戦前の受験カルタ
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1454年の平安京
〜受験カルタで見る戦前の「歴史の暗記」〜
平安京遷都は1454年?
年が明けて2週間ほどすると、センター試験の時期がやってきますな。
その昔、俺も必死で歴史の年号とかを覚えたものですが、今回は戦前の受験生と今の受験生とで、実は暗記してるものがまったく違うという衝撃の(笑撃の?)事実を紹介しておきます。
本題に入る前にちょっと質問ですが、日本人なら誰でも知ってる豊臣秀吉の誕生日っていつだか知ってますか?
秀吉の誕生日はよくわかっていませんが、生年は『関白任官記』によれば天文6年(1537)、『絵本太閤記』や『真書太閤記』では天文5年(1536)となっています。そして日付は、現在では2月6日らしいとされていますが、戦前は誰もが1月1日だと信じていました。
これはいったいどうしてか?
秀吉の誕生は様々な伝説で彩られてるんですが、有名なのが
・母が日吉権現にお参りしたところ、夢で日輪が懐に入った
・妊娠から13ヵ月もたってから誕生
・誕生するときに彗星が現れ、その光(または太陽光)は家の中まで差し込んだ
・日吉権現の生まれ変わりだから、幼名は日吉丸となった
といったもの。
秀吉の一代記は小瀬甫庵の『太閤記』(1625年ごろ)が基本文献ですが、すでにこの段階で日輪の話が登場しています。その後、『太閤素生記』で天文5年1月1日生まれとされ、以後、これが定説になっていきます。実は当時、天文5年元旦生まれは大聖人であるという信仰?があったみたいで、それに当てはめた感が見え見えです。
秀吉が猿に似ていたというのも、日吉神社の使いは猿で、天文5年は申年だと考えると、どうも後に作られた伝説の可能性が高いわけです。
ちなみに秀吉の母は萩中納言という貴族の娘で、宮中に仕えた後すぐに秀吉を生んだという「秀吉=天皇の落胤」説もありますが、これはどうやら秀吉本人が吹聴した話らしく、当時の外交文書にもこうした話が実際に記述されています。
こうした秀吉伝説は、江戸時代になると庶民の間に「豊太閤(ほうたいこう)出世物語」として広く流布しますが、明治時代以降、より政治的な意味を持ち始めます。つまり、「日本躍進の英雄」として、さらに「大東亜共栄圏の先駆者」としての地位が与えられていきます。「先駆者」とは、言うまでもなく、朝鮮出兵のことです。
さてここからが本題。
僕の手元に戦前の「日本史受験カルタ」があって、日本史の年号をカルタで覚えようという珍品があるんですよ。要は「794(鳴くよ)ウグイス平安京」みたいなやつです。カルタなんですが、手札は40枚。「受験生必携 これさへあらば国史満点」とあり、全日本史の最重要ポイントがわずか40枚に凝縮されているのです。
その40枚のなかで、2回も出てくるのが家康と秀吉なんですよ。
家康は「関ヶ原」と「江戸幕府開く」の2つ。秀吉は「天下平定」と「朝鮮の役」。
秀吉の天下平定をいつにするのかは明確な定義はないですが、天正18年(1590)に後北条氏の本拠・小田原城を陥落させた小田原征伐だといっても間違いはないでしょう。
秀吉の天下平定と朝鮮の役
では、このカルタではこの年をなんと言って覚えるか?
《光秀や柴田 小田原攻め取りて 2250(日本に号令)するは秀吉》
ついでに朝鮮の役(文禄の役=1592)は
《太閤の心は広く国土(くに)狭し 2252(ふじいふ=不自由)なりと海外にまで》
これって何の数字なのかわかるでしょうか?
実は戦前に使っていた「紀元」なんです。紀元2250年が西暦1590年。つまり紀元元年は紀元前660年。
紀元についてはここでは詳しく書きませんが、要はこの年に
神武天皇
が即位したのです。
カルタでは次のように書いてあります。
神武天皇の建国と神功皇后の新羅征伐
《畝傍山(うねびやま)東南(ひがしみなみ)の橿原(かしはら)に 紀元元年 ご即位の礼》
おわかりでしょうか? 戦前の受験生は、現代の受験生とまったく違う年号を暗記していたのですよ。
平城京遷都は1370年
ついでに710年の平城京は
《元明帝(元明天皇)大和は奈良に唐様の 1370(ひとみなれ=人、見慣れ)ざる都たてらる》
794年の平安京は
《桓武帝遷(うつ)し給(たま)ひて泰平の 1454(いよいよ)つづく平安時代》
すごいっすね。
さて、前述したとおり、戦前、豊臣秀吉は日本の世界進出の先駆者とされてきました。朝鮮出兵自体、「秀吉は高麗王朝の遺臣の生まれ変わりなので、出兵は祖先の恨みを晴らす正当な行為である」という伝説がすでに1677年の段階で完成しており、これもまた秀吉の神秘性を高め、人気を集める役割を果たしました。
当然、歴史の授業では韓国併合も礼賛されます。カルタでは次のように書かれています。
韓国併合。イラストは伊藤博文?
《韓国の王民共(ども)に日の本の 438(良さや)わかりて併合を乞ふ》
と、韓国側からたっての希望で併合したとされています。
併合は明治43年8月で、その理由は、
1 日本の保護領のままでは長年の弊政が改まりにくい
2 韓国の国利民福のため、併合を望む韓国民が多い
3 韓国皇帝も併合を望んだ
4 明治天皇もその必要を認めた
と書かれています。確かに一面では真実でしょうが、現在ではさすがにここまでは教えられませんね。
ついでに日清戦争は「(清側が)朝鮮の悪政を改めようとする我が勧めを聞かず、豊島沖で我が軍艦を攻撃してきた」からとあって、やはり日本がすべて正しいという立場です。確かに豊島沖で最初に砲撃してきたのは清のようなので、間違ってはいないんですけどね。
日清戦争と日露戦争
最後に満州国建国について。
《鉄道の爆破に日本の血は燃へて 79(泣く)満州に黎明の朝》
昭和7年9月、日本が満州国承認。イラストは溥儀か?
現在では鉄道爆破は日本軍によるものだとされています。ちなみに解説記事には、満州国に対する我が国の使命として
1 満州国の健全な発達を助け
2 支那とも親しく交際して
3 日・満・支3国協同して、東洋永遠の平和をうち立てること
とあります。
教育が政治と不可分であることが、よ〜くわかりますね。
制作:2009年1月6日
<おまけ>
秀吉は慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなるんですが、その300年後の明治31年(1898)4月18、19、20日、豊国神社で盛大な「豊公300年祭」が挙行されます。
2日目の「三百年祭告示」では「明韓を合して一家と為(な)し我が皇化を億万斯年に垂れんと欲するに至りては実に空前絶後とも謂(い)ふべきなり……」とあって、この大イベントを期に、秀吉が大々的に祭り上げられていくのでした。
300年祭の神事