山競馬場の宣伝はがき


 そんなわけで、今回は日本の無線行政を振り返ります。

海軍省の無線塔
海軍省の無線塔


 1901年12月12日、霧深い北米ニューファンドランド島の沿岸で、3人の男たちが凧を上げていました。凧は竹と絹で作られていましたが、前日は失敗。水素の気球を飛ばすことにも失敗し、この日、再チャレンジしていたのです。ようやく150mほど凧が上がると、3人は凧のひもを地上の受信機につなぎました。すると、突然、モールス信号の「S」の音が入りました。

 この信号は、約3500km離れたイギリスのポルデューから送られたものです。これが英米間を初めて結んだ(大西洋を横断した)無線電信で、実験に成功したマルコーニは、のちにノーベル物理学賞を受賞しています。

イギリス・ポルデュー局
ポルデュー局(1901年)


 1888年、ドイツ人のハインリヒ・ヘルツが電磁波の発生/検出に成功したことから始まった無線電信は、10年後の1898年には30km以上の送受信が可能になりました。1899年、マルコーニはイギリス〜フランス間(およそ140km)の通信に成功。同年、イギリス海軍は、無線を制式採用し、ついに離れた場所にいる船と船が連絡を取ることができるようになったのです。

 マルコーニの成功に驚いた各国は、我先に無線研究に乗り出します。
 当時は、ドイツのテレフンケン式、アメリカのフェッセンデン式、ドフォーレ式、デンマークのパウルゼン式などが高性能と評されました。

テレフンケン式の送信機操作盤(依佐美送信所)
テレフンケン式の送信機操作盤(依佐美送信所)


 では、日本はどうだったのか。

 1896年(明治29年)10月、アメリカで発売された1冊の雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』が日本に届きました。この雑誌でマルコーニの初期の実験を知った逓信省の浅野応輔(電気試験所)、石橋絢彦(航路標識管理所)らが、無線実験を開始します。

 1冊の雑誌の情報のみが頼りで、苦心惨憺の末、翌年12月、東京・月島と、芝金杉の沖合に停泊中の船とで交信に成功します。距離は1マイル(1.6km)離れていました。1900年には千葉県の津田沼〜八幡(10マイル)、船橋〜大津(34マイル)の海上通信に成功し、無線通信の基礎が完成します。

逓信省
逓信省


 一方、逓信省とは別に、海軍省では1900年から築地にあった海軍大学校で研究が始まり、同年、築地〜羽田(陸上6マイル)の通信に成功します。すぐに無線機が軍艦「武蔵」に搭載され、移動試験がおこなわれました。逓信省からアドバイスを受けた海軍省は、1902年、横須賀〜焼津(60マイル)、横須賀〜大洗(80マイル)の通信に成功。
 
 逓信省は、さらなる長距離通信を目指し、1903年、長崎県の三重崎に仮の送信所を、台湾の基隆に受信所を置き、約1200kmの通信に成功します。しかし、まもなく日露戦争が起きて実験は中止となりました。ただし、海軍省は日露戦争で無線電信に救われることになります。

 1905年5月27日、海軍に徴用されていた貨客船「信濃丸」は、五島列島沖でロシアのバルチック艦隊を発見し、三六式無線機で戦艦三笠に打電します。この情報のおかげで、日本は日本海海戦に勝利できたのです。このとき使われた暗号が、有名な「本日天気晴朗なれども波高し」です。日本は世界トップクラスの無線技術によって、ロシアに打ち勝つことができました。

日本のおもな電信局
日本のおもな電信局(『科学画報』1924年10月号)


 まもなく、世界各国は無線技術の国際的なルール作りに乗り出します。

 1903年、ベルリンで予備会議が開かれ、1906年、第1回国際無線電信会議がベルリンで開催されました。このときは日本含め27カ国が参加し、各国は沿岸部に無線基地を設置し、相互の通信を認め、また妨害を禁止することが定められました。このとき、SOSの救難信号も決まっています。ちなみに、SOSを最初に発信した船は1912年に沈没した「タイタニック号」です。

 1912年には第2回会議がロンドンで開かれ、36カ国が参加。使用する電波の波長などが決められ、世界的な無線環境が整っていきます。特に翌年のバルカン戦争を機に、各国陸軍の無線体制が急速に進化しました。なお、アメリカで初めて列車無線が実験されたのもこの年です。

マルコーニ無線電信会社
後に無線電話の特許を買収したマルコーニ無線電信会社(イギリス)


 日本は、第1回会議で締結された条約を元に、送受信基地の設置に乗り出します。
 1908年(明治41年)、千葉県の銚子に日本初の無線電信所が設置され、次いで、潮岬(和歌山)、角島(山口)、落石岬(北海道)、それとは別に「天洋丸」「丹後丸」などに船舶局が設置されていきます。

 1915年、日本で無線電信法が公布され、同年、日本無線電信機製造所(現在の日本無線)が設立されます。同社の「ニッポンラジオ式無線電信機」は初めて海外(フランス船)で使用された日本製の無線機です。日本無線は後に日本初の気象レーダーを完成させるなど、無線技術を牽引していくことになります。

 1916年、冒頭で触れた船橋送信所が作られ、ハワイのマルコーニ無線電信会社経由でサンフランシスコと太平洋横断無線が実現します。開局時、大正天皇とアメリカのウィルソン大統領が無線電話で話したと記録されています。

船橋送信所
船橋送信所


 1920年5月、世界有数の設備を持った磐城無線電信局が設立されると、ハワイ経由でニューヨークまで通信できるようになりました。1920年の段階で、日本には13の陸上局と262の船舶局が存在しています。なお、日本が無線技術に力を入れたのは、日本の海底ケーブルがすべて外国企業に押さえられていたことが大きな理由です。外国に依存せず通信できるようになることが、当時の日本政府の大きな目標でした。

 世界になんとか伍しているとはいえ、日本の国際通信体制は極めて貧弱でした。
 第1次世界大戦(1914〜18年)で日本は大戦景気に沸きますが、商談の国際電報は遅延が当たり前。溜まった電報を船で運ぶことさえありました。1922年のワシントン軍縮会議では、全権大使が日本政府の訓令を受けるのに48時間かかったとされています。

磐城無線電信局・原町送信所
磐城無線電信局・原町送信所


 1923年、関東大震災が起きると、東京・横浜との通信は途絶。磐城無線電信局では、他局の電波状況を探ることで被害状況をつかもうとします。すると、銚子局が、横浜港に停泊中の「これや丸」から送られた情報を大阪に伝えようとしていることがわかりました。磐城局では、この情報を午後11時にホノルルに送り、そこから被害状況が欧米に伝わったのです。このとき、船橋送信所も被害情報を世界に伝えています。

 さて、長距離無線に使える電波は限られているため、各国で電波の争奪戦が始まります。
 当時の大無線局はドイツのナウエン、イギリスのクリフデン、アメリカのアナポリスなどです。フランスは一時エッフェル塔に基地局を置きました。

ドイツのナウエン電信局
ドイツのナウエン電信局


 日本は磐城局のみで、さらに基地局を整備する意向はありつつ、巨額投資の余裕はありません。そこで、民間資本を活用し、1925年に半官半民の「日本無線電信(現在の電気興業)」を設立しました。

 一時は名古屋を中心にする計画でしたが、最終的な日本無線電信による電信局の構想は以下のとおりです。

【東京方面=対米】
○東京中央電信局で以下の電信所をコントロール
○小山送信所(栃木県)/福岡受信所(埼玉県)
※磐城無線電信局(原町送信所/富岡受信所)は徐々に廃止へ

東京中央電信局
東京中央電信局

【大阪方面=対欧、上海、天津】
○大阪中央電信局〜名古屋郵便局で以下の電信所をコントロール
○依佐美送信所(愛知県)/小野受信所(兵庫県)
※四日市受信所(三重県)と名古屋郵便局の電信業務は徐々に廃止へ

日本無線電信の概要図(東京)
日本無線電信の概要図(東京)

日本無線電信の概要図(大阪)
日本無線電信の概要図(大阪)


 依佐美送信所は、1929年(昭和4年)に完成した世界最大級の無線送信施設です。高さ250メートルの巨大鉄塔が8基並び、アンテナ線が張りめぐらされていました。特にヨーロッパ向けの「長波」を発信する基地です。長波は波長が長いほど遠距離まで届きますが、障害物があると弱くなるので、大きな電力で出力を上げて発信する必要がありました。依佐美送信所の完成により、4時間かかった通信時間が15分に短縮されたとされています。
 
 以上は逓信省と日本無線電信の計画ですが、海軍ではどのように考えていたのか。

 日本海軍が、船橋、高雄(台湾)に次いで作った3番目の陸上電信基地(長波)が、1922年に建設された針尾送信所(長崎県佐世保市)です。高さ135〜137メートルの3基の無線塔が現存しています。3基はおよそ300メートル間隔で正三角形になるように配置され、電線で結ばれていました。工事総額は155万円(現在の金額で約250億円)、無線塔は1本約30万円(同約50億円)でした。鉄筋にする予算はなく、4年かけてコンクリートで作られました。

針尾無線塔
針尾無線塔、底部の直径は12m、頂上部分は約3m


 1941年12月2日、瀬戸内海に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」が暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を打電します。真珠湾攻撃を命じたもので、開戦6日前のことです。

 長門からの電文は呉通信隊(広島県)や東京通信隊を経由し、真珠湾に出撃した部隊には船橋送信所から、中国・南太平洋・東南アジアの部隊には針尾から、潜水艦に対しては依佐美から送信されたとされています。

 なぜ潜水艦か。依佐美送信所の周波数は1万7442ヘルツの超長波で、これは水中20メートルくらいの深さまで到達するからです。戦前の日本では、潜水艦と通信できるのは依佐美送信所だけでした。

 依佐美送信所は、1947年にGHQから解体命令が出されますが、冷戦が激化するなか、1950年に在日アメリカ海軍に接収され、長く潜水艦通信基地として使われました。1993年に役割を終え、翌年に日本に返還されました。現在は、すべての鉄塔が撤去され、1本だけ25メートルの長さで保存されています。

周波数の増幅・調整装置(依佐美送信所)
周波数の調整装置(依佐美送信所)


 さて、大正時代に主力だった「長波」ですが、昭和に入ると「短波」が主流になっていきます。短波は、小電力でも遠距離通信できたからです。海軍は針尾無線塔の北方に短波用の第2送信所を建造しますが、こちらは、後に台風で浸水し、撤去されています。

 針尾送信所は無用の長物となっていたため、米軍は空襲用の目印として使うだけで、破壊することはありませんでした。戦後は海上保安庁に管理が移り、周辺の船舶に気象情報などを送信してきました。1997年、新たに建設された新無線塔は、高さが35メートルとはるかに小さくなりました。

 あまりに頑丈にできた無線塔は、破壊するにも巨額費用がかかるため、そのまま残されました。無線塔に入ってみると、いまも頂上まで続く階段や、アンテナ線が切断されないよう風圧に応じて重りが上下する緩衝装置(ダンパー)が残されています。

針尾送信所3号塔の内部
3号塔の内部

針尾送信所ダンパー
ダンパー(3号塔)


制作:2020年11月22日

<おまけ>

 依佐美送信所が消滅したあと、自衛隊は潜水艦と通信する超長波施設をNTT名崎送信所と共用していましたが、現在はえびの送信所(宮崎県)を単独使用しています。これが、現役では日本最大のアンテナとなっています。

 防衛省は、東千歳(北海道)、小舟渡(新潟)、大井(埼玉)、美保(島根)、大刀洗(福岡)、喜界島(鹿児島)の6カ所の通信所を管理していますが、これは通信傍受施設です。このうち東千歳はロシアの、美保は北朝鮮の、喜界島は中国の電波を主に傍受しており、そこで活躍しているのが「象のオリ」と呼ばれる円形アンテナです。
 喜界島の「象のオリ」は直径約200メートルの円形敷地に20本ほどのアンテナが設置されています。収集したデータはアメリカのNSA(米国家安全保障局)のスパコンに送られ、解析されているのです。

喜界島の「象のオリ」
喜界島の「象のオリ」
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